青い瞳のお人形

『あとべけいごです』

 キラキラした髪に見たこともない青い瞳。
 白い頬をうっすらと赤く染めて自己紹介をしたその子は、女の子みたいだった。


、亮。ちょっと話があるの」

 俺たち兄弟二人の名前を呼んで、改まった様子で母さんが切り出したのは、夏休み中のある日のこと。争うようにその日のおやつのドーナツを頬張っていた俺たちは、正面に座った母さんの顔をまじまじと見つめて、なんかいつもとちょっと違うぞと感じた。

「なに?」

 我が家の、特に母親の躾は厳しい。食べ物を口に入れたまま話すなと散々言い付けられていた俺は、急いで牛乳(家では、おやつを食べるときの飲み物は牛乳と決まっている)で口の中のドーナツを流し込んでから母さんに尋ねた。

「あのね、今度の日曜日に私の友達がイギリスから帰ってくるの。それでね、亮と同い年の男の子を連れて帰ってくるんだけど。その子ね、景吾くんっていうんだけど、ずっと外国で暮らしていたから日本の生活に慣れてないの。だから、仲良くしてあげてね」
「うん。おれ、仲良くする!」

 同い年の友達ができると知った亮は、お気に入りロボットを手に、「これを教えてやるんだ!」と張り切っていた。こっそりお隣の慈郎と二人で英語の練習をしたりもしていた。(その名残が、慈郎の語尾だ)

もよろしくね」
「うん」

 なんだか俺は、もう一人弟ができるような気持ちで、お兄ちゃんとして面倒を見てやらなければという使命感を感じていた。
 それが、俺が小学2年生のときだった。


 その日、俺たちは朝から落ち着かなかった。家に来るのは昼過ぎだと言われていたのに、何度も玄関を見に行ったり、時計の針がてっぺんで重なるのはまだかと睨みつけて「早く動け」と念じたり。長針が12を通り越して半分ほど回った頃、家の前に停まった黒い大きな車。俺たちは、転がるようにして表へ飛び出した。
 白い手袋をした運転手が開けた扉の中から、まず綺麗な女の人が降りてきて、その人に手を引かれて小さな子が出てきた。俺たちの目は興味津々、その子に注がれた。けれど、その子は女の人の後ろに隠れてしまう。綺麗な女の人が母さんの友達で、のお母さんと3人で楽しそうに話し始めた。その間も俺たちは、ちらちらと見え隠れする水色の帽子が気になって仕方がなかった。一頻り話したあと、母さんの友達が自分の脚にしがみついたままの子の背中を押して俺たちの前に引き出した。

「景吾、ご挨拶しなさい」
「はい、かあさま」

 促されて母親の顔を見上げて小さくコクリと頷くと、水平さんの帽子の中からキラキラと髪が零れ落ちた。夏の日差しを受けて反射するそれは、のお母さんが作ってくれるホットケーキにかけるハチミツみたいな色をしていた。外した帽子を胸元に抱いて、恥ずかしそうにしながらも真っ直ぐに向けられる瞳は、慈郎曰く「お空の写真を撮ったみたい」だった。

「はじめまして。あとべけいごです。よろしくおねがいします」

 ペコリと小さな頭を下げながらの自己紹介は日本語で、亮と慈郎の秘密特訓は無駄だったけれど、その頃の景吾はまだ余り日本語をしゃべり慣れていなくて、ちょっと舌ったらずだった。

「お人形さんみたい」

 慈郎の呟きに、俺たちは誰もが無言だったけど、全員が心の中で頷いていたと思う。
 白い肌にほんのり赤く染まった頬。と慈郎のお母さんが持っている外国の人形みたいだった。アリスのドレスを着たその人形は瞼が動く仕組みで、それに負けないくらい長い睫の下から大きな瞳が零れ落ちそうだった。青い眼を見るのは初めてだった。学校にもそんな子はいない。覗き込むようにしてじっと見つめると、おばさんの人形のそれよりも透き通るような青だった。俺の一番お気に入りのビー玉よりも、ずっとずっと綺麗だと思った。

「可愛い!」

 突然抱きついた慈郎に驚いて帽子を落とした景吾は、縋るような瞳を母親に向けて、何かわからない言葉で訴えている。そんな景吾を、大人たちは楽しそうに笑って見ていた。

「慈郎、やめろよ。景吾くんが困ってるだろ」

 が慈郎を離そうとするけれど、よっぽど景吾が気に入ったらしい慈郎は、すっぽんのように景吾にしがみついて離れない。仕方なく俺もに加勢しようとすると、母さんの友達がしゃがみ込んで視線を合わせてきた。

くんとくん、亮くんと慈郎くんね。くんとくんは、赤ちゃんのときに会ったことがあるんだけど。大きくなって、すっかりお兄ちゃんね。この子、今まで周りに同じ年頃の子がいなかったから、これから景吾と仲良くしてやってね」
「おう!」
「うん♪」
「はい」

 亮と慈郎が張り切って返事をする。も頷く。そして、俺も。

「はい」

 しっかりと、景吾と同じ色の瞳を見ながら頷いた。
 この人形のような子を、守らなくてはと思った。このとき俺は、妹ができたような気持ちになっていたのかもしれない。


「あんなに可愛かったのに…」
「なに?」
「いや、なんでも…」

 俺の溜息は、隣室から響く怒声によって掻き消される。

「テメェ、亮! いい加減にしやがれっ!!」
「おまえが下手くそなだけだろ、激ダサだな!」
「うるせぇ! もう一度勝負だ!」

 亮の部屋から絶え間なく続く怒鳴り合い。俺の部屋とを隔てる壁の存在など全く意味を成さず、筒抜けである。このような光景はいつからだったか。

「お人形さんみたいだったのにな」

 俺のベッドに寝転がるが俺の心を代弁する。そうだ、その通りだ。出会った頃には女の子と見紛う程で、大人しくてはにかみ屋だったのに。あの子はどこへいってしまったのだ。薔薇色の愛らしい唇があのような罵詈雑言を吐き出すようになったのは、まだ日本語が上手く操れなかった景吾に悪影響を与えたのは、

「どう考えても、亮のせいだよな…」

 俺は、ガックリと項垂れて、深く深く溜息を吐く。

「オラァ! また俺の勝ちだぜ!」
「クソッ! この俺様が…」
「もぉ〜亮ちゃんも景ちゃんもうるさいよ〜。俺、寝てらんないC−」

 ドガッ!
 目の前の壁が揺れ、物が激しくぶつかる音がした。大方、遣り慣れたゲームで亮が連勝したことに腹を立てた景吾が、何かを投げ付けたのだろう。現在の我が家のゲーム機は何台目だっただろうか。(壊される度に景吾によって最新機種に買い換えられている)ついに、取っ組み合いに発展したらしい。成長著しい中3男子の体当たりに耐え健気に揺れる壁が哀れだ。この壁もよく持っているもんだ。天井から埃を落としながら軋む壁を眺めている内に、今更ながら幼い純情を踏みにじられたと思うと、ふつふつと怒りが込み上げてきた。

「うっせぇぞ、おまえら! ちったぁ静かにしやがれっ!!」

 隣室に向かって仁王立ちで怒鳴る。

「亮だけのせいじゃないと思うけどなぁ」
「ああ? なんか言ったか」

 人のベッドに寝転がったままマンガを読んでいたは、そのまま横に転がって背を向けた。とそこへ、

「亮も景ちゃんも慈郎ちゃんもも煩いっ! あんたたちもう少し静かにできないの!? 家が壊れる!!」

 階下から届いた母親の怒鳴り声。途端に、隣の部屋がピタッと静かになる。昔から何度となく繰り返された光景、結局最後はこうなる。

「この兄にしてこの弟あり。この親にしてこの息子達たちあり」

 ボソリとが呟いた。
 天使のように愛らしかった人様の家の一人息子をこんなにしてしまったことに、俺たち家族は責任を感じるべきなのかもしれない。けれど、あの頃はあんなに可愛かったのに、と昔を懐かしんで溜息を吐くくらい許されるよな。