12月7日23時45分→12月8日

 暗闇の中、アンナは目を開いた。
 天井との間の空間を見つめる瞳の片方には、吠舞羅の徴が浮かんでいる。
 一点を凝視しているようでどこか遠くを見ているような視線は、時折彼女が見せるものだ。
 アンナは、人には見えない別の世界が見える。それは未来であったり、人の心の内側であったり。具体的な何かが見えるわけではない。彼女は、赤いビー玉を通してそれを感じることができる。
 少しの間"どこか"を見ていたアンナは、2度3度瞬いた。徴の浮かぶ左目に小さな痛みを感じる。瞳の奥から熱が込み上げ、睫毛を震わせた。
 傍らでアンナに背を向けて眠る周防の息遣いが聞こえる。
 アンナは、その背中に縋り付くようにぴたりと身を寄せた。そうしていると、合わさったところから周防の熱が伝わり、周防の赤に包み込まれるようで安心する。
 しばらくして、タンマツの音が静寂を破った。
 緩慢な動作で起き上がった周防がタンマツを手にする。
 電話の相手は草薙だろう。タンマツに耳を傾けていた周防の表情が、たちまちに険しくなる。
 その電話が何を告げるものであるか、アンナには解っていた。
 いつか"見た"そう遠くない未来。
 できるなら永遠に訪れなければいいと願った"その時"が来たのだ。
 通話を終えた周防は、ベッドを降り、ソファーに投げてあったジャケットを手に取った。
 アンナもその後を追ってベッドを降りる。
 アンナが周防の服の裾に手を伸ばすと、いつも許されているその場所が指先をすり抜けた。

「アンナ。ちょっと出てくる。お前はここに居ろ」

 周防は背を向け、アンナを置いて部屋を出て行った。
 行き場を失ったアンナの手の先で、扉が音を立てて閉じた。

「タタラ…」

 アンナは、小さく呟いた。
 日付が変わっていた。

 十束多々良は嘘つきだ。
 十束だけではない。草薙も周防も、アンナには話さないことがたくさんある。
 アンナには、"知らないこと"がたくさんある。
 みんなアンナを子供だと思って嘘をつく。
 それは優しい嘘。
 アンナは知らなくていいことだ。そう言って、アンナの目から真実を覆い隠し、優しい嘘をつく。
 けれど、アンナは知っている。
 嘘をつかれたことにも気づいている。
 出会って直ぐに、十束の内側(なか)を見てしまったことがある。
 その内容を伝えるべきかそうでないか、迷った末に告げた時の十束の反応は、人と接した経験の少なかったアンナにとっては、想定外のものだった。
 意に沿わない"予言"をされた大人は、その絶望を怒りに変え、その矛先をアンナに向ける。
 けれど十束は、困ったように笑っただけだった。
 最初に見せた驚きの表情も、十束自身について告げられた内容に対してではなく、それを言い当てたアンナの能力についてのそれだった。
 自らの死を連想させる言葉を聞いてなお、動揺も見せず落ち着いていた。
 十束が平静を装っていたのなら、アンナにはそれが解る。十束には、そんな様子は微塵も感じられなかった。
「想定したことがなかった事態でもない」そう言った十束は、覚悟というほど大仰なものではないが、すべてを受け入れているようだった。
 一度だけ覗き見た十束の内側は、いろいろなものがごちゃごちゃとたくさん詰まっているようで、驚くほど空虚だった。
 次から次へと趣味を作った十束は、何か執着できるものを探しているようだった。空っぽの内側に詰められるものを探していた。
 そんな十束にとって心を置くことができたのが周防尊だった。その点では、十束とアンナは似ていた。

 アンナが吠舞羅に入って最初の誕生日に、十束はBar HOMRAの店内とアンナ自身を真っ赤に飾り立てた。
 真新しい深紅のベルベッドのドレスに真っ赤なエナメルの靴。草薙に結い上げてもらった髪には、ドレスと同じ生地であしらった大きなリボン。
 真っ赤に熟れたイチゴを飾り付けたバースデーケーキ。
 赤いケチャップライスを卵で包み、その上にアンナの名前と吠舞羅の徴をケチャップで描いた十束特製のオムライス。
 店内は赤い花に溢れ、ブラッドオレンジジュースの入ったグラスで乾杯をした。
 それは、アンナが吠舞羅に来てから毎年のように繰り返された。

『ねぇアンナ。明日は大きなケーキを作ろう。真っ赤なイチゴをたくさん飾るんだ!』
『赤いの?』
『赤いよー。大粒で赤くて甘いんだ』
『タタラ、オムライスも』
『いいよ。とびっきり大きなオムライスを作って、その上に真っ赤なケチャップでHappy Birthdayと書こう!』
『タタラ、歌う?』
『もちろんだとも! 楽しみだねぇアンナ』

 そう約束したのに……

 夜になって、草薙が一人で戻って来た。
 草薙は、疲れた顔をしていた。こんなにも憔悴した草薙は初めて見る。
 アンナの頭を一撫でした草薙は、自身を見上げるアンナを見下ろし、一瞬だけ表情を歪めた。

「堪忍な……アンナ…」
「ミコトは?」

 アンナの前に膝をついた草薙がアンナを抱き寄せた。

「今日は、尊は帰って来られへんわ……ホンマ堪忍やで……」

 アンナを抱く草薙の腕に力が込もる。こんな風に痛みを感じるくらいに強く草薙に抱き締められるのは初めてだった。草薙の声は震えていた。

「タタラ……嘘つき……」

 真っ赤なイチゴが乗ったケーキも、ケチャップをかけたオムライスもいらない。

――タタラの歌が聴きたい。

『ごめん……』

 草薙の肩越しに宙を見つめるアンナに、十束の声が聞こえた。