青い夜
空が白み始めそろそろ店仕舞いをしようかという時刻。カランと音を立てて扉が開いた。
片付けを手伝っていた十束と二人振り返ると、夜の名残を引き連れて赤の王・周防尊が帰還した。
「お帰り、キング」
「おー」
床を鳴らして店内を横切る周防の身体から、煙草の匂いに混じって微かにアルコールの匂いが香った。この香りはターキーだろうか。
月に一度くらいの割合だろうか。時折、周防は店の外で飲んで来る。草薙にも十束にも行き先を告げず、ふらりと一人で出掛ける。そして、アルコールの香りと青い夜の気配を纏って戻って来るのだ。わずかに静まった炎と共に。
「すごい顔してるよ、草薙さん」
2階へ上がる周防の背中を見送っていた草薙は、十束の声に我に返った。カウンターを拭いていた手を止め、頬杖をついた十束が草薙を見上げている。
「……は?」
「キングのこと殺しそうな目で見てた」
冗談めかした口調ながら、穏やかに微笑む瞳が草薙の表情を窺っている。その瞳は、何も考えていないようでいてすべてを見透かしているような、不思議な色合いをしていた。
「……アホなこと言いなや」
「そう?」
呆れたように草薙が返せば、十束は小首を傾げた。じっと草薙を見詰める視線に居心地の悪さを感じる。昔から十束には草薙の計算しつくした顔が通用しないところがあって、少し苦手だった。
「いや、違うか。キングじゃなくて……誰かさん。かな?」
確信めいた十束の言葉に、草薙の顔から表情が消えた。けれど、それも一瞬のことだった。
「物騒なこと言うてんと、手ぇ動かしや。さっさと片付けてまうで」
「はいはい」
草薙はすぐに平静を装い、何事もなかったかのようにグラスを片付ける作業に戻った。
「草薙さんも嘘つきだね」
背中越しに聞こえた呟きは聞こえなかった振りをした。
しんと張り詰めた夜気が肌を刺す。冷えた空気に洗われた夜空には、星が冴え冴えと瞬き、蒼い月が輝いている。
――これが十束が最期に見た景色か。
フェンスに上体を預け紫煙を燻らせていた草薙は、背後に近づく人の気配を感じた。
「情報通りですね。自分の店では騒がしくて、落ち着いて煙草を吸うこともできませんか」
やおら振り返った草薙は、声を掛けてきた相手を認めると、フェンスに凭れゆっくりと紫煙を吐き出した。
「……あんたの方こそ、こんな所で何やっとるんや」
「さて。夜の散歩でしょうか」
招かれざる来訪者は、眼鏡の奥を眇めて食えない笑みを浮かべた。どうにもこの男が相手だと腹の探り合いになってしまう。
夜の闇よりも深い海の底のような静謐な青。
対峙した男に抱いたのはそんな印象だった。
「……伏見は元気でやっとるみたいやな」
「ええ。大変優秀な部下で助かっていますよ。彼の情報収集と分析能力には目を見張るものがあります。彼にそれを教えたあなたに感謝すべきでしょうか」
「そらよかったな。で? セプター4の室長さんが自らこんな所までお出ましになって何の用や。青の王・宗像礼司」
「一つ忠告をと思いましてね。日頃、部下がお世話になっているようですから」
「……そんな暇があるなら、あの味覚破綻者の相手でもしてやれや」
溜息混じりに草薙が言うと、宗像は眉を潜めた。取り繕うように指先で眼鏡を押し上げる。
「さて、冗談はこのくらいにして。私も暇ではないのでね」
咳払い一つで雰囲気を一変させた宗像は、改めて草薙に正対した。
「周防尊を失いたくないのなら、王を降りさせなさい」
「それができたら――」
「それができないのなら、周防をこちらに渡すのです」
宗像の静かな宣告に、草薙はぐっと言葉を詰まらせた。心の内で燻っていたのもが沸き立つのを感じた。胸の奥底に押し込めて蓋をしていた感情だ。
周防が王を降りれば――。草薙とて考えなかったことではない。いや、寧ろそうできればどんなにいいかと願ってさえいた。けれど、周防は絶対にそうしないことを、草薙は誰よりも解っていた。
激情と動揺を押さえ込もうと苦慮する草薙に対して、宗像の表情には僅かな変化も見られなかった。冷ややかに草薙を一瞥して言葉を続ける。
「迦具都クレーター。先代の赤の王が引き起こした惨劇について、情報に通じているあなたなら当然に知っているはずです」
草薙が苦い顔を浮かべる。
周防の前の赤の王が引き起こした王権暴発事例≪ダモクレス・ダウン≫は、赤の王の暴走を止めようとした先代の青の王をも巻き込み、日本の地形を変えるほどの惨事をもたらした。
後に王を失ったセプター4が解散に至った経緯には吠舞羅も関わっており、事の顛末を語った前セプター4司令代行・塩津との邂逅は、草薙にとって苦い記憶でしかない。
「先代の青の王・羽張迅は、赤の王・迦具都玄示の暴走に巻き込まれて死亡したとされていますが、事の真相は実は少々異なっています。青の王・羽張は、迦具都のダモクレス・ダウンに引き摺られて自らのダモクレスの剣の安定を維持することができなくなり、暴発連鎖を防ぐために右腕であった男の手によって即死させられたのです」
サングラスの奥で草薙は目を見開いた。想像すらしなかった光景が脳裏を過り、背筋がゾクリと震えた。
「周防が力を抑えきれなくなっていることはわかっているでしょう。周防のヴァイスマン偏差は限界に近づいています。このままでは、遠からずダモクレスの剣が墜ちるでしょう。迦具都クレーターの惨劇を繰り返したくないのなら、周防を私に預けるのです。王の力を抑えられるのは王だけだ」
宗像は、静かな威圧感をもって草薙を見据えた。周防の爆発寸前のマグマのような圧力とは違う、それに匹敵する力を内在していながら、それを微塵も感じさせない海のような静けさが、かえって不気味だった。
『それでも、王に万一の事態が訪れたとき、それを止める王は必要なんだよ。――お前は、自分の王が崩れたとき、自分にできることがあると思うか?』
塩津の言葉が蘇る。
おまえにそれだけの力と覚悟があるのか。
そう問い掛ける宗像の目には、些かの揺らぎもなかった。
「あいつは俺たちを自由にするために敢えて捕まったんや」
十束を殺した犯人の捜索に出て行った八田たちを見送って、草薙は小さく息を吐いた。八田が単純で良かった。鎌本の方は、完全には納得していなかったかもしれないが。
「嘘つき」
アンナに言われた草薙は自嘲した。かつて十束にも同じ事を言われたことがある。それをアンナにまで見透かされてしまうとは、大概余裕がないらしい。
周防の力は不安定で、周期的に炎が揺らぐ。その周期は次第に短くなっていた。ここ最近は特にそれが顕著で、月に1回程度だった外で飲んで来る回数が増えていた。
王の巨大な力を宿した身体は、その力を抑えることができなくなり暴走する。
周防は、体の内側で猛り狂う炎を持て余すと、周りのすべてを焼き尽くしてしまうことを恐れて巣穴から出ていく。そして、どこかで炎を鎮めて戻って来る。
周防が抱える王の孤独を草薙が理解することはできない。
王を理解できるのは王のみ。
王を抑えることができるのもまた王だけだ。
そうでなければ、青の王に周防を渡したりなどしなかった。
「暴力」の象徴たる赤の王と「制御」を司る青の王。
その力の性質から、二人の王は互い拮抗するように存在している。
赤の王の破壊的な力を抑えるために青の王の存在があるかのように、対を成す二人の王。
互いを理解し合える数少ない相手でありながら、それ故に時としてその命を奪わなければならない。
先代の迦具都と羽張が然り、それが赤の王と青の王の宿命なのかもしれない。
草薙は近頃、周防に対する自分の認識が間違っていたと思うことがある。長い付き合いである草薙よりも、宗像の方が周防を理解しているのだろう。けれど、草薙が宗像の立場になりたいかと問われれば、答えは否だった。
周防に少しの間だけでも安心して眠って欲しい。そう願ったのは草薙だった。
「ええよ。手ぇ回しとく。ただし、これは俺とあんたの間だけの秘密やで」
タンマツから聞こえたいつもの凜とした声に、緊張と不安が感じられた。互いにナンバー2同士。対立する組織に属していても、自らの王を守りたいという思いは同じだった。
『お前は、自分の王が崩れたとき、自分にできることがあると思うか?』
また頭の中で塩津の言葉がリフレインする。それは、草薙自身の自分に対する問い掛けでもあった。
夜明けのように静寂で、夜の海のように静謐な青を湛えた男を思い出す。
宗像は、周防を翻意させる可能性をまだ捨ててはいなかった。それは、持ち得る力の差なのか、それとも2歳分の若さ故か。憎たらしいほどに崩れない表情が、プライドと意地によるものだとしたら可愛げがあると思えなくもない。
止められるものなら止めたい。けれど、草薙はもう周防に対して何も言うことができない。周防がすでに決めてしまったのなら、もう動かない。何を言っても変えられない。草薙はもうすべてを受け入れてしまっていた。
王の力の前に草薙は無力だ。ナンバー2とはいっても、王との力の差の前には、草薙の力も十束のそれと大差ない。周防が望んだとしても、先代青の王の右腕のように暴走を止められるだけの力はない。たとえその力があったとしても、草薙に同じ事ができるかといえば、否だった。
草薙にできることは、周防が進む道を作ることだけだ。たとえそれが破滅の道だったとしても――
だから、これは賭けだ。
どんなに僅かな可能性であっても回避できる道筋があるのならば、打てる手はすべて打つ。王の圧倒的な力の前には姑息な手段でしかなくとも、凡人は凡人らしく最後の最後まで足掻いてみせる。
黒と白が混じり合い青みを帯びた空を紫煙が上っていく。
夜が明ける――