鬼の霍乱

 起床時刻を報せる携帯電話のアラーム音がどこか遠くに響く。鳴り続ける機械音が耳鳴りのように反響し、いつもより不快に聞こえた。次第にボリュームを上げて迫ってくる音に無理矢理に意識を覚醒させられたは、身体を起こそうとして全身を覆うだるさを感じた。起き上がることはおろか、手を伸ばして耳障りなアラームを止める動作すら億劫だった。

(あーなんか頭痛てぇ…)

 鉛をぶつけたように頭の奥が鈍く響き、瞼の裏が熱い。声に出したはずの呟きは、掠れて音にならなかった。


 急激に気温が下がった1週間ほど前のこと。が風邪をひいた。幸いにも3日ほどで全快したのだが、今度は同じ家に住む慈郎を飛び越してお隣さんの亮を沈めた。
 そして今朝。
 が沈んだ。
 昨日から少し喉の調子がおかしいと感じていたが、どうやら本格的に風邪らしい。この分だと熱があるのだろう。吐き出した息が熱かった。

「やった! 全快だぜっ!!」

 隣から聞こえた爽快な声に軽く殺意を覚える。

(完全に移された…)

 昨日まで寝込んでいた亮を、仕事のある母親に代わって看病していたのはだ。
 日頃、病気とは無縁に生きている亮は、一旦発熱すると極端に弱る。子供のころから、熱を出す度に脱水症状を起こしてぐったりとしていた。熱に浮かされ、真っ赤な顔をして布団に包まり唸っている亮に、小まめに水分を取らせてやったり薬を飲ませたり、汗を拭いて着替えさせたり氷枕を取り替えてやったりと、甲斐甲斐しく世話を焼いた。子供のころからそんな調子だったから、母も「お兄ちゃんに任せておけば安心ね!」と完全にに任せきりだった。
 今回も、薬の前に食事を取らせたり、アイスノンやティッシュの箱を運んでやったり。普段はどんなに生意気な弟でも、弱っている姿を見れば放っておくことなどできないだ。夜中に様子を見に行ったら熱も下がり、呼吸も穏やかになっていたので、安心して布団に入ったのだった。
 そんな兄に対する恩を仇で返しやがって。に悪態をつかれているとは露ほども知らず、亮が顔を覗かせた。

「兄貴、いつまで寝てんだよ。母さんがいい加減に起きろってよ」

(でかい声出すな…頭に響く……)

 文句を言ってやりたいが、やはり声が出なかった。喉の奥が熱を持ち、息を吸い込む度に胸が痛む。

(あーマジでこれはヤバイ……)

 頭の中が白く霞み目が回る。

「おい…兄貴?」

 兄の異変に気づき足早にベッドに近付いた亮が乱暴に布団を捲り上げた。にわかに冷気に晒され、は自らの身体を抱えた。顔を上気させ苦しげに眉間を寄せた兄の姿に、亮の目が見開かれる。

「母さん、兄貴がっ!!」

 剥ぎ取った布団を押し付けるようにしてに被せ、大声で母を呼びながら慌てて部屋を飛び出して行く。

(……だから頭に響くっつーの)

 熱を出すなんていつ以来だろう。確か小学生のとき以来だ。遠くなっていく足音を聞きながら、は力なく瞼を閉じた。


(――なんだ? ……重い…)

 身体に圧し掛かる重みでは目を覚ました。懸命に頭を持ち上げて見ると、腹の上に3つの小さな頭が乗っている。

『――!? 亮、慈郎、景吾、起きろよ! ここにいたらだめだって言っただろ!』

 やっと声が出せた――と思ったら、自分の声とは違っていた。随分と声が高い。まだ声変わり前の子どもの声だ。3人の肩を揺さぶる手も小さい。
 ああ、そうだ。これは小学生のときだ。
 幼いころの記憶が蘇る。風邪を引いたは、学校を休んで寝込んでいた。
 ぼんやりと目を覚ました3人は、眠い目を擦りつつの布団に縋りついた。

『やだ! 兄ちゃんと一緒にいるっ!!』
『風邪がうつるから俺に近寄るなって母さんに言われただろ。出てけ!』

 今朝も3人は、自分たちも学校を休むと言って聞かず、力ずくで登校させられていた。帰宅してからもの傍を離れたがらず、母親に叱られ部屋から追い出されていた。

『やだよ〜!!』
おにいちゃんといっしょにいます』
『だめだって! 頼むから離れてくれよ……』

 どんなに言い聞かせても、3人は小さな手での布団を握り締め、頑として離れようとしない。頬に涙の筋を描きながら、ますますの身体にしがみついてくる。無理矢理に引き剥がそうとするが、懸命な3人の力は思いのほか強く、熱のせいで力が入らない。
 弟たちの温かな体温を感じながら、は途方に暮れた。弟たちに風邪をうつすわけにはいかない。小さな身体にこんなに苦しい思いをさせることなどできなかった。

『――お母さん!』

 いよいよ一人ではどうしようもなくなったは、母親を呼んだ。息子の切羽詰った声に驚いた母親は、慌てて飛んで来た。

、どうしたの!? ――あんたたち、なんでここにいるの! お兄ちゃんの傍にいちゃだめだって言ったでしょ』
『亮たちが出てってくれないんだ。だめだって言ってるのに……』

 母の顔を見た安堵と熱のせいで混乱して、涙が滲んできた。弟たちの前ではお兄ちゃんとして振舞っているが、だってまだ小学生なのだ。
 泣き声を上げながら、3人が部屋の外へ連れ出されていく。

(ごめんな。風邪なんかすぐに治すから……ごめんな………)

 弟たちの鳴き声の三重奏をBGMに、は夢現を彷徨った。時折浮上する意識の狭間で、小さな物音と囁き声を聞いた。

『ちょっと、この子たちは。ちょっと目を離した隙にまたこんなところで。自分たちが風邪ひいちゃうでしょ、まったく』
『少しでもお兄ちゃんの近くにいたかったのね。部屋に入っちゃだめだって叱られちゃったから、お部屋の前に座っててそのまま寝ちゃったのね』

 ドアの向こうに温かな気配を感じる。安心感に包まれながら、は眠りについた。


 目を覚ましたは、幸福感に包まれていた。
 気分はだいぶ良くなっていた。どれくらい眠っていたのだろうか。部屋の中は薄暗い。境界が曖昧に感じられるほど、夢の中と同じ空気が流れていた。
 室内に人の気配があった。

「亮、そこにある水取ってくれ」

 差し出されたペットボトルを受け取り顔を上げると、そこに居たのは制服姿の景吾だった。

「…景吾?」
「気分はどう?」
「ああ…だいぶよくなった」
「よかった。――熱は下がったみたいだ」

 前髪を掻き分けて額に触れた手が、ひんやりと心地よかった。そこへ、盆を手に亮が現れた。

「兄貴、メシ食えるか? 母さんが昼飯にお粥作ってたから温めてきたけど」
「ああ、食う。サンキュ」

 朝から今まで眠り続けていたから、気がつけば腹が減っていた。小鍋から立ち上る甘い香りにそそられる。
 亮は粥をれんげで掬うと、ふーふーと息を吹きかけた。

「ん」

 それを当然のようにの口元に差し出す。無意識に口を開きかけたは、我に返って目の前のお粥を見つめた。横目で景吾の様子を窺うが、この行為を疑問に思っている風はない。は、ガックリと項垂れた。確かにそれは、亮が幼いころから自身がやってきたことではあるが。この歳になって、しかも男兄弟でそれはどうだろう。

「……おい」
「口開けろよ」
「自分で食えるっつーの!」
「あっそ」

 あっさりとれんげを手放した亮から椀を受け取り、卵粥を口に運ぶ。優しい甘みが口に広がる。
 は、口元を綻ばせた。

「…どうかした?」
「そのお粥そんなに美味いのか?」
「いや。さっき、夢を視てたんだ」
「どんな?」
「――懐かしい夢。ガキのころのな」