夏の欠片
夏が終わった。
氷帝学園は、関東大会で敗れた青春学園と準々決勝で再び対戦したが、リベンジを果たすことは叶わず、結果はベスト8に終わった。
思えば、亮がレギュラーから落ちたり復帰をしたり、氷帝が関東大会一回戦で姿を消したり開催地枠で復活したりと、様々なことがあった。まるでジェットコースターさながらの、密度の濃い夏だった。
激闘の熱もようやく収まりつつある。
けれど、それは胸の奥で小さな炎となって燻っている。まるで太陽の欠片でも飲み込んだかのように。
それは、夏の残り火とでもいうような――
全国大会終了後、宍戸家と芥川家と跡部家の3家族は、遅い夏休みを楽しみに跡部家の別荘を訪れた。残暑の厳しい東京とは違い、避暑地の澄んだ空気は涼しく、日に焼けた肌に心地よかった。高い夏の空には太陽が白く輝いている。
あんなに散々テニス三昧の日々を送っておいて、やっぱりこいつらは相変わらずテニスばかりで。夏の終わりの太陽を反射するコートでは、亮と慈郎が飽きもせずに黄色いボールを追いかけている。学生時代はテニスサークルで慣らした親たちも、午前中は一緒にテニスを楽しんでいたが、そんな息子たちに呆れ果てて先に別荘へ戻って行った。寄る年波には勝てないといったところなのかもしれない。今ごろ母親たちは夕食の準備に取りかかり、父親たちは少し早い晩酌を始めているだろう。今晩のメニューは、お決まりのバーベキューだ。これも恒例になっているスイカ割りに使う大玉のスイカの用意も抜かりない。
少し離れた木陰に座りコートを眺めると、慈郎がボレーを決めたところだった。審判を務めるのコールが掛かる。つい先程までここで居眠りをしていたところを叩き起こして、代わりにコートへ追いやってやった。
慈郎のボレーに今度は亮が追いついて、二人の勝負はタイブレークに突入した。不意に影が差して視線を移すと、こちらへ向かって歩いてくる景吾の姿があった。
「おまえはもういいのか?」
「ガキ2人の相手は疲れる」
そう言って、肩をすくめてみせる。太陽を背に近付いてくる姿は、逆光で表情はよくわからないが、少し大人びたような気がする。
「景吾、背が伸びたか?」
「さぁ、どうだろう。そうかな?」
幼馴染3人組の中で一番遅く生まれ一番小さかった景吾は、いつの間にか一番背が高くなった。
いや、景吾だけではない。中学最後の夏を終え、このひと夏の間に3人とも一回り大きくなったようだ。
「なぁ、兄さん」
隣に腰を下ろした景吾が、改まった口調で切り出した。
「俺さ――」
長いようで短かった夏休みも終わり、2学期の授業が始まった。今年も最後まで片付かなかった亮と慈郎の夏休みの課題は、景吾の助力もあってなんとか提出にこぎつけた。最早、毎年お馴染みの光景となってしまっている、合宿さながらの最後の3日間は地獄絵図だった。
8月の終わりに一時下がった気温は、カレンダーを捲ると同時に再び上昇し、今年も厳しい残暑に見舞われている。空調の効いた私立の金持ち校である氷帝とは違い、冷房なんてものは設置されていない公立校の生徒にとっては、授業を受けるにもなかなか辛いものがある。
夏の大会を最後に、亮たち3年生は事実上テニス部を引退した。エスカレーター式の氷帝学園では、受験を控えた公立校とは違い、夏の大会後、外部受験をする生徒以外の3年生の部活参加は自由になる。ほとんどがそのまま高等部へと進学する氷帝では、あまり受験色は強くない。その代わり、冬休み前に内部進学の選考試験がある。無事に高等部への進学が決まれば、高等部の部活動に参加できるようになる。そのため、夏を境に代替りをすることが慣例となっていた。氷帝テニス部も、秋の新人戦に向けて2年を中心とした新体制へと移行し、亮たち3年の旧レギュラー陣は部活のない放課後に慣れずにいた。
ぽっかりと空いた時間を埋める術を持たずに持て余していたころ、その報せは届いた。
青学の1年・越前リョーマが、全国大会決勝の3日後、アメリカに渡った。
それは瞬く間に関東中の中学テニス部に知れ渡り、少なからず衝撃を与えた。
だが、景吾だけは予想していたのかもしれない。
『おそらく手塚も、卒業後はドイツにでも行くつもりだろうな』
そう静かに言った景吾は、どんな想いでその報せを聞いたのだろうか。
季節は少しずつ秋へと向かっている。
亮は、少し髪が伸びた。高等部ではシングルスとして再スタートだと意気込んでいる。気合を入れるのはいいが、その前に高等部へ進学できなければ話にならない。学内の進学試験に向けて目下、景吾による猛特訓が繰り広げられている。
隣の芥川クリーニングの兄弟も相変わらずだ。最近は、店先で慈郎の姿をちょくちょく見掛けるようになった。兄弟揃って店頭で仲良く寝こけていることも度々で、ちょっとした名物になりつつある。微笑ましい光景ではあるのだが、店番の役目を果たせているかは甚だ疑問だ。
俺はといえば、特に何も変わりはない。来年、18になったら車の免許を取りに行く予定だ。
夏が終わった。
この夏の欠片は、いつまでも胸の片隅に刺さったまま抜けることはないだろう。
この夏を、きっと忘れない。