11月7日 本日貸切
気怠げに身体を起こした伏見の横顔に、カーテンの隙間から漏れた日差しが突き刺さる。起き抜けにこの光は厳しい。眩しさに顔を顰め、開ききらない目に手探りで眼鏡を掛ける。タンマツで時間を確認すると、すでに昼近い。とはいっても、伏見にとってはそれがいつものことだ。
低血圧の伏見の朝は遅い。昼ごろに起き出し、午後になってようやく活動をはじめる。テンションも体温も高い八田とは正反対だ。
同居をしている八田の姿はすでにない。
草薙が借り上げているこのマンションの一室に、伏見は八田と暮らしている。マンションには、ほかにも吠舞羅のメンバーが住んでいる。伏見と八田が吠舞羅に入ったとき、ほかに部屋の空きがなく、この部屋の間取りが2LDKだったことで、二人してここに入れられた。
陽が落ちはじめる時間になって、伏見はようやく部屋を出た。特に決まりがあるわけではないが、一応日に1度はBar HOMRAへ顔を出すようにしている。Bar HOMRAに出入りを許されている上の連中は、概ねそうしていた。
やる気のない足取りでBar HOMRAに辿り着くと、店の前に八田が立っていた。小さな身体で番犬よろしく仁王立ちする八田に、行く手を阻まれる。
「本日貸切」
「はぁ…?」
「だーかーらー、今日は貸し切りだっつってんだろーがっ! オメーは店に入んな!!」
腰に当てた左手はそのままに、右手の人差し指をビシッと突きつけられる。
この店、貸し切りなんてやってたっけ? 昨日、店に顔を出した際にもそんな予定が入っているとは聞かなかったが、急な予約でも入ったのだろうか。事情がどうであれ、伏見にとってはどうでもいいことだった。店に入れないのならば帰るだけだ。無駄足を踏んだと舌打ちし踵を返すと、八田の声が呼び止めた。
「どこ行くんだよ、猿比古」
「どこって……帰んだよ」
「勝手に帰ってんじゃねーよ。テメェ家に帰ったらまた寝んだろ? そしたらぜってー出てこねーじゃねえか。また呼び出すの面倒なんだよっ!」
「はぁ? 店に入れないんだろ? だったら用はねーし。家に帰って寝ようが何しようがオレの勝手だろ」
「うっせー! オレはオメーを店に入れんなって、そんで6時になったらオメーを連れて来いって十束さんから言われてんだよっ! 面倒くせえからテメェは6時までここにいろっ!!」
吠舞羅命の八田にとって上からの命令は絶対だ。伏見の手首を掴んで必死の美咲に、伏見は肩を落として盛大に溜息を吐いた。
八田に手を捕まれたまま二人並んで店の前にしゃがみ込むこと数十分。店の扉が開き、草薙が顔を出した。
「八田ちゃん。そろそろええみたいやし、伏見呼んだって――ってもうおったんかい!? ちょう待ってや。十束、なんやもう伏見来とるで。いけるか?」
一度引っ込んだ草薙が店内に向けて何事か確認をした後、再び顔を出し扉を開いた。
「ほなら、どうぞ――」
胸の前で恭しく腕を折り、店内へ招き入れられる。
「せーのっ!」
「Happy Birthday 伏見!」
何人もの声が重なり、パンパンとクラッカーの弾ける音。色とりどりの紙テープに襲われた。
「なっ……!?」
「驚いた? サプライズ大成功! スゴクいい画が撮れたよ。伏見の驚いた顔なんて激レアだね」
紙テープを頭から垂らし、呆然と立ち尽くす伏見の眼前にカメラのレンズが迫っていた。
「………消してください」
「やーだ」
「消してください、お願いします、何でもしますから消してください」
「ダメー」
にこにこと邪気のない笑顔を浮かべた十束は、カメラを頭の上に高く掲げて、くるくると回りながら伏見から逃げる。
「まあまあ。とりあえず主役はこっち座りや」
草薙に引き摺られた伏見は、憮然とした表情のままソファーに座らされた。もしかしなくてもこれはお誕生日席というやつか? 伏見の顔が引き攣る。
目の前には、生クリームを塗りたくり、大量のイチゴが飾られた巨大なケーキ。チョコプレートには、流れるような筆記体で伏見の名が入れられ、ご丁寧に年齢分のロウソクまで立っている。
「俺と鎌本で作ったんやで。ほないっとこか」
「………何をっスか」
「なんや、こういうの初めてか? ふーっと一息で吹き消すんやで」
煙草を口から外した草薙が、手本を見せるように紫煙を細く吐き出す。
「いや……誕生日を祝うような歳じゃないと思うんスけど」
「テメェ祝ってやろうってのに文句つけんのか!?」
顔を背けて舌打ちする伏見に、「3ヶ月半も年下のくせに生意気だ」と八田が食って掛かる。
無理矢理座らされた席で、居心地悪そうにしながら困惑した表情を浮かべている伏見は、年相応に見えた。八田と言い争う様子もじゃれ合っているようで、草薙はサングラスの奥の瞳を細めた。
「こないだまで中坊やっとった奴が何言うとんねん。誕生日くらい素直に祝われとき」
「そうそう。誕生日に年齢は関係ないよ。いくつになってもおめでたい日だよ。いいかい? ハッピーバースデートゥーユーが終ったら一気にだからね!」
「燃やしていいっスか……」
「俺が朝から1日掛かりで仕上げたバースデーケーキを消し炭にするなんて言わんよなぁ…伏見?」
草薙に頭を捕まれ伏見の顔が引き攣る。
赤く揺れる炎の向こうからカメラを構えた十束が、指揮者のように指を掲げた。
「じゃあ、みんないくよ? さんはいっ!」
赤く揺らめくロウソクの炎が吹き消され、画面が暗くなる。拍手と歓声が沸き上がり、明るくなった画面の中央で、伏見がふてくされた顔をしている。
映写機から映し出された映像の中で笑う仲間たち。その中には、今はもういない顔がある。
「八田ちゃん、何しとんの? 十束が撮ったフィルムなんか出して…」
「スンマセン、草薙さん。すぐ片付けます」
「いや、別にええねんけど」
フィルムを片付け、逃げるように去って行った八田を見送った草薙は、箱の一番上に置かれたフィルムを手に取った。
「そっか…今日やったか……」
ラベルには、十束の字で「11月7日 本日貸切」と書かれていた。