夏祭り
昼間の茹だるような暑さも太陽が隠れ少し和らいできた。夕闇の中、ゆるやかな風に乗って太鼓の音が聞こえてくる。
芥川母の手で浴衣を着付けられた亮、慈郎、景吾の3人は、祭囃子に心惹かれ落ち着かない。しきりに母親たちに纏わり付き、早く早くと急かす。
「はい、できた。男前♪」
背中で黒い帯を結び終えた芥川母は、の身体を反転させ正面から全身をじっくり眺めた。紺地に絣調の縞模様の浴衣に身を包んだの姿に満足げに頷く。
シャワーを浴びたての肌に、パリッと糊の効いた生地が心地よい。
ふと視線を感じて顔を上げれば、芥川母の背後から6つの瞳がに向けられていた。亮と慈郎は縋るような瞳で、景吾はうっとりしたようにを見つめている。まるで千切れんばかりに尻尾を振って散歩を強請る犬のようだ。はたじろいだ。
そんな息子たちの様子に、宍戸母は呆れた素振りで腰に手を当て大仰に溜息を吐いた。
「仕方ないわね。、3人を連れて先に行っておいで」
「やった〜!!」
は、母から小銭の入ったがま口を託された。母親たちの支度が済むまで待ちきれない子供たちは、一足先に出掛けることを許された。
通りに出ると、吊り下げられた提灯が往来を明々と照らしている。商店街に近づくにつれ、太鼓の音が足下から響いてくる。
今夜は商店街の夏祭り。アーケードが架かった商店街の入口には櫓が組まれ、店先に立ち並ぶ色取り取りの幟が迎える。夜店の男衆の威勢のいい呼び込みの声が飛び交い、浴衣姿の女性たちが盆踊りの音頭にあわせて艶やかに踊る。
昼間目にするのとは別の様相を見せる街に、弟たちは瞳を輝かせた。今宵ばかりは夜の外出と少々の夜更かしも許される。子供たちはこの日を楽しみにしていた。
「おまえら、走るなよ。はぐれないように、ちゃんと3人で手繋いどけよ」
引き寄せられるように駆け出そうとする弟たちを、は後ろから制する。
兄の言い付けを守り、いつものように景吾を真ん中に、右手に慈郎、左手に亮と手を繋いだ3人は、自分たちで絵をつけた団扇を背に、まるで三つ子のように並んでいる。その後ろを、と白の絣格子柄に濃紺の帯を締めたがのんびりと付いて行く。
白地に金魚が泳ぐお気に入りの浴衣に橙の兵児帯を蝶々に結んだ慈郎は、前髪を頭の上で縛ってご機嫌だ。亮が髪を纏めてもらっているのを見て、自分もと母におねだりしたのだ。サンダルを鳴らして歩くたびにヒヨコの飾りがぴょこぴょこと跳ね、白と橙のグラデーションが金魚の尾のように揺れる。
藍色に染め上げられた亮の浴衣には蜻蛉が飛んでいる。高い位置で結わえられた黒髪が、襟に流れる。
はじめて浴衣に袖を通した景吾は、色鮮やかに染め上げられた色彩に瞳を輝かせた。蝶々の舞う白地の浴衣が、景吾の肌をいっそう白く浮き上がらせた。前髪には髪留めの蝶がとまっている。
3人は一見すると女の子のように愛らしい様で、行き交う人々の目を止める。
当の本人たちは、きょろきょろと周囲を見回すのに忙しい。亮と慈郎に両側から引っ張られる景吾は、目を白黒させている。
どこからともなく流れてきた醤油の焦げた香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。
「オレ、トウモコロシ食べたい!」
「バーカ。トウモロコシだろ」
「おれはね〜やきそばとーたこやきとー」
「そんなに食べきれないだろ。ひとつずつにしてみんなで分けなよ」
「ちゃんと前見てあるけよ。ぶつかるぞ」
日本のお祭り初体験の景吾にとっては、煩雑な色の洪水も耳に響く鳴り物の音も、何もかもが物珍しかった。
「おう! 亮、ジロー」
「ガックンだー!」
射的屋の前で声を掛けられた。商店街の向日電気の長男で幼馴染の岳人だった。岳人は、亮と慈郎と同じ幼稚園に通っている。甚平姿で、射的屋の店番をする父親の手伝いをしているらしい。
「こいつが外国から来たってやつ?」
「景吾だよ! カワE−でしょ〜」
「…おまえもやってみろよ」
景吾の頭の天辺から足の爪先まで視線を走らせ、岳人は銃とコルク栓を差し出した。
子供の身体には大きな銃を不安定に抱えて、亮と慈郎、景吾の3人は的に向かった。
「いっせーのーでっ!」
3発の弾が一斉に飛び出す。
景吾が放ったものは手前に落ち、景吾のものはあらぬ方向へ逸れ、慈郎は端を掠めたものの惜しくも倒れなかった。
「3人とも残念だったな」
向日父は笑って、一番近くにいた慈郎の頭を押さえつけるように撫でた。
「どこ狙ってんだよ、亮」
「うっせえ、岳人! ちぇっ…激ダサだぜ」
「あ〜あ。クマさんほしかったC〜」
「残念だったね、慈郎。でも、大丈夫。がいるよ!」
後ろで3人の射撃を見守っていたの背中をが叩いた。は、幼馴染たちの中で一番こういったことが巧かった。
慈郎が欲しがったのは、なんとも惚けた表情をした熊の置物だった。それは棚の上の方にあり、重心が安定しているので手強い標的だった。
亮の銃を受け取ったは、身を乗り出して銃を構え狙いを定めた。弟たちの視線を背中に感じながら引き金を引く。
軽い空気音と共に飛び出したコルク栓が一直線に的へ向かった。
「やった!」
「すっげー!!」
「…スゴイです」
「さすが!」
「任せろよ!」
がハイタッチでを迎えた。のゲームの才能は後々UFOキャッチャーでも発揮され、数々の戦果を上げることになる。
向日親子と別れた一行が次に向かったのは、金魚すくい。ポイを手に、赤、白、黒、大小様々が泳ぐ水槽を覗き込む。
黒出目金狙いの亮は、丸々と太った一際大きな一匹を追い回した挙句に、早々にポイに穴を開けた。のんびりとポイを水につけていた慈郎も紙をふやけさせてしまった。
景吾も見様見真似で、金魚が集まり水面に赤い模様を描いているところへそっとポイを差し入れた。すると途端に蜘蛛の子を散らすように金魚が逃げ、青い水槽の底が現れた。二度、三度とチャンレジしてみるが、ひらひらと尾を揺らす優雅な姿に反して金魚の動きは素早かった。
しばらく金魚の動きを観察した景吾は、壁を使うことを思いついた。角に追い詰めた金魚に狙いを定め、手首を返す。
「あっ!」
一度はポイに乗った金魚だったが、水面から引き上げるときに尾が跳ね、破れた隙間から水の中へ戻って行ってしまった。
「惜しかったな、坊ちゃん」
残念そうに逃げた金魚を見送る景吾に、金魚屋のおじさんが器で掬った2匹を袋に入れて持たせてくれた。リチャードとエリーゼと名付けられた金魚は、跡部家の庭に造られた広い池で幸せな暮らしを送った。
それぞれに金魚の入った袋を提げた子供たちは、甘い香りに誘われ自然と足が引き寄せられた。
「やあ、みんな来たね。いらっしゃい」
「お父さんだー!」
迎えたのはと慈郎の父、慎慈だった。その隣には、手伝いを買って出た宍戸父の姿もある。
二人は浴衣を襷掛けにし、捻り鉢巻をした粋な格好で綿菓子を作っていた。
慎慈は商店街の若手店主の一人として、朝から祭の準備に忙しかった。とよく似た面差しのおっとりとした笑みは近所のご婦人方に人気で、「慎ちゃん」と呼ばれて可愛がられている。ちなみに、宍戸母とは幼馴染の間柄だ。
くるくると割り箸を回して細い糸を手際よく絡めとっていく手元を、亮と慈郎は期待を込めた瞳で、景吾は不思議そうに眺めた。
「雲みたいです」
「綿菓子だよ。食べてごらん、景吾くん」
「食べられますか!?」
手渡された綿菓子を景吾は小さな口で一口齧った。舌に触れると溶け消えるのに瞳を丸くし、芳ばしい甘さに瞳を細めた。
「おいC―でしょ〜?」
「So sweet…」
慈郎は、顔が隠れるほどの綿菓子で口をべたべたにしている。綿菓子は慈郎の好物で、曰く「ひつじさんを食べてるみたい」なのだそうだ。
時刻は午後9時になろうとしていた。子供たちの時間はそろそろ終わりだ。
ドンと地面を揺らして轟いた音に見上げると、ヒュルヒュルと音を立てて白い筋が昇り上空で弾けた。夜天に大輪の華が咲き、真昼のように照らした。色とりどり光の華が幾重にも重なる。
景吾は、花火に照らし出された赤いものに目を奪われた。夜店に並んだ丸いフォルムがてらてらと艶やかに輝き、まるで宝石のように映った。
「どうした? ああ、りんご飴か。待ってな」
ほどなく、りんご飴を手にが駆け戻ってきた。棒に乗った赤い球にぼんやりと見とれた景吾は、ガラスのような透明のコーティングの中に閉じ込められているのが小振りの林檎と解って目を見開いた。
「Apple!」
「景吾だけズルイぜ!」
「オレ、おっきいのがE〜」
「どうせ食べ切れねーだろ。小さいのにしとけ」
子供の歯では飴を割ることは難しく、舐めて溶かすには相当な根気がいる。去年も、大きいのを欲しがったはいいが途中で飽きて食べきれず、母に大目玉を食らったのだ。
花火はクライマックスを迎えていた。金色に輝く光の筋が夜天を覆い尽くし滝のように降り注ぐ。
りんご飴に歯が当たりカチッと音がした。甘酸っぱいような味が広がった。