はじめてのおつかい

 めでたく新しい年を迎えた元日の夜9時少し前。芥川家のリビングでは、この家の長男であると、幼馴染兼親友の宍戸が、ソファーに並んで、テレビ前を陣取っていた。
 お隣さん同士の宍戸家と芥川家の両家族は、揃って出掛けた初詣から戻ると、宍戸家の和室に集まり、両家の母親が拵えたお節料理を前に、恒例の新年会が始まった。すっかり出来上がった父親たちはご機嫌な様子で、いつもは夫の酒量にうるさい母親たちも、この日ばかりは笑って許していた。賑やかな宴会は、今も続いている。時折、調子の外れた歌声や、笑い声がこちらまで届いてくる。
 二人が宴の席を中座したのには理由があった。今晩は、これからが気に入っている番組が放送される。自身がそう口にしたことはないが、欠かさず見ていることをは知っている。
 画面では、お馴染みのテーマ曲をバックに、幼い兄弟が手を取り合って家路を急いでいる。弟の方は涙で顔をぐちゃぐちゃにし、兄は大きな荷物を抱え、ぐっと泣くのを堪えている。母親が待つ家はもうすぐそこ。ゴールの我が家に辿り着けば、待ち侘びた母親に抱き締められ、涙を誘う感動の場面だ。
 テレビに釘付けになっているをチラリと横目にみながら、は、ある幼い日の出来事を思い出していた。


 季節は秋が過ぎ、木枯らしが本格的な冬の訪れを告げるころ。宍戸家のキッチンに面したリビングで、は対戦ゲームに熱中し、弟たちは、テーブルいっぱいに画用紙を広げ、何やら判別不能なお絵かきに夢中だった。キッチンからは、トントンと野菜を刻むリズミカルな音が響いている。今夜のメニューは、カレーだ。今夜は、景吾も夕食を共にすることになっていた。

「あっ、いっけない!」

 和やかな空気を断ったのは、と亮の母親の叫び声だった。何事かと、5つの顔がキッチンの様子を窺えば、宍戸家の母は、食材が収納されているストッカーの奥を覗き込んでいる。

「母さん、どうしたの?」
「カレーのルウがなかったわ。買い置きしてあったと思ったんだけどなぁ」

 子供たちは、顔を見合わせた。ルウがなくては、大好きなカレーは食べられない。

「ねえ、。悪いんだけど、買ってきてくれない?」
「えー」

 との対決が佳境を迎えていたは、買物に行くことを渋った。庭の樹を揺らす風の音も、を躊躇させた。もう直に日が落ちる。外は寒そうだ。

「カレーが食べれなくてもいいの!?」

 母親に迫られて、は答に窮した。抵抗をしたところで、母親には逆らえない。仕方ない、とと視線を交わし、しぶしぶ頷きかけたとき、「ハイ」と右手を挙げて、代わりを買って出る声が上がった。

「おばちゃん、おれがいく!」
「慈郎ちゃんが?」
「うん。カレー買ってくるC−!」
「でも…ねぇ」

 クリクリっとした慈郎の瞳に見上げられて、宍戸母は困り顔になった。

「りょーちゃんも一緒にいこーよ、スーパー!」
「えっ! オレもかよ? ヤだよ、外さみーし」
「けいごもいきたい」
「「「えっ!?」」」

 思わず、宍戸母、の3人の声が重なった。

「行くって…景吾もお使いに行きたいのか?」
「はい。けいごSuperいきます!」

 この時、帰国子女の景吾は、慈郎が口にした「スーパー」を、何か特別な場所だと思ったらしい。

「じゃ、3人でいこっ♪」

 話の流れで、なぜかチビっ子3人組だけで買物に出ることになってしまった。予想外の展開に少々焦りを覚えながらも、肝が据わった宍戸母は、可愛い子には旅をさせろとばかりに心を決め、小さな3つの頭の上で強い視線をに向けた。そんな母の意を汲んだ2人は、力強く頷いたのだった。


 道中の注意事項を言い聞かせながら、宍戸母は、3人それぞれにコートを着せてやった。芥川母の手製の、ふんわりとしたポンチョ風のそれは、亮は水色、慈郎は黄色、そして景吾は白という色違いのお揃いで、フードにはウサギのような耳がついている。3人が並ぶと、まるで愛らしい三つ児の子ウサギようだ。

「いい? あんたたちのは、子供用の王子様の絵が描いたやつ」
「Prince…」
「大人用のは、このメモに名前が書いてあるからね。『中』って書いたやつを買ってくるのよ。これくらいの漢字なら読めるでしょ?」
「おう」

 カレールウの名前が書かれた紙とお金を入れた財布代わりのポシェットを息子の肩に掛けながら、念を押す。

「わからなかったら、お店の人に訊くのよ」
「わかったよ!」
「それから、お駄賃に一つずつお菓子を買ってきていいからね」
「「「やった〜!」」」
「気をつけて行ってらっしゃい」
「「「いってきまーす!」」」

 こうして、意気揚々と幼馴染3人組は出発したのだった。


 そして、この2人も。
 3人から遅れること、30秒。玄関を出てきたのは、だ。

「いいか、。絶対に見失うなよ!」
「オッケー」

 チビっ子3人組と2人の兄の、“はじめてのおつかい”が幕を開けた。


 思いもかけない事態で、幼い3人だけでお使いに行くことになった。宍戸母と兄2人の心配を他所に、元気いっぱいに飛び出して行った3人は、景吾を真ん中にして仲良く手を繋ぎ、張り切って歩いていた。その後をがこっそりついて行く。
 なぜ、こんなことになってしまったのだろうか。は自問自答していた。小さな弟たちだけで行かせるくらいなら、さっさと自分が行くのだった。後悔しても後の祭りだ。
 先刻、宍戸母の強い視線が意図したところは、「後をついて行って、見張れ」ということだった。心配を押し隠し、作り笑顔で手を振りながら、は耳元で母の押し殺した声を聞いた。

『いいこと? 絶対に危ない目に遭わせるんじゃないわよ!?』

 念を押されずとも、自身もそのつもりだった。使いを頼まれたときには渋っていただが、それはそれ。チビたちだけで行くことが決まったからには、放っておくことなどできない。お兄ちゃんとしての使命感が許さなかった。
 近所のスーパーまでは、子供の足でも歩いて10分ほど。亮や慈郎は、母親と一緒に通い慣れた道だ。 と一緒に、子供たちだけで行ったこともある。だが、年長の同行者がなく、自分たちだけというのは初めての経験だった。ましてや、景吾にとっては、スーパーに行くことすら初体験で、まさに“はじめてのおつかい”だった。
 背が低い3人の横を、車が走っていく。車道と歩道の間には柵が設けてあり、危険なことはない。途中、1箇所だけ横断歩道を渉らなければならない。そこが第一の関門だった。
 3人がその横断歩道に差し掛かった。信号は赤だ。 に緊張が走る。2人が見守る前で3人は、黄色い点字ブロックの手前で立ち止まると、横一列に並んで信号が青に変わるのを待った。そして、青に変わったことを確認すると、亮と慈郎は、幼稚園で教わった通りに左右の確認を始めた。

「はい、右を見て、左を見て、もう一度右を見て。はい、よしっ!」

 景吾も二人の真似をして、きょろきょろと左右に首を振る。金色の髪が西日に反射してキラキラと光った。亮と慈郎に習って景吾も右手を挙げ、鳥の囀りをBGMに、無事に横断歩道を渉り終えた。
 その後、スーパーまでは何事もなく辿り着き、は、一先ずほっと胸を撫で下ろした。3人組は、お菓子の棚の前で、おやつ選びに夢中だ。は、その様子を隣の棚の影から窺っている。かれこれ10分になろうとしていた。

「ったく、おっせーな。いつまで迷ってんだよ」
「あっ、やっと決まったみたいだ」

 3人は、各々に菓子の箱を手にして、ようやくその場を離れた。次なる目的地を探す3人の後について、2人も移動する。肝心のカレールウがまだだ。

「カレーはどこだ?」
「Curryどこですか?」

 天井から吊り下げられた商品の陳列場所を示した看板が、小さな3人に見えるはずもない。3人は、カレールウを求めて店内をウロウロし始めた。揃いの格好で手を繋いで歩く愛らしい3人組は、店内の人目を引いた。微笑ましい光景に、誰もが買い物の足を止める。

「ん?」
「ヤバッ!」

 キョロキョロと辺りを見回した慈郎の視界に入りかけて、2人は慌てて物陰に身を隠した。

「危ねぇ…」
「危ない、危ない」

 3人に気づかれないよう一層の注意を払いながらも、は、決して彼らから目を離そうとはしなかった。鋭い眼光で母親から任された任務を忠実に遂行しようとするその姿は、犯人を尾行する刑事ドラマの主人公さながらだ。

「ねえ、
「なんだよ」
「俺たち、なんか見られてない?」

 実は、は3人を見失うまいと必死で気にもしていなかったのだが、可愛らしいポンチョのトリオをつかず離れずの距離で追いかけていく少年2人も含めて、注目の的になっていたのだ。
 周囲のことなどお構いなしで自分たちを見守っている兄たちの苦労も知らず、3人は目的の場所を探してさ迷っていた。

「えっとねぇー。たぶん、こっちだったと思う〜」
「本当かよ? ジロー」
「うん。ママときたことあるからだいじょうぶだC〜」

 3人は、慈郎に従って歩き出した。は、一抹の不安を覚えた。案の定、カレールウの売り場からは遠ざかっている。2人は、声を掛けるわけにもいかず、気を揉んだ。どうしたものかと思案していると、ちょうど2人の傍らを通り過ぎる赤い色に目が留まった。

「坊やたち、お母さんにお使いを頼まれたの?」

 赤いエプロンをした店員が、3人に声を掛けた。

「うん。夕ごはんはカレーなの!」
「そう。いいわねぇ。じゃあ、カレーのルウはこっちよ」

 店員の女性は、3人を案内して売り場まで連れて行ってくれた。実は、が、3人にカレールウの売り場を教えてやって欲しいと頼んだのだ。

「どれを買うのか、わかる?」
「うん、わかる!」
「おっ、あったっぜ!」
「Prince!」

 王子様の絵が描かれたパッケージに、景吾は瞳を輝かせた。ようやく目的の品を手にした3人は、店員に案内されてレジへ向かった。

「お使い? えらいわねぇ」

 レジ係の店員に、母親が持たせてくれたポシェットごと渡して、支払いは問題なく済ませた。レジ係の女性は、購入した商品を袋に入れてくれようとした。すると、景吾が声を上げた。

「No! じろちゃ、Ecologyです!」
「あっ、そーだ!」

 慈郎が、ポケットの中から、クマのプリントがされたエコバックを取り出した。出掛けに、宍戸母が持たせてくれたのだ。

「ありがとうございました!」

 改めて、エコバックに入れてもらった商品を受け取った3人は、元気いっぱいに声を揃えてお礼を言うと、得意気な面持ちでスーパーを後にした。
 これでお使いも、残るは帰るだけとなった。時間はかかったが、ここまでは大したトラブルもなくこなすことができた。は、行きの3人が賢く優秀だったために、この調子なら帰りも大丈夫であろうと安心していた。だが、このお使い最大の難所は、帰り道に潜んでいた。


 なんとか買い物も済んで、お使いも折り返し。亮・慈郎・景吾の3人は、2人ずつ交代をしながら、エコバックの持ち手を仲良く片方ずつ持ち、てくてくと小さな歩幅ながら、着実に家へと歩みを進めていた。は、このまま何事もなく帰り着いてくれることを願った。だが、残念ながら、2人の期待に反して、何事もなく、というわけにはいかなかった。
 帰り道の半分ほどが過ぎ、公園に差し掛かった。いつも遊んでいる公園だ。行きは、カレールウを買うことで頭がいっぱいで見向きもしなかったのだが、任務を果たした安心感もあり、元気いっぱいのチビっ子たちは、その誘惑に勝てなかった。

「ちょっと遊んでいこーぜ!」
「でも…」
「だいじょうぶだよ、けーちゃん。ちょっとだけだC〜」

 チビたちは、お使いを途中で放り出して遊び始めてしまった。そして、夢中になって遊んでいる内にいつしか日が落ち、辺りが暗くなり始めた。

「さすがに、そろそろマズくないか?」

 日が陰り、寒さも増してきた。がやきもきしていると、景吾が亮のコートの裾を引っ張って、帰りを促し始めた。

「りょうちゃ、そろそろかえりましょう」
「もうちょっと」
「でも…Mamがまってます」

 景吾のこぼれ落ちそうな青い瞳に見つめられて、ようやく亮も帰らなくてはと思い至った。

「そろそろ帰るか。ジローはどこだ?」
「じろちゃ、あっちでねてます」

 景吾がふわふわのミトンをはめた手で指し示す方を見ると、ベンチの上で、黄色いフードを被った慈郎がぬいぐるみのような様子で眠っていた。

「ジロー、帰るぞ。おきろって!」

「おれ…つかれちゃった……ねむいC……」
「だーめだって! 早く帰んないと、カレー食べれないぞ」

 亮と景吾は、なんとか慈郎を起き上がらせると、景吾が荷物を持ち、亮が半分眠ったままの慈郎を引きずるようにして、ようやく公園を後にした。

「はぁ…やっとご帰宅か」

 3人の後を追って公園を出ようとしたとき、何か嫌な気配がの足を止めさせた。

「おい、。あっち見てみろ」

 緊張を含んだの声に、前を歩いていたが振り返ると、が睨むように反対の方向へ視線を向けていた。

「なに、どうしたの?」
「あそこ。アイツ、あいつらのこと見てた」

 綺麗に刈り揃えられた低木の陰から、黒いコートが覗いている。腰を屈めて身を潜め、様子を窺っているらしい。
 「誘拐」の二文字が頭に浮かんだ。大企業の御曹司である景吾は、狙われる危険があると、親たちが話していた。その瞬間、の意識を支配したのは、誘拐犯に対する恐怖ではなく、弟たちを守らねばという使命感だった。が止める間もなく、勇敢にも黒い影の前に躍り出ていた。

「おい、おっさん! 何やってんだよ!!」
「うわっ!」

 にコートを掴まれてバランスを崩した男は、その場に尻餅をついた。

「イテテテ…。何をするんだ、
「父さん!?」
「おじさん!?」

 強かに地面に打ちつけた腰を擦っているのは、なんとと亮の父であった。

「なんで…」
「家に電話をしたら、お母さんが3人がお使いに行ってまだ帰ってこないっていうから、様子を見に来てみたんだよ」
「マジかよ…。本気でビビった…」
「ごめん、ごめん。2人とも頑張ってるみたいだったから、声を掛けないでおこうと思って」

 は、見慣れた父の穏やかな笑顔に、ほっと息を吐いた。全身の緊張が解け、へたり込みそうなところをなんとか踏ん張った。掌がじんわりと汗ばんでいる。思い返せば、自分は随分と無茶なことをしたのではないか。これが本物の誘拐犯だったらと思うと、ぞっとした。同時に、弟たちの身に何事もなかったことを、心の底から安堵した。
 一方、3人組はというと。慈郎が眠ってしまわないように、歌いながら家を目指していた。ようやくゴールである家が見えてくると、3人は小走りになった。

「「「ただいまー」」」

 お使いの任務を果たした3人組は、誇らしげに玄関の扉を開いた。

「お帰り」

 宍戸母は、帰りが遅いのを心配して、玄関で待っていた。

「ちゃんと買ってきたよ!」
「ありがとう。えらかったわね」

 一人ずつ頭を撫でられて、3人は照れたように頬を染めて顔を綻ばせた。

「ただいま」

 そこへ、3人の背後で再び玄関のドアが開き、宍戸父が帰宅した。

「おとうさん、おかえり!」
「おじちゃん、おかえり〜」
「おかえりなさい」
「3人でどこか行ってきたのかい?」

 宍戸母と目配せをしながら問うと、亮と慈郎は、待っていましたとばかりに、口々にお使いの報告を始めた。2人が得意気に話して聞かせている中、景吾は、何かを探して瞳をキョロキョロさせた。

「おにいちゃんたちはどこですか?」

 問われた宍戸母は、ギクリとして視線を泳がせた。まさか、2人が尾行をしていたとは言えない。2人がこの場にいない言い訳をどう取り繕おうかと考えを巡らせていると、奥から息を切らせた2人が現れた。

「よう、おかえり」
「おかえりー」

 は、尾行をしていたことがバレないように、わざわざ芥川家の玄関から帰宅して、大急ぎで庭を回ってきたのだ。

「おれたち、ちゃんとおつかいできたぜ!」
「おう、よくやったな」
「おにいちゃんたちのsweetsかってきました」

 お菓子売り場で長々と時間を掛けて迷っていたのは、兄たちの分のお菓子も選んでくれていたからだったのだ。は、様々な苦労や疲れも忘れさせる小さな優しさに感激した。


「いただきまーす」

 子供たちの元気な声が重なって、夕食が始まった。この晩、宍戸家のダイニングには、芥川一家も集まって、食卓を囲んだ。
 実は、大人用のルウを買うのをすっかり忘れていたので、大人も子供向けの甘口カレーを食べる羽目になってしまったのだが、それはご愛嬌ということで。3人は、自分たちで買ってきたカレーを、お腹一杯になるまで頬張ったのだった。



 テレビ画面では、番組のエンディングを迎えていた。

『この番組の撮影スタッフの人って大変だろうなぁ』

 エンドロールに流れる名前を眺めながら、かつての自らの体験を鑑みて、は番組スタッフの苦労を思い遣った。
 ふと隣を伺えば、がこっそり腕で涙を拭っていた。

「あいつらも大きくなったよなぁ」
「ふん、まったく可愛げがねーよ」

 目尻の辺りが薄っすらと赤くなっているのには、気づかない振りで。