あの日の誓い ―その生徒、素行不良につき―

「―はおらんのか?」

 教壇から教師の声が空しく響く。それに応える声はない。

「ったく、またサボリか」

 中年に差し掛かった社会科担当の男性教諭は忌々しげに舌を鳴らすと、生徒達に背を向け板書を始めた。
 何事もなかったかのように授業は進められる。
 肩越しに振り向いた手塚は、窓際の一番後ろの席へ目を遣った。そこに主の姿はない。

  。青春学園中等部3年1組。素行不良。

 少なくとも、教師に「また」の一言で片付けられてしまう程度には、良好とは言えない生徒である。


はどこへ行ったか知らないか?」

 本日は自主休校と思われていただが、どうやら登校はしていたらしい。昼休みには教室に姿を見せていたのだが、手塚がテニス部顧問の竜崎に呼び出され、戻ったときにはまたどこかへ消えていた。

だったら、さっき階段を上って行くのを見たけど」

 教室の入り口で立ち話をしていた生徒が、廊下の先を指して言う。大方、屋上にでも行ったのだろう。
 青春学園中等部の校舎は、学年によって階が分かれている。1階が2年、2階が1年、そして3階に3年といった具合だ。最上階の4階には、音楽室や視聴覚室といった特別教室が並んでいる。さらにその上に屋上がある。屋上へ出る唯一の階段が、端にある手塚たち3年1組の教室の先にあった。
 黒板の上に掛かった時計を確認すると、昼休みはあと15分ほど残っていた。放課後になればますます捕まえるのが難しくなることは容易に想像できた。そもそも、放課後まで学校にいるのかさえ怪しい。次はいつ学校へ現れるのかもわからない相手だ。今を逃しては、次の機会はいつ訪れるかわからなかった。手塚は教えてくれた生徒に礼を言い、足早に教室を後にした。

「女子と一緒だったけど――って聞こえたかな…」

 親切なクラスメートの声は手塚の背中には届かなかった。


 4階から屋上へと続く短い階段はほの暗く、ひんやりと湿り気を帯びて、コンクリートと埃とカビの入り混じったにおいがした。
 生徒の立ち入りが禁じられている屋上の出入口には施錠がされている。だがは、どうしてだかいつも自由に出入りしていた。
 果たしてノブは抵抗なく回り、軋んだ音をたてて扉が開いた。
 開けた視界に鮮やかな金色が飛び込んできた。太陽の光を反射したその眩しさに、手塚は目を細めた。
 白く滲む視界の中で、金髪の後姿と向かい合った女生徒の顔がゆっくり近づいていく。ふたつが重なろうとするとき、女生徒の目が見開かれ、眩しさに慣れた手塚と目が合った。小さく悲鳴が上がる。顔を赤く染めた女生徒は、慌てて手塚の横を走り抜けていった。

「……取り込み中、邪魔をしたようだな」

 手塚がいつも通りの無表情ながら幾分眉間の皴を深くして言うと、無造作に落とされた長い金糸の間から覗いた切れ長の目が笑った。

「まったくだ」

 人工的に色素を抜いた髪を肩近くまで伸ばして一つに束ね、左に3つ、右に2つのピアス。外見からも素行からも、教師の受けがいいとはお世辞にも言えない。だが、暴力沙汰を起こしたり、この年齢に特有の無意味な反抗をしたりといった、いわゆる不良と呼ばれる生徒とは違う。頭髪、服装、授業への出席態度には問題があるが成績は良好。常に学年で10位以内をキープしていた。放っておいても、教師の手を煩わせるような大きな問題を起こすわけでもない。見た目が派手なサボリ癖がついた生徒、というのが教師たちの間で共通の認識であった。
 中学に入学するまではほとんどを海外で暮らしていた帰国子女だということも、外見や学校生活において枠から外れていることを仕方がないと周囲に思わせる一因になっていた。 
 下手に刺激をしない方がいい。教師たちは、見て見ぬ振りをすることが得策と判断した。
 そして、青学の生徒たちの間での認識は、女ったらし。
 外国の血が混じっているとも噂される色素の薄い肌。整った顔立ちは、女性的なラインを描いている。しかし、手塚とほとんどかわらない長身であるせいか、脆弱なイメージを抱かせない。細身だが綺麗に筋肉がついた均整の取れた体躯。そしてなにより、長い前髪の間から見え隠れする青みがかった眼光の鋭さが、女っぽさを払拭していた。
 言い寄ってくる女は数知れず。本人は、来る者拒まず去る者追わず。二股三股は日常茶飯事で入れ替わりも激しい。だが、さっぱりとしたこだわらない性格で後腐れなく、不思議とトラブルに発展することなくうまくやっていた。
 ただ、年齢に似つかわしくない無気力な印象と、気だるげな雰囲気が漂った大人びた生徒。
 それが、 という生徒だった。

「なんの用だよ、手塚」

 前髪を掻き揚げながらフェンスにもたれ掛かると、は着崩した制服の胸ポケットからタバコを取り出し火を灯を点けた。微かに眉を顰めた手塚は、敢えて何も言わずにおいた。はわかっていてやっている。先刻、手塚が屋上に現れたことに気づいていながら行為を止めなかったように。そんな確信犯的な行動に対して何かを言ったところで無駄だ。今はそれよりも重要なことがある。

。男子テニス部のマネージャーを引き受けてはくれないか?」

 元より小細工や駆け引きは手塚の得意とするところではない。単刀直入に切り出した手塚に、はその唐突とも思える申し出にも格別驚いた様子は見せず、空に向かって煙を吐き出した。

「おまえもその話か」

 立ち上った白い筋が空の青に滲むように消えていく。がどんな表情をしているのか、逆光になって手塚からは窺うことができない。

「バアさんにも散々口説かれたよ」
「県大会までは、乾がレギュラー陣のマネージャー役を務めてくれていた。だが、先日の校内ランキング戦で乾のレギュラー復帰が決まった。これから関東大会を勝ち抜いて全国へ行くにはサポートが必要だ」
「マネの希望者なら嫌ってほどいるだろ?」

 意地悪く言うに、手塚は溜息を吐く。

「……あいつらじゃ駄目だということくらいおまえもわかっているだろう」

 は肩を竦めてみせた。
 青春学園中等部において、男子テニス部レギュラー陣の人気は絶大だ。放課後の練習時間ともなれば、コートの周囲に幾重にもギャラリーの人垣ができ、黄色い声援が飛び交う。手塚を筆頭に、各レギュラー陣にはそれぞれファンクラブや親衛隊が組織されているという噂が実しやかに囁かれているほどだ。当然のように、マネージャー希望者は引きも切らずに押し寄せてくる。だが、レギュラー陣目当ての女生徒にまともにマネージャー業が務まるはずがない。たとえ下心のない相応しい人材が見つかったとしても、選ばれなかったその他大勢から嫉みを買い、嫌がらせを受ける虞がある。そのため、男子テニス部では女子マネージャーを置かないというのが慣例になっていた。

「それで俺なわけね」
「おまえなら――」
「おーっとストップ! それ以上は聞かないぜ」

 大きく響いた金属音と共に、手塚の言葉は遮られた。

「おまえなら、なんだよ?」

 フェンスを左手で掴んだは、僅かに高い位置にある手塚を見据え、低く声を発した。

「俺はこの話を引き受けるつもりはない。今後も一切だ。二度とくだらない話を持ってくるな」

 対峙する二人の間を引き裂くように、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響く。

「行けよ。授業に遅れたらマズイんじゃないか? 生徒会長さん」

 ひらひらと片手を振ってが手塚を促した。暗に、自分はこの後の授業に出る気はないと宣言している。手塚は、を残して屋上を後にした。
 手塚が去った後の屋上には、重い扉が閉じる音とだけが残った。はフェンスに身体を預け、ずるずると腰を下ろした。

「うぜえ……」

 吐き出すような呟きは虚空に消えた。
 その日、が教室に戻ることはなかった。


 季節は夏へ向かい、日一日と日が長くなっているとはいえ辺りはすっかり薄暗い。練習後の部室に最後まで残るのは、部誌を記入する手塚と鍵当番の大石だ。賑やかな部員たちが帰宅した後の部室に、静かにペンの走る音が響く。

「なあ、手塚」
「なんだ」
と話したのか?」

 思いがけない大石の問い掛けに、手塚は手を止め部誌から顔を上げた。

「なぜそれを知っている」
「昼休みに部のことで相談があって手塚のクラスに行ったんだ。そしたら、手塚はを追いかけて屋上へ行ったって聞いて」
「…聞いていたのか?」
「いや。そのまま自分の教室へ戻ったよ」

 だが、大石には手塚とがどんな話をしたのかわかっているのだろう。

「断られた」
「そうか。やっぱり…」

 大石の落胆の声が室内に落ちた。
 書き終えた部誌を閉じた手塚は、黙り込んだままの大石を見遣った。何かを考え込むように頬杖をついた横顔が、暮れ行く空の色を見つめていた。


 樹々の青い匂いを運ぶ初夏の風が髪を撫でる。そんな爽やかな空気とは裏腹に、珍しく自分の席にいたは、こんなことならサボればよかった、と深く後悔をしていた。嫌な予感はしていた。こういった勘はよく当たる方なのだ。

「手塚の次はおまえかよ、大石」

 あからさまに嫌な顔をするに臆することなく、大石は人好きのする笑顔を向けた。手塚は生徒会の用で出払っている。二人は廊下に場所を移した。

「考え直してもらえないか?」
「ムリ」

 穏やかな表情の大石とは対照的に、は苦虫を噛み潰したような顔で、煩わしい態度を隠そうともしない。優等生の大石と問題児のの組み合わせは珍しく、通りすがりの生徒達の興味を引いた。見るからに機嫌の悪そうなの様子に、慌てて視線を逸らす。それが鬱陶しく、なおさらの気分を下降させた。

「そこをなんとか」
「ヤダ」
「頼むよ」
「イ・ヤ」

 まったく諦めようとしない大石の執拗さに、は呆れた。

「なんでおまえそんなに必死なわけ? 手塚のためかよ?」
「手塚のためだけじゃないよ。部のためなんだ。今年は1年にもいい選手が入ってきて、行けそうなんだ。俺たちが約束した全――」
「うるせぇ、黙れ!」

 怒声と物音が廊下に響いた。何事かと周囲の視線が集まった先に、大石が倒れていた。


「ねえ、あれって大石じゃない?」
「ホントだ。大石だー。何してるのかにゃー?」

 移動教室のため廊下を歩いていた不二と菊丸は、前方に大石の姿を発見した。

「誰かと話してるみたいだね…」

 大石に飛びつこうと助走の体勢に入っていた菊丸は、不二の言葉に踏み出しかけた足を止め、前方に目を凝らした。

「誰だろあれ?」
「――、だね」
?」

 予想外の組み合わせに、二人は顔を見合わせた。
 そこへ、突然の怒鳴り声が響く。
 弾かれたように振り向いた二人の目の前で、大石の体が宙に舞った。
 の振り払った右手が、大石を突き飛ばしていた。
 普段から冷めた態度を崩さないが声を荒げるなどなかったことだ。を取り巻くピリピリとささくれ立った空気に、遠巻きに見る生徒たちは戦いた。
 駆け寄った菊丸が、大石を抱き起こした。壁に背中を打ちつけたらしく、大石の表情が痛みに歪む。

「何するんだよっ!」

 菊丸の吊り上がった目が、を睨みつけた。まるで猫が全身の毛を逆立てて威嚇しているようだ。
 は忌々しげに舌を打つと、菊丸を無視して、剣呑な眼差しを大石に向けた。

「相変わらずだな、おまえは。流石は青学男子テニス部の母と言われるだけのことはあるぜ。これからも精々部の心配をしてろよ。だがな、俺には関係ないことだ。手塚にも言ったが、二度とくだらねぇこと口にすんじゃねぇ」

 先程の怒鳴り声とは打って変わって、感情を押し殺した低く抑えた声だった。
 は、縋るような大石の眼差しを断ち切り背を向けた。
 その腕を掴み引き止める手があった。

、これはどういうこと?」

 頭一つ低い位置に、開眼した不二の視線があった。
 空気が引き連れたような緊張が走り、ギャラリーが息を呑んだ。
 滅多に拝めない開眼を至近距離にしても、はまったく動じなかった。頭一つ低い位置にある不二を見下ろし一瞥すると、掴まれた左腕を振り解き去って行った。
 静寂を破ったのは、不二の穏やかな声だった。

「大丈夫かい、大石?」
「ああ…大丈夫」

 振り返ったのは、優しげな笑みを湛えたいつも通りの不二だった。不二が差し出した手を借りて大石が立ち上がる。それを契機として時を止めていた周囲も動きを取り戻し、普段の喧騒が戻ってきた。

「大石、本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ、英二。ありがとう」

 垂れた猫耳が見えるようなパートナーに笑顔を向ける。実際、身体の方はなんともなかったのだが、実は最後のと不二の睨み合いで胃が痛くなったとは言えない大石であった。

「ねえ、と何を話してたの?」

 不意に問われた大石は、ぎこちなく笑顔を張り付かせた。

「えーっと……大したことじゃないよ」
「大したことない話で突き飛ばされたりするの?」

 挙動不審に泳ぐ目を薄く開眼した不二に覗きこまれ、大石はたじろいだ。逃れるように後ずさりしながら菊丸に助けを求める視線を送るが、菊丸も詮索の目を向けていて助けてもらえそうにない。
 万事休すかと思ったその時、忙しなく動く大石の目に菊丸が抱えていた化学の教科書が留まった。

「そっ、そうだ。そろそろ次の授業が始まるぞ。不二も英二も次は移動教室なんだろ? 急がないと遅刻だぞ!」

 ぎくしゃくした動きで片手を挙げた大石は、爽やかな笑みを残して脱兎のごとく消え去って行った。

「逃げられたね…」

 と大石が消えて行った廊下の先に視線を向けながら不二が呟いた。

ね――)

 明らかに何かを隠している大石の態度に、不二はある疑念を抱いていた。


 生徒会室から戻ってきた手塚は、3年の教室が並ぶ校舎の雰囲気が殺伐としていることに気づいた。

「何かあったのか?」
が大石を殴ったんだよ」

 手近な所にいた生徒に声を掛けて問うた手塚は唖然とした。一体どういうことなのか。なぜそんなことになったのか、事の顛末がわからず手塚は混乱した。

「それは正しくないな。大石とにひと悶着あったのは確かだけどね」

 不意に背後から、しかも頭上から降ってきた声があった。長身の手塚のさらに上から声が降ってくるなど、該当する人物はそういない。さらに、いきなり背後から声を掛けてくる人間となると、心当たりは一人しかいなかった。

「乾か…何があった?」
「手塚が生徒会室に行っている間に、大石が1組を訪ねてきてを連れ出したらしい。何を話していたかまでは残念ながらわからないが、突然が怒鳴って大石を突き飛ばしたところを複数の生徒が目撃している」
「僕と英二も偶然居合わせたから間違いないよ」

 乾の傍らには不二の姿もあった。

「何があったのか大石に聞いたんだけど、教えてくれなかったんだ」
「そうか…」

 手塚は、乾の言葉を反芻した。恐らくは昨日、手塚から話を聞いた大石が、に手塚と同じ話を再度持ち掛けたに違いなかった。

「何か心当たりがありそうだね、手塚?」

 不二の問い掛けには答えず、手塚は逆に乾に聞いた。

「…は?」
はそのまま帰ったみたいだよ」

 の席に視線を遣ると、すでに鞄はなかった。
 視線を戻せば、窺うような不二の視線があった。

「大石じゃなくて、なの?」

 不二の薄く開いた瞳から、探るような視線が投げかけられる。
 手塚は再び沈黙で応えた。


 は苛立っていた。こんなに苛立つのは久し振りだ。
 外見から考えると意外に思われるが、は怒るということが滅多にない。実際にはムカついたり腹を立てたりすることがないわけではない。だが、感情の起伏が少なく、それを表に出すということはなかった。瞬間的に頭に血が上っても、すぐに怒るだけ無駄、かえって疲れるだけだという考えが脳を過ぎる。そうなると、もうどうでもよくなるのだ。それは一種諦めのようなもので、そんなことを続けているうちに怒りという感情も薄れていった。怒りのみならず、喜怒哀楽すべての感情へと繋がる線がどうやらは鈍いらしい。
 のそんな性質は家庭環境が大きく影響していた。
 フランス人とのハーフである母親の仕事が海外を拠点にしていたため、は幼少期のほとんどをヨーロッパで育った。父親はいない。の母親は、若くして未婚のままを生んだ。父親が誰であるかをは知らない。
 母親は子供に関心がなく、母親であることを拒絶した。大勢の他人に囲まれては成長した。幼少時から大人の世界にあったことが、を大人びた少年にした。
 は、心を寄せたものが奪われることを知っている。手に入れて喜んだのも束の間、指の間から砂のように零れ落ちていくのだ。喜びの分だけ失ったときの落胆は大きい。いずれ失われるものならば、最初から期待などしない方がマシだった。は諦めることを覚えた。
 年齢不相応に「冷めている」と、凡庸な教師たちはを称する。だが、その瞳の深淵に気づく者はいない。
 来る者拒まず去る者追わず。およそ中学生には似つかわしくないの代名詞ともなったこの言葉は、の心の動きを良く表している。
 感情は「振り子」のようなものだ。
 振り子は、一度片方に振れてからもう一方へと振れる。初動の力が加わらなければ、じっと静止したまま動くことはない。
 期待した分だけ、それを得られたときの感動は大きい。逆にその大きさの分だけ、失ったときの悲しみは深い。
 振れた分だけ返ってくる。揺れ幅が少なければ、心の負担も少なくて済む。
 それを味わいたくないのなら――簡単なこと。最初の揺れを起こさなければいい。
 幼い頃に常に心に纏わりついていた喪失感からの自己防衛手段として、の感情は動きを止めた。その滅多に稼動しない怠惰な感情の僅かばかりの動きでさえ、簡単に遣り過ごす術に長けていった。
 重い重い塊になったの振り子は、容易に動かすことは叶わない。言い換えれば、 の心を動かす存在はほとんどないということだ。
 それなのに、の心を乱す存在。振り子の初動を促す力。
 わかっていたはずだ。なのにまた繰り返した。
 もう二度と同じ過ちは繰り返さない、愚かな望みは抱かない。
 そう誓ったはずなのに、また望んでしまった。
 そして失った。
 感情へと繋がる線を自ら縛って塞き止め、そうして振り子は動きを止めたはずだ。
 諦めるのは得意だ。次々と奪われる度に、そうすることに慣れているから。
 それなのに、また欲しがろうとしている。
 すべて失ったのに。もう二度と手に入らないのに。
 止まった振り子を揺り動かそうとするのは誰だ――


 6時間目の教室では、数学教師が黒板にだらだらと数式を書き連ねている。眠気と格闘しながら必死でノートをとる生徒たちの視線が黒板と手元を往復する中、は一人教科書も出さず、険しい表情で窓の外へと視線を向けていた。その様子は何かを睨みつけているようにも見え、がこの時間に座っていることに驚きを隠せなかった数学教師が板書をし続けたまま一向に振り向こうとしないのは、そのせいかもしれなかった。
 は、ただ時間が過ぎるのを待っていた。時折、手塚がこちらの様子を伺うように振り返る視線を感じる。昨日の大石との一件を聞き及んでいるのだろう。放課後を待って、なんらかのアクションがあるはずだった。それを予測して、あえて教室に留まっていた。
 そもそも、面倒なことはが最も嫌うところだ。面倒なことには関わらない、徹底的に煩わしいことは避けてきた。それなのに、向こうからをピンポイントに狙って寄ってきている。それも、いくら追い払っても諦めようとしないしつこさで。

(手塚に大石か――)

 やっかいな奴らだ。少なくとも、今のの心を乱す可能性を持っている。事実、このたった二日で、すっかりの調子は狂わされている。できればこのまま卒業まで関わりたくなかった二人だ。
 とはいえ、いつまでもこんな状態が続くのはの性に合わない。こういったことは出来るだけ早めに終わらせるのが賢明だ。放課後、すべてにけりをつけるつもりだった。
 だが、本音をいえばこのまま動きたくはない。
 できるものならこのままでいさせてくれ――。
 の陰った心情に反して空は青く、白い雲がゆったりと流れていく。
 あの時の空は夕暮れで、沈みかけの太陽がオレンジに染めていたか。
 あの日を思い出すのは久し振りだった。


 ホームルームの終了を待って声を掛けてきた手塚に、はやはり来たかと身構えた。手塚の方でもが6限の授業に出ていたことで、逃げないことはわかっていたのだろう。いつもと変わらぬ動作で鞄に荷物を詰めてラケットバックを肩に掛け、殊更急いだ様子もなくの席までやってきた。

「行くか?」
「ああ」
「で、どこで話す? また屋上にでも行くか?」
「いや…コートへ来ないか?」
「コート…」

 は躊躇した。あそこへ行くのはいつ以来だろうか。あの場所へ足を踏み入れることができるのか。
 だが、覚悟を決めるしかない。

「…いいぜ」

 二人共、決着を着けるつもりだった。


 品行方正を絵に描いた優等生でテニス部長のみならず生徒会長まで務める手塚と、見るからに素行不良な生徒、。連れ立って現れた二人の姿に、テニスコートが騒然とした。

「誰っスか? 部長と一緒に歩いてきた金髪の人」
「ん? あれは3年の先輩だな。色々と派手で結構有名人だぜ」
「ふーん。なんでそんな人が部長と一緒で、しかもコートの中まで入ってきてるんスかね」
「う〜ん…確か部長と同じクラスだったと思うけど、あんまり仲良さそうな組み合わせには見えねーなあ、見えねーよ」

 衆人注目の中、手塚とはネットを挟んで対峙した。これから何が始まるのか、固唾を飲んで見守る。

「なんでがコートにいるんだよー。俺、アイツ嫌い!」
「なにか手塚に考えがあるんじゃないかな」

 大石との一件以来、を敵と見なしている菊丸は、頬を膨らませて不満顔である。だが、不二には思うところがあるのか、静観する構えだ。

「手塚……」
「大石、ここは手塚に任せてみよう」

 不安げな表情で二人の間に割って入ろうとした大石は、乾に押し留められた。
 レギュラー陣は、コートの端に固まって事の成り行きを見守ることにした。
 片やは、周囲の様子に構う余裕はなかった。 
 もう二度と立つことはないと思っていた緑色のコートにはいた。実に1年振りだ。それまでは毎日のように足元には緑のコートがあり、それが当たり前で、足元が揺らぐことはないと思い込んでいた。
 そう、あの頃だけは。
 なぜ望んでしまったのか、信じてしまったのか。この手に留まるものはない。得たものは必ずいつか失う。欲しいものは何一つ手に入らない。欲してはいけない。わかっていたのに、なぜ手に入ると思ったのか――

。戻ってこないか?」
「戻る…か」

 は、足元に視線を落として呟いた。

「ここに俺の場所はねぇよ」

 ここだけではない。そんな場所はどこにもありはしなかった。

「ある」
「ないったらないんだよ!」

 は、吐き捨てるように言い放った。

「確かに、あの頃の俺なら充分利用価値があっただろうがな。今の俺のどこに存在意義がある? このコートで! 今の俺は…今の俺じゃもう使い物になんねぇんだよ!」
、違う!」

 手塚の腕がネットを越えて、の両肩を強く掴んだ。

「俺たちにはおまえが必要だ。おまえの存在意義はある、おまえの場所はここにある。おまえの居場所は俺たちが作る。俺たちはあの日誓っただろう。あの誓いを実現するには、誰一人欠けては駄目だ!」

 手塚はの顔を覗き込み、掴んだ肩を揺さぶって、常にない必死な様子でに語りかけた。だが、は顔を背け、それを拒んだ。
 は肩を掴んだままの手塚の手を払うと、瞳を閉じて小さく息を吐いた。次に開いたとき、それは真っ直ぐに手塚を捕らえた。

「いいぜ…手塚。勝負しようぜ。俺が勝ったらマネージャーの件はなしだ。おまえが勝ったら、マネージャーでもなんでもやってやるよ」
「だが…」
「うるせえ。やらねーんだったらこの話は最初からなかったことにする。どうすんだ? やるのか、やらないのか」

 の持ち掛けに躊躇していた手塚であったが、の決意が固いことを感じ取り、覚悟を決めて頷いた。

「…わかった。やろう」
「手塚!?」

 声を上げたのは大石だ。明らかにこれから二人が行おうとしていることを止めようとする意図を含んだ声を、は聞き捨てた。

「よーし。ただし1セットマッチな」
「いいだろう」

 元々だらしなく開いていたシャツのボタンをさらに外して、手塚から借りたラケットを軽く素振りする。グリップを握る手が疼くように痺れた。その奥から懐かしい感触が蘇り、感覚が戻ってくる。この分だと意外に早く馴染むかもしれない。

「フィッチ?」
「ラフ」

 手塚のトスでラケットが示したのは裏。

「俺がサーブね」

 はラケットを手塚に向け口角を上げて不敵に笑うと、宣戦布告した。

「手加減したらぶっ殺す!」


 先に1ゲームを取ったのはだった。

「おい。1年以上ブランクある俺相手に情けないな、手塚。さっさと調子上げて本気で来いよ」
「言われなくても本気でいくさ。おまえ相手に手加減して勝てるとは思っていない」

 手塚からいきなりゲームを奪ったに、驚きの声が上がる。

「結構やるね、あのって人」
「部長と互角に打ち合ってやがる…」
「いや、手塚が押されてるよ」

 海堂の言葉を不二が冷静に訂正した。

「驚いたな。全く衰えているようには見えない」

 3年の面々は、後輩たちとは別の意味合いで驚きを隠せずにいた。手塚と連れ立ってコートに現れたの姿に騒然としたのは、ギャラリーや1・2年だけでなく、むしろ3年の方が衝撃が大きかったのだ。
 僅かにずり落ちた眼鏡を指で押し上げながら、3年生一同の心中を代表して口にした乾に、帽子の下で越前の瞳がぴくりと反応した。

「先輩たち、さっきからあの人のこと知ってるみたいっスね」
「えっ、そうなんスか?先輩」

 思わず詰め寄った桃城に、大石と河村は困惑した表情で顔を見合わせた。

「ああ、そうか…。桃や海堂が入部した頃は既に……」

 どうにも歯切れが悪い3年生たちに、越前が決定打を打ち込んだ。

「1年以上ブランクがあるって言ってたけど、あの人テニスやってたんじゃないの?」

 核心に迫るその言葉に、3年生たちは互いに視線を交わして頷き合うと、覚悟を決めたように大石が話し始めた。

はテニス部なんだ…」

 大石の絞り出すような声が告げた真実に、後輩たちは息を呑んだ。

「ちょうど越前みたいに帰国子女で、ヨーロッパの数々のジュニア大会で優勝していた実力者だ」

 は、入部当初から部のどの先輩よりも強かった手塚とも互角に渡り合った。そんな二人は、練習でもペアを組むことが自然と多くなり、時にはダブルスを組むこともあった。二人ともシングルスプレイヤーだったが、共にオールラウンダーで力が拮抗しているからこそやりやすかったのだろう。サインプレーなどなくても互いの動きがわかり、ダブルス専門の先輩ペアにも楽々勝利するほどだった。1年生にして、手塚とはいずれ青学のシングルス1を争うと目されていた。
 それでも、青学テニス部は夏の大会が終わるまでは1年生は公式戦に出さないことが伝統になっている。今年の越前は例外中の例外で、手塚でさえレギュラー入りしたのは夏の大会後だった。そして、当然のように一緒にレギュラーに上がったが、翌年の夏の大会に出場することを、本人はもちろん誰も疑わなかった。
 だが、悲劇は影のように音もなくの足元に忍び寄り、突如として牙を剥いた。
 桃城や海堂たち新入生を迎える直前の春休み中だった。は怪我をした。最初は、直ぐに完治する程度のものだと思われていた。しかし――

「夏の大会が終わっても……は戻ってこなかった」


 の放ったスマッシュが手塚の脇をすり抜けてポイントを奪った。試合は、4-3でがリードしていた。
 大石の話に後輩たちは驚かずにはいられなかった。だが、これで手塚と互角の試合を繰り広げていることにも納得がいく。コートで躍動する姿は、とても怪我をしている選手には見えなかった。
 第8ゲームは手塚のサービスゲームだ。だが、手塚がベースラインに下がっても、は先程スマッシュを打ち込んだ位置から動かなかった。

?」

 は、左手に握ったラケットをだらりと下げ、視線をコートに落としたまま動く気配を見せない。の様子を手塚も周囲のギャラリーも訝しんでいると、は強い口調で手塚の名を発した。

「手塚。おまえ…」

 顔を上げたは、険しい視線で手塚を見据えた。ネットを挟んで両者が睨み合う構図になる。誰も口を挟める雰囲気ではなかった。無言のまま膠着状態に陥る。
 その張り詰めた空気を破ったのもだった。全員が固唾を飲んで見守る中、突然、はコートに背を向け歩き出した。

「もう止めだ、こんな試合」
「待て、どこへ行く!」

 手塚の声が後を追う。だが、は一切聞こえていないかのように、振り返ることなくコートを後にした。


 あまりにも予想外の結末にしばし呆然と動きを止めたコートは、やがて動きと音を取り戻し、ザワザワと騒めきが波のように広がっていった。

「なんであの人途中で止めちゃったんスかね?」
「手塚に負けると思ったから?」
「自分がリードしてたのに?」

 恐らくあの場に居た誰もが感じた疑問だった。不二の言葉はもっともで、菊丸は首を傾げ、桃城と顔を見合わせる。そもそも、なんとなく思いついたことを言ってみただけで、菊丸自身も腑に落ちていなかったのである。

「まさか怪我が悪化したんじゃ…?」

 心配そうな河村の声に、一同の顔が曇る。
 大石は、コートから戻ってきた手塚に駆け寄った。ラケットを手にした左腕に気遣う視線を向ける。

「大丈夫だ」

 手塚は、大石にだけ届く声で言った。周りの部員たちに気づかれないように安堵の表情を浮かべた大石は、まだ何か言いたげな視線を向けて言い淀んだ。そんな大石に、手塚は小さく頷いて見せた。

はきっと戻ってきてくれるさ。あの日誓ったんだから」
「ああ…そうだな」


 翌朝、昇降口ではちょっとした騒ぎになっていた。ちょうど朝練が終わる時間だ。不二と菊丸を伴った大石は、思いがけない人物の姿を見つけ目を見張った。だった。
 こんな朝の早い時間にが登校していること自体が既に事件だった。しかも、通学時間帯で生徒たちの往来の激しい渡り廊下の真ん中で、いかにも不機嫌ですといった表情で壁に凭れ掛っているは、ちらちらと遠慮がちに盗み見る視線を集めまくっていた。

「大石、ちょっと顔貸せよ」

 必然的にその視線の中に晒されることとなった大石は、昨日も同じような状況があったなと暢気に思い出して苦笑いを浮かべた。

「大石になんの用だよ!」

 大石を庇うように前に出た菊丸がを威嚇する。その後ろでは、不二が静かに牽制していた。が、端からあとの二人は相手にしていないである。

「おまえらには関係ねーよ」

 食って掛かる菊丸を軽く去なして、身体を預けていた壁から身を起こすと、はさっさと歩き出した。まったく大石がついてくることを疑っていない態度だ。

「不二、英二も先に教室に行っててくれ」
「ちょっと、大石ぃ!」
「大丈夫だよ」

 心配顔の菊丸を宥めるように急いでそれだけ言い置くと、直ぐに大石はの後を追った。
 人気が途絶えたところでは歩みを止め、大石を振り返った。大石は、少し困ったように人の良さそうな笑みを浮かべていた。

「昨日はありがとう」
「なんのことだ?」

 憮然と返したに怯むことなく、大石はにっこりと微笑んだ。気弱そうに見えて、実は大胆で芯の強いところがあるのだ。そういえば、昔からこいつの真っ直ぐで真摯な視線が苦手だった、と思い出す。

「昨日は試合を止めてくれてありがとう。それから、黙っていてくれたことも」
「まあ、試合に関しては俺が言い出したことだからな」

 は、ばつが悪そうに大石から視線を逸らした。

「ってことは…やっぱりなのかよ?」
には全部ちゃんと話すよ」


 朝のホームルームをサボったは屋上にいた。フェンスに背中を預けて座り、タバコを取り出す。フィルターを銜え、左手に持ったライターで火を点けようとして止めた。

「ちっ」

 毟り取ったタバコを握り潰し、コンクリートに寝そべった。
 左腕がドクドクと脈打っていた。もう一方で触れたあたりが熱を帯びている。指先までジンジンと痺れていた。

「ったく…ヤワな腕だぜ……」

 たったあれだけの時間すらもたない。日常生活には問題ないところまで回復したとはいえ、激しいプレーに耐えられるものではなかった。
 掌を広げ空に翳せば、の顔に影が落ちた。
 欲しくないものは嫌というほど与えられて、欲しいものは何一つ与えられなかった。気に入ったものは、あなたには似合わないからの一言で取り上げられた。やっと自分で見つけたテニスは、取り上げられる前に失った。
 自分が望んだものは、必ずこの手の中から滑り落ちていく。嫌というほど思い知らされた。
 何も掴めない手。
 だからもう、何も欲しないと決めた。そう決めていたのに――


 薄紅色が敷き詰められた絨毯。海外で育ったにとって、それは日本を象徴する光景だった。
 舞い降る花弁の下を通り抜け校門へ向かっていたは、耳に馴染んだ音に足を止めた。
 誘われるように顔を向ければ、鮮やかな黄色が目に飛び込んできた。桜の大樹の脇に、その大振りの枝に抱かれるようにしてテニスコートがあった。
 テニスは、物事に執着できないが唯一心を寄せたものだった。その一方で、その出会いに複雑な思いを抱えてもいた。
 中学進学に際して日本に戻ってきたのを機に、はテニスを辞める決意をしていた。テニス部に入るつもりもなかった。
 諦めた表情でコートから顔を背けたは、振り切るようにその場を去ろうとした。
 が、できなかった。
 を引き止めるように一際高く響いた音に、反射的に振り返っていた。
 鋭いインパクト音を響かせの眼前を一瞬にして横切った打球は、相手コートのコーナーぎりぎりに突き刺さった。
 の視線の先にいたのは、まだジャージではなく体操着を着た、恐らくと同じ新入生だった。

 オレンジ色に染まる空の下、ふたつの影が後ろを歩くのところまで長く伸びていた。前を歩いているのは、上級生の相手をしていた眼鏡の新入生ともう一人のテニス部員だった。

『大石君。俺たち絶対に青学を全国へ導いてやろうぜ』
『い゛っ』

 は、足を速め二人に近づいた。

『なんかおもしろそうな話してんじゃん』
『きっ、君は?』
『俺? 俺は 。おまえらと同じ1年。でもって、ついさっきテニス部に入部してやることにした』
『入部してやるって…』

 目を白黒させて大袈裟に仰け反っている坊主頭は置いておいて、表情を崩さない眼鏡の方に向き直る。

『で? 俺たちの代で全国へ行くって? 甘いな。どうせだったら全国で優勝してやろうぜ!』
『ぜっ、全国優勝!?』

 坊主頭の素っ頓狂な声が夕暮れの空に響いた。

『俺たちが3年になった年、全国制覇だ』

 今でも、あの日の空の色と三人で交わした誓いは忘れていない。 
 自分はもう一度望んでもいいのか――


「手塚、顔貸せ!」

 1時間目の授業が終わるなり教室に現れたは、手塚の名を叫んで腕を掴むと、有無を言わせず教室を連れ出した。視界の端に次の授業を行うべく階段を上がってくる教師の姿が見えたが、今はそんなことはどうでもいい。階段をさらに上へと上って行った。

「なんなんだおまえは。次の授業が始まってしまったぞ」

 屋上までやってきたものの、は背を向けたまま一言も話さない。

「用がないなら俺は戻るぞ」
「待てよ」

 行きかけた手塚を抑えた声が制した。息をひとつ吐いて向き直った手塚を、の強い視線が迎えた。

「何だ?」
「…肘」

 手塚の左腕を一瞥して、が呟くように言った。手塚は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに表情を戻すと静かに口を開いた。

「やはり気づいていたのか」
「当たり前だ。俺を誰だと思ってる」
「だが、肘は完治したぞ。先日、大石の伯父さんからお墨付きをもらった」
「んなことはわかってんだよ。肘庇って肩! 自分でも気がついてんだろ!?」

 今度こそ本当に、手塚は目を見開いた。なかなかお目にかかれない表情だ。

「そこまで見抜かれていたか」
「俺を甘く見んじゃねーよ」

 は、瞳を覆う前髪を掻き揚げ天を仰いだ。

「クソッ…こんなこと知っちまったら――」

 やはり、嫌な予感は当たってしまったようだ。

「うぜえ…」
?」
「やってやるよっ! 早く俺をバアさんの所へ連れて行け!」