掌
フェンスを握る掌にじっとりと汗が滲む。腕が戦慄き、ギリギリと爪が食い込んだ。強くフェンスを握り締めたのは、自分を抑えるためだった。
「景吾…」
フェンスの向こう側には、コートに立ち尽くす景吾の姿。俺は今にも飛び出そうとする自分自身を必死で抑えていた。
開け放った窓から、夕刻になってようやく出てきた風と共に翌日の試合予定を告げるアナウンスが流れてくる。アリーナから隔絶した医務室は、ついさっきまでのスタンドの興奮が遠く感じられる。
ベッドの脇に置いた丸いパイプ椅子に腰掛けて、横たわる景吾の顔を見つめた。その顔はいつも以上に白く、色を失った唇は少しかさついていた。脱水症状を起こしていたのだから無理もない。体力のある景吾がここまで消耗するとは、あの試合がいかに激しかったか知れる。
弁慶の立ち往生を体現したかの如くコートに立ち尽くしたまま気絶した景吾は、試合の終了を聞くことなく医務室に運ばれた。
点滴をしてしばらく休めば目を覚ますと言った医師の言葉にほっと胸を撫で下ろしながら、気に掛かるのは景吾の心だった。
テニス部顧問の榊先生は生徒の引率があるということで、この場は俺と祐慈が付き添うことになった。
景吾の側に居たがる正レギュラー陣(特に慈郎はベッドに齧りついて離れなかった)を追い出したのは俺だ。目覚めたときの景吾の心情を考えて、その方がいいだろうという判断だった。
『おまえらにはまだ他にやることがあるだろう』
そう言うと、はっと我に返った亮たちは、駆け足でコートへ戻って行った。今頃3年生たちは、部長の不在に動揺する部員たちを景吾に代わってまとめているはずだ。
ほんの1時間前まで歓声の中心にいた景吾が、静寂の中にある。穏やかな呼吸に安堵しながら、腕に刺さった点滴の針が痛々しい。
身動ぎをした景吾の髪を梳いてやろうと伸ばした手が、空中で行き場を失った。枕の上に散っているはずのそれがないことに、改めて事実を突きつけられて愕然とする。
亮たちが医務室を引き上げてからしばらくして、青学の部長と副部長が例の1年を連れてやって来た。
『ねえ、あの人が目を覚ましたら言っといてよ。またやろう、って』
副部長に頭を押さえられながら、青学の1年は悪びれた様子もなく生意気な視線を向けた。正直、殴ってやりたいところを懸命に堪えた。景吾も売り言葉に買い言葉だったとはいえ、試合後にあのガキがやったことを許すことはできない。けれど、目を覚ました景吾にそれを伝えたら、きっと同じことを言うのだろうと思った。
「…兄さん?」
うっすらと開いた瞼から覗いた青い瞳が、周囲を認識しようと彷徨う。覗き込んだ俺の顔を確認して安心したのか、深く息を吐いた。
「ここは…?」
「医務室。監督さんたちはまだいろいろとやる事があるらしいから、俺たちが代わりにな。喉が乾いただろう? が今、飲み物を買いに行っている」
「そうか。俺……」
負けたんだ。
唇の微かな動きで形作った言葉は、音にならず白く波打つシーツに落ちた。
「がんばったな」
そっと置いた掌に、切りっ放しの短い毛先がチクリと痛かった。