お受験だぜっ!

 家の弟の亮と、お隣さんの芥川クリーニングの次男・慈郎、そして日本有数の大企業である跡部グループの次期総帥・跡部景吾の幼馴染3人組は、幼稚舎から氷帝学園に通っている。 一方、俺と芥川クリーニングの跡取り息子であるは、小・中・高と公立校。現在、都立高校の2年。 なぜ、幼馴染3人組だけ私立の氷帝学園に通っているのか。 その理由はもちろん、幼馴染の一人が世界に通じる大企業の御曹司であったことが関係しているわけだが、それにはとある事情とちょっとした騒動があった。


「えっ?」
「だーかーらー。明日から兄ちゃんたちは小学校で、オレとジローは幼稚園なんだよ!」

 夏休みということもあって、出会いの日から景吾は、毎日のように宍戸家もしくは芥川家に遊びに来ていた。朝食を食べたら車で送られて来て、お昼を食べておやつを食べて、夕方になると迎えが来て帰って行く。人見知りをしていたのも最初だけで、景吾はすぐに亮や慈郎と仲良くなり、日除けにと被せられた帽子をトレードマークに、庭や近所を駆け回るようになった。
 それは、夏休み最後の日。この日は家で、俺とも一緒にリビングでおやつを食べていた。今日のおやつは、芥川家特製のマドレーヌだ。俺とは、最後に残っていた夏休みの課題をようやく終わらせて、やっとおやつに在りつけた。午前中から机に齧り付いていた疲労を感じながら、なんとか終わったことに安堵してマドレーヌを頬張る。向かいのソファーに並んで座っている3人組は一足先に食べ終えていて、次は何をして遊ぶかなんて相談しているみたいだったが、不意に景吾がきょとんと小首を傾げた。そんな景吾に、亮が少し苛立ったように声を上げて、慈郎は床に届かない足をジタバタさせて駄々を捏ね出した。

「幼稚園に行ったらけーちゃんとあそべないー。おれ、幼稚園行きたくない〜」
「りょうちゃとじろちゃがよーちえんにいったら、けいごとあそべないの?」
「だって、景吾は幼稚園に行かないんだろ? だったら遊べないぜ」

 何気ない亮の返答に、景吾の大きな瞳が零れ落ちそうなほどに見開かれて、次いで長い睫が悲しげに伏せられた。その表情を見て、流石に亮もはっと気がついて困った顔になる。俺とは、どうしたものかと顔を見合わせた。リビングと続きのダイニングを窺うと、母さんはおやつを届けに来たおばさんとのおしゃべりに忙しいみたいで、こちらの様子には気づいていない。このままでは景吾が泣いてしまいそうで、どうやって慰めようかと考えていると、バタバタとソファーを蹴っていた音が急に止まって、慈郎がぱっと顔を上げた。慈郎は、とっても良いことを思いついたとばかりに満面の笑みで、得意気に口を開いた。

「そうだ! けーちゃんも幼稚園に来ればいいよ!」
「けいごもよーちえんいくの?」
「そう! 幼稚園はみんなでお昼寝するんだよ♪」
「それはジロだけだろ! おまえはお昼寝ばっかだな。幼稚園は、じゃんぐるじむとかするんだよ!」
「じゃんぐるじむ?」
「あとね、お歌うたったり、お遊戯もするよ!」
「けいごもよーちえんいきたい!」

 景吾の青い瞳がキラキラと輝いた。3人は、ソファーからぴょんと飛び降りて、母さんたちの所へ駆けて行った。

「ねぇねぇ、お母さん。けーちゃんも幼稚園行くって! いいでしょ?」

 ダイニングテーブルの椅子に座るおばさんの足下に慈郎が縋りつき、6つの期待に満ちた瞳が見上げた。お互いに顔を見合わせた母さんとおばさんが、困り顔になる。

「困ったわね…。景吾くんのお母さんが、まだ日本の生活に慣れてないから、小学校に入るまではお家にいさせるって」
「えーっ! じゃあ、小学校になったらいっしょに行ける?」
「それがね、亮たちはお兄ちゃんたちと同じ学校に行くけど、景吾くんは氷帝学園に入れるんだって」
「なんで、どうして?」
「うーん、難しいわねぇ。景吾くんのお父さんのお仕事の関係でね」

 氷帝学園といえば私立の名門、それも良家の子女が通うことで有名な、いわゆる金持ちのお坊ちゃま校だ。そんな学園の特性上、お預かりしている大切なお子様たちに何かあっては事だと、安全面には細心かつ最大限の配慮がなされ、高い金をかけて最新鋭のシステムによる厳重なセキュリティーが敷かれている。景吾の父親は跡部グループの現総帥、祖父は会長で、一人息子の景吾は跡部の唯一の後継者だ。身代金目的の誘拐の可能性も含めて、その身が狙われる危険性が付き纏う。より安全な学校へ通わせようとするのは当然のことだ。だが、亮たちには大人の事情なんて理解できるはずもない。

「じゃあ、おれも氷帝に行くっ。りょーちゃんも行こ!」
「おう、いいぜ」
「亮、氷帝は試験に受からないと入れないんだぜ」
「えっ!? それマジかよ、にいちゃん」

 氷帝は、単なるお坊ちゃま校ではない。金さえ積めばなんとでもなる三流私立とは違い、進学校としても名高い。氷帝幼稚舎の入試は、難関として知られていた。

「おれ、おべんきょがんばる! りょーちゃんもがんばろっ」
「お、おう」
「いっしょにおべんきょがんばります!」


 そんなわけで、我が家も急遽お受験戦争に参戦することとなった。
 “お受験”なんて縁も所縁もなかった家がお受験戦線真っ只中となってからの数ヶ月。それからは、親も本人たちも相当に大変だった。それこそ、お受験ママとそのための塾に通うなどした子供たちに立ち向かうのだ。景吾の家庭教師に教えてもらったり、連日母さんのスパルタ特訓が行われたりした。そして、それに付き合わされた俺も災難だった。亮に関して言えば、礼儀作法、特に言葉遣いを直すのが大変だったことは言うまでもない。慈郎にいたっては、面接の間起きていられるかが大問題だった。しかしながら、亮も慈郎も、大人しく勉強するのは大の苦手の二人にしては驚くほどの頑張りをみせた。ただ、景吾と一緒の学校に行きたいという一念だけで。
 そんなこんなで翌年の春。3人揃って氷帝学園幼稚舎に入園を許されたことは、もはや奇跡としか言いようがない。密かに俺は、裏で跡部家が動いてくれたんじゃないかと憶測しているくらいだ。
 何はともあれ、入園式の朝、揃いの制服で並んだ3人は愛らしかった。紺のブレザーに短パン、胸元には赤いリボンタイ。背中には、まだやたらと大きく見えるランドセル。頭には、ブレザーと同じ色の帽子。生粋のお坊ちゃまである景吾は別にしても、亮も慈郎もそれなりに見えるから不思議だ。馬子にも衣装ってやつで、髪を伸ばし始めたばかりの亮にも良く似合っていた。このとき校門前で撮られた写真は、それぞれの家に配られた。


、またその写真見てんの? このときの3人、可愛かったよなー」
「このときは可愛かったのに…」

 そうして俺は、また溜息を吐く。