兄の心弟知らず

 家の両親は共働きた。二人とも教師で、要するに職場結婚ってやつだ。俺たち兄弟は、いわゆる鍵っ子だったわけだ。

 亮たちがまだ氷帝幼稚舎の低学年だったころ、学年が上の俺たちの方が当然帰りは遅くなる。家には誰も居ないから、亮はお隣の芥川クリーニングに帰宅していた。遅れること数時間、俺もと連れ立って帰宅し、店先で「お帰り」と声を掛けてくれるおばさんに迎えられる。朝、母さんが出勤前におばさんに預けて行く鍵を受け取り、店の奥の母屋に亮を回収に行くのが日課になっていた。

おにいちゃん、おにいちゃん、おかえりなさい!」

 景吾も学校帰りに寄って遊んでいることも多い。時には、迎えの車に3人で乗り込んで、景吾の家に行くこともある。遊びに夢中の弟たちと違い、きちんと挨拶をしてくれるのは、いつも景吾だ。

「景吾も来てたのか。ただいま」
「ただいま〜。景吾、いらっしゃい。」
「あっ、兄ちゃん帰って来た! 今日は遅かったな」
「今日は、が当番だったんだよ」
「今日のおやつ、プリンだぜ! 兄ちゃんたちも、早く食べろよ。激ウマだぜっ!」
「亮、おまえ食べながら話すんじゃない。スプーンを振り回すな! あっ、コラ慈郎、食べながら寝るんじゃねー!!」

 危うくプリンに顔を突っ込みそうになっていた慈郎の頭を、既の所で止めて安堵の息を吐く。

「ったく、おまえら。少しは景吾を見習えよ!」

 騒がしい食卓で、背筋を伸ばして行儀良く椅子に座り、一人静かに黙々とスプーンに掬ったプリンを口に運んでいる。口の周りにカラメルソースをつけまくっている亮や慈郎と違って、景吾の食べ方は綺麗なものだ。景吾が食べていると、手作りのプリンが有名パティシエの手による高級なものに見えてくる。(おばさんが作るケーキの味は、そこらの菓子職人にも劣らない)
 食べ終わると、首にかけていたハンカチで口元を拭いて、小さな手を合わせて「ごちそうさま」をし、空になった食器をシンクまで運ぶ。自分が食べた後片付けは自分でするということを景吾が覚えたのは、家や芥川家で食事をするようになってからだ。

「おら、亮。牛乳もちゃんと飲めよ。じゃないと、いつまでもチビのまんまだぞ」
「わかってるよ!」

 食べ終わったら、再び遊ぶ前に宿題をさせなければならない。母さんが帰るまでに終わらせておかないと、俺が叱られる羽目になるんだ。玩具の誘惑と、満腹になった眠気を蹴散らして机に向かわせるのは一苦労だった。それでも、小学校から帰って来てから母さんが仕事を終えて帰って来るまでの間、少しも寂しいと感じることがなかったのは、この弟たちがいたからだ。こいつらの賑やかさのお陰で、鍵っ子の悲哀なんてものとは一切無縁でいられた。


「家って、母さんも働いてたから、代わりに結構いろいろ兄貴に煩く言われただろ?」

 夕飯後、と慈郎が家にやってきて、なんとなく4人でリビングに集まって話をしていた。

「でさ、今日その話を部室でしたんだよ。そしたらさ〜」

 亮の奴は、途中から笑いを噛み殺して、勿体つけるように間を置いた。

「忍足のヤツが、『オカンか?』だってよ」

 言い終わるや否や、亮はソファーに引っくり返って腹を抱えて笑い出す。一拍間を置いて、複数の笑い声が続いた。

「それ当たってるかも。確かに、おまえいい父親になれるよ。意外と、保父さんが天職だったりしてな」
「オカン♪オカン♪オカン♪」
「おまえらなぁ〜一体誰のせいだと思ってんだっ!!」
「うぉ〜オカンが怒ったー!」
「コワE−! 逃っげろ〜」

 俺たちの周りを包んでいた賑やかさは、今以て変わることなく存在している。いや、それは賑やかさを超えて騒々しいほどに。
 くそっ…亮と慈郎を追い掛け回して無駄な体力を使っちまったぜ。のヤツは笑って見てやがるし。とりあえず…オシタリとは一度話し合う必要がありそうだな。