タンデムシート
遠くて近い場所で規則的な電子音が響いている。それは次第に大きくなり、だんだんと近づいてくる。音の発信源は、壁一枚を隔てた隣の部屋だ。これでもう何度目か。それは、きっちり5分おきに繰り返されている。
「うるせ……」
布団から伸ばした腕がひんやりした朝の空気に触れ、眉を寄せた。手繰り寄せた携帯電話のディスプレイを薄目で確認すると、が起きる時間には少し早い。朝の微睡の時間は貴重だ。隣家の兄弟のように睡眠に執着しているわけではないが、時間との鬩ぎ合いの中であと少し、ギリギリまでベッドの中で過ごす時間が至福の時なのだ。
ここ数日で急に気温が下がり、朝、布団から出るのに少し躊躇するようになった。心地よい温もりを手放すには、気合が必要だ。
ようやく安眠を妨げる音が途切れ、もう少しとばかりに毛布を引き寄せる。再び眠りの世界に身を委ねようとした時、
「亮! いつまで寝てんの!? いくら朝練がなくなったからって、いい加減に起きないと遅刻するでしょ!!」
階下から甲高い声が飛んできた。
「……うるせぇ」
母親の金切り声が廊下に反響する。バタバタとスリッパを鳴らして階段を踏みしめる地響きが迫り、豪快な音を響かせて隣の部屋の扉が開かれた。壁の揺れを感じながらは、よくも壊れずに堪えているものだと、酷使されている扉を哀れんだ。
「ちょっと亮、聞こえてるの!? まったくこの子はっ! もうっ! 、起きてる?」
「……ああ…はよ」
これだけの騒音の中で睡眠を維持するのは慈郎でもない限り無理だ。は、観念して体を起こした。そこへ、次男を起こすことを諦めた母が顔を覗かせた。
「母さんもう出るから、亮のこと起こして学校に行かせてね。台所にチーズサンドがあるから、持たせてやって。頼むわね」
「了解。行ってらっしゃい」
完全にとばっちりだ。は一つ溜息を吐くと、ベッドに座ったまま、ボタンを見るまでもなく手元で携帯電話を操作した。数コールで聞こえてきた声は、低血圧らしくいつも通り朝はテンションが低い。
「悪いけど、今日は先に行っててくれ。ああ……亮のヤツがまだ起きなくてよ」
通話を切ると、身支度を済ませ隣の部屋へ向かった。開けっ放しの扉に一瞥をくれ室内に足を踏み入れれば、床にゲーム機が放り出してある。ベッドには、こんもりと山ができていた。まったく、昨晩遅くまでゲームをしていたからだ。
「おい、亮。いい加減に起きろよ」
布団を頭からすっぽりと被り蓑虫状態の腹のあたりを、遠慮なく足蹴にする。蓑虫がもぞもぞと身を捩る。
「おまえ、今何時かわかってるか?」
中からくぐもった呻き声が微かに聞こえてきたが、何を言っているのか判然としない。
「遅刻したいのか?」
「ん……ねむい……あと…ちょっと……」
何が「あとちょっと」だ。もう充分に遅い。こっちは貴重な安眠を妨害され被害を被っているのだ。この上、亮を遅刻させ母親の怒りを買う羽目になるなど許されない。のさほど長くはない堪忍袋の緒が切れる音がした。
「おまえを遅刻させたら俺が母さんにどやされんだよっ! いい加減起きやがれっ!!」
実力行使で布団を思いっきり引っぺがすと、しがみついていた亮がベッドに転がった。ベッドに乗り上げ、亮の身体を跨いで胸倉を掴む。文字通り鼻先が触れ合うほどの至近距離で怒鳴れば、虚を衝かれた表情で亮が目を瞬かせた。
「起きたか?」
「……おきた」
引き攣った笑顔で問えば、コクコクと首を振って亮が応えた。
「よし。おはよう」
「……おはよ」
何時如何なる時も挨拶を欠かさないのが宍戸家の教えだ。
「さっさと着替えろよ」
掴んでいた胸倉を離して、夏よりも伸びた寝癖頭を掻き混ぜた。
リビングに下りていくと、キッチンのカウンターの上にチーズサンドが包んであった。ダイニングテーブルの皿には、の朝食用のチーズサンドがのっている。サーバーからマグカップにコーヒーを注ぎ、チーズサンドを摘む。宍戸家では、どんなに朝が忙しくても朝食を抜くことは許されない。
テレビのリモコンを操作し、適当なチャンネルに合わせる。芸能人の熱愛ネタを取り上げていた朝の情報番組は、ちょうど天気予報のコーナーになった。お天気お姉さんが、必要以上に明るい声と作り笑顔で降水確率を伝える。今日は、どうやら雨の心配はなさそうだ。最近の天気予報はあまり当てにならないが、とりあえず大丈夫だろう。
画面の右上に表示された時刻を確認すれば、そろそろ氷帝まで全力疾走してギリギリ間に合うかという時間だ。
CMに切り替わると、バタバタと音を立てて亮が階段を降りてきた。
「朝メシ食ってる暇ねーぞ。そこにチーズサンドあるだろ? 持ってけってよ」
「母さん、サンキュ!」
チーズサンドの包みを手にして、トレードマークになった帽子を被ると、寝癖がすっかり隠れた。なかなか便利なアイテムだ。
鞄を担いでの前を通り過ぎた亮は、不意に足を止め、コーヒーを啜るを振り返った。
「なあ兄貴、今日バイクだよな?」
普段は、と一緒に自転車で通学しているだが、この時間まで家に居てはとても間に合わない。高校の方が登校時間が遅いとはいえ、の通う学校は氷帝よりも遠いのだ。
亮の言わんとすることを察して、は溜息を吐いた。自分もほとほと甘いとは思うが、顔の前で手を合わせ上目使いで見られると、どうにも弱い。
「しょーがねえな。特別だぞ」
家の前でエンジンを温めていると、ほどなく亮が出てきた。ヘルメットを放ってやると、ダウンジャケットを着ながら器用にキャッチして、タンデムシートに飛び乗った。
「いいよなぁ、バイク。俺も高等部に入ったら免許取ろっかな」
「それなら、コイツを譲ってやってもいいぞ」
「マジで!?」
「ああ、大型免許取ったらな」
「ホントかよっ!? あー本気で欲しくなってきたぜ!」
「おら、ちゃんと捕まっとけよ」
亮の腕がしっかりと腰に回されるのを確認して、は愛車を発進させた。
校門の手前でバイクを止めると、タイヤが止まるか止まらないかのうちにタンデムシートから亮が勢いよく飛び降りた。
「サンキュ、兄貴! 助かったぜ」
亮からヘルメットを受け取る横を、登校途中の生徒たちが足早に通り過ぎていく。校内で顔が知られた亮と、氷帝の校門前では見かけないバイクに、好奇の視線が注がれる。景吾と一緒に歩いていれば周囲の注目を集めることにも多少は慣れたが、ごく一般人の反応として、やはりは多少の居心地の悪さを感じる。
そんな視線に気づいていないのかまたは慣れっこなのか、亮は全く無頓着に、人の間を縫って走って行く。
「亮、待てよ!」
振り向いた亮に、ポケットから取り出したミントガムを一箱放ってやる。
「気が利く! マジでサンキュな。愛してんぜ、お兄様!」
「バカいってないで、早く行け!」
軽快に駆け出した弟の姿が校門に入ったことを見届けると、後輪を滑らせて半円を描き、バイクはエンジン音を残して颯爽と走り去った。