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418.松田先生の什一論の再掲示パート1
名前:管理人 日付:2010/9/29(水) 12:50
はれるやです。初めまして。僭越ですが什一献金についてカキコさせてください。
什一については多くの考えがあります。
賛否両論です。実は私自身、聖霊派の激しい教会に属した時期がありまして、
22歳の頃か約20年間、総収入の10分の一は必ずしてまいりました。
その他にも請願献金・席上献金・感謝献金・予約献金・建築献金・
クリスマス献金・感謝祭献金・新年献金・母の日献金・ペンテコステ献金
・イースター献金・・・等等。しかし、もう一度聖書を調べなおし様々な書物や情報
・解釈を学んでいくうちに、はっきりと什一の間違いに気づいたのです。
と言う神様からの直感でしょうか。すでに書き込まれているのですが、
「できる人はしたら良い」ではなく、「してはならない」と断言します。
什一に関する聖書の解釈における間違いがあるのです。
又そのことは追々カキコさせてください。
現代の教会の牧師は献金で生活しようとしている所に問題があります。
現実では成人の信徒数が30名はいないとお給料は出ません。
それも什一していただいてのお話です。
だから牧師たちはやっきになって「献金、献金」と言うわけです。
私は教会からお給料を頂くことをやめました。自分で働きます。
牧師が新約のレビ人だとは思いません。何も特別な人でもないのです。
神の器だとか言ってますが、人間みんな平等です。うちの教会では、
一応教会の運営・維持のために献金袋をまわしますが、
20名弱の教会では額は知れています。
おまけに説教で「皆さん、献金したら祝福されるなんて思わないでください。
すでに祝福されているのですから。教会に献金する余裕があるならば、
身近で困っている人に渡しなさい。信用できる慈善の機関に送金しなさい。
その方がよっぽど神様喜びますよ」と言ってしまいましたから、献金額は右肩下がりです。
献金は信仰のバロメーターなどとほざいているアホな牧師がいますが、
情けない話です。もし、献金をしてそれが原因でその信徒さんが
破産しそうになったらどうするんでしょうか。あなた助けますか?
助ける力がないのなら決してそんなことは言えないはずです。
什一献金は自己欲の塊となった牧師の教会の詭弁にすぎません。
旧約聖書はキリストの十字架により成就されています。
ですから私たちは毎年エルサレムまで巡礼に行って
神殿で捧げ物の血を流さないでいいのです。
安息日(土曜日)を守らなくてもいいのです。
なのにマラキ書の1節だけ持ってきて、什一を正当化しようとすることは赦せません。
マラキ書の時代背景・当時の人々の信仰の様子・文脈等を考慮したらわかります。
主題は人々の正義と公正なんです。「十分の一を持って来い。
そうしたら恐ろしいほど恵んだるぞ」は、神様のヤケクソの言葉だと思いますよ。
旧約時代の什一の制度は、勿論、土地の分け前の持たないレビ人を養うためであり、
やもめや孤児たち・在留異国人のために使うためのものであったのです。
いわゆる日本国でいうところの所得税みたいなものです。
それで相互扶助をおこなったのでしょう。
現代の私たちはあらゆる種類の税金を支払っています。
もうそれだけで収入の1割は軽く超えます。
それに加えて教会でまた1割プラス他の献金をするのですから、恐ろしいことです。
かわいそうすぎます。
しかし、10年前に意を決して什一献金をしないことにしたのです。
正直言いまして恐れはありました。
ひょっとしたらエライ悪いことが起こるのと違うのやろか?
人生いろいろあって楽しく送れるんです。刺激も必要です。
いろいろありましたが、何とか生きていますよ。
什一献金を強調している教会は存在しないで欲しいのです。
どれだけ多くの人々がそれで苦しみ悩んでいるか。
メールでの信仰相談の中のトップが什一献金に関するものです。
少し長すぎました。ありがとうございました。失礼します。
419.松田先生の什一論再掲示パート2
名前:管理人 日付:2010/9/29(水) 12:53
どうもです。おかださん、かずやさんお久しぶりでございます。
正直、什一献金にこだわる気持ちもわかります。
その牧師はそれで食べていけるからです。
さて、マタイ23:23「忌わしいものだ。
偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、
はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、
律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。
これこそしなければならないことです。
ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。」ですが、
パリサイ人や律法学者に対する糾弾の言葉です。
厳密に言えば、そもそも収穫した作物の十分の一で、お金ではありません。
そして挙げられているようなはっか等は捧げる必要のないものです。
このイエス様の言葉でひっかかるのが、「他のほうもおろそかにしてはいけません」ですね。
私がが思いますのに、イエス様がこんな言葉を言うか?なんです。
この言葉は、「あんたら自分では完璧に律法を守っていると言うけれど、
そんなに自分の行いで守ろうとするんやったら公正と正義、十分の一も守れや」と、
皮肉で言っておられると思います。また、この最後の言葉は、例に漏れず、
マタイが勝手に付け加えた言葉だと思います。私は聖書の無謬説は信じておりませんから。
著者がまるでイエス様が語ったかのように解釈して付け加えた箇所は何箇所もあるし、
翻訳もミスがあるし、一字一句神様のインスピレーションで書いたものとは信じていません。
しかしこうして聖書として編集されていますので、大切にしますが、
聖書の成り立ちやその歴史背景をもっと学ぶべきでしょう。
信頼できる聖書学者の書いた本などを参考にしたらいいと思います。
新約聖書の手紙等は神の約束の言葉と言うよりは、お勧め程度でいいと思っています。
基本はイエス様の生き様ですね。
420.松田先生の什一論再掲示パート3
名前:管理人 日付:2010/9/29(水) 12:55
はれるや!
皆様こんにちは。私のチョット過激ともいえる投稿を見られて、
ショックを受けておられる方もいらっしゃると思います。
私はただこれ以上教会の中で、什一献金の強要で悩み苦しむ人が出ないことを
願っているからなのです。
私は昔、約8年間カルト化しつつあった教会にて副牧師をしておりました。
主管牧師の絶対的な教会で、まさに独裁状態でした。献金・奉仕・伝道他について
あまりにも極端な考え方と言うか、教会の都合に合わせた無理やりな解釈でした。
私自身が又他の多くの教職者がMC(マインドコントロール)の中にありました。
主管牧師の言うことが絶対だったのです。彼が誰かを「ポアしなさい」(オウム真理教
の教祖)と命令されれば、殺人を犯していたかもしれませんでした。
私は献金においては10分の3も4もしていました。それ以外にも、会堂建築献金の
予約もさせられ、安いお給料でよう生活していたなあ、と感心しております。
主管牧師によくいじめられましたので、心はボロ雑巾のようでした。
ようやくやめる決心をして故郷に戻って開拓伝道を始めたのです。
一時期はあまりにも心が苦しくて、あの8年間を呪いました。
しかし、この経験は私に絶対に必要なものだと知ったのです。
この経験がなければ、私はなにも勉強も努力もせずに
のほほんとした生ぬるい信仰生活で人生を終わっていたでしょう。
あの教会に行ってよかったことが2つあります。一つはカルトについて知ったこと。
もう一つは妻に出会えたことです。
神戸を中心に全国各地に枝教会を開拓し、
一時は全国で約500名ほどの信徒さんがいました。私は教会を辞職したときに思いました。
「こんな教会つぶれたらいいのに!」と。
なんとその教会は本当に解散してしまったのです。
そのことを知った時、私の心境は非常に複雑でした。
元々あの純福音(チョーの教会)に関係ありました。
現在、福音派・聖霊派・ペンテコステ派などの教会たちは、
ほとんどが什一献金推進教会です。彼らは伝統に習って、何も考えることせずに、
わずかな短い時間の学びを鵜呑みにして、何の疑いもなく什一献金を勧めています。
それだけではありません。
わけのわからないリバイバリストを、よく調べもせずに日本に呼んで
「やれリバイバル」だの「やれ日本に対する預言」だの「やれ奇跡」だの
「やれ死者が生き返った」だの、ひとつも奇跡など起こっていないのに嘘をつく始末です。
彼らはさくらさえ用意しますので。
奇跡や神秘的なことばっかり求めてしまって、正義や公正の実践などそっちのけで、
自分の霊的満足さえあればいいという、究極の自己中な連中でっせホンマ!
日本だけでもカルト牧師(什一強制・奉仕・伝道強制・法律に反する犯罪まで犯す)
はどれだけ多くいますか。
旦那に内緒で家計の什一をさせたり、果てはサラリーローンで金を借りさせてまで献金
させるやくざまがいの牧師までいます。まだやくざのほうが可愛いです。
彼らは自分で悪人だと知っているから。牧師は自分が神に特別に選ばれた人間だ、
誰よりも聖いと信じているからたちが悪いんです。
これはほんのメールで受けた信仰相談の一部です。
まだまだ耳を疑いたくなるような内容がありますよ。
私はクリスチャンだからといって信用はしません。
牧師と聞けばなおさら信用しません。
勿論、おつきあいをしてわかることですから、よくその人の生き様を観察します。
これからも什一献金・律法主義と戦っていきます。皆様も応援のほどよろしくお願いします。
1091.鎌倉雪ノ下教会
名前:管理人(個人) 日付:2011/9/12(月) 12:28
以下は有名な神学者の加藤常昭先生が、かつて牧会していた
日基教団の鎌倉雪ノ下教会のホームページに載っていた
什一献金に関する文書である。
非常に参考になるので、什一賛成の方も反対の片も
一読していただきたいと思います。
捧げ物の乱れは信仰の乱れ
マラキ書 第3章 6節〜12節
上木 正暁
◆悔い改めの勧告
3:6 まことに、主であるわたしは変わることがない。
あなたたちヤコブの子らにも終わりはない。
3:7 あなたたちは先祖の時代から
わたしの掟を離れ、それを守らなかった。
立ち帰れ、わたしに。
そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると
万軍の主は言われる。
しかし、あなたたちは言う
どのように立ち帰ればよいのか、と。
3:8 人は神を偽りうるか。
あなたたちはわたしを偽っていながら
どのようにあなたを偽っていますか、と言う。
それは、十分の一の献げ物と
献納物においてである。
3:9 あなたたちは、甚だしく呪われる。
あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。
3:10 十分の一の献げ物をすべて倉に運び
わたしの家に食物があるようにせよ。
これによって、わたしを試してみよと
万軍の主は言われる。
必ず、わたしはあなたたちのために
天の窓を開き
祝福を限りなく注ぐであろう。
3:11 また、わたしはあなたたちのために
食い荒らすいなごを滅ぼして
あなたたちの土地の作物が荒らされず
畑のぶどうが不作とならぬようにすると
万軍の主は言われる。
3:12 諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。
あなたたちが喜びの国となるからだと
万軍の主は言われる。
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鎌倉雪ノ下でまさかこの箇所、と思われた方もおられるでしょう。
実際、什一という語を知らなかった青年もおりました。
什一は聖書のいう「十分の一」、収穫物の一割を神殿に収める制度です。
それは、祭司部族であるレビ族を養い、また寄留者、孤児、寡婦など社会的弱者へ再配分されました。
つまり古代ユダヤ社会で福祉行政をも担っていた神殿が、その財源に充てる目的税です。
今日では政府や自治体がこれを担っており、我々はもちろんそれらに直接、間接に税を収めています。
ところがいつのまにか「什一献金」という奇妙な用語(什一は貨幣経済時代の制度ではありません)
と収入の一割を献金額の最低線として要求する律法主義が起こり、
少なからぬ教会を支配して福音を損なっています。その際に濫用されるみことばが、
什一を定めた創世記28章でもレビ記27章でも民数記18章でも申命記12章、14章や
26章でもなく、このマラキ書です。捧げ物の未納で「わたしを偽っている」、
口語訳・新改訳などでは「わたしの物を盗んでいる」という激しい言葉に追い詰められ、
疲れ果てている信仰者が少なくないのです。今日の教会が什一を求めるなら、
それは社会委員会に委託して社会事業に充てない限り、
それを私した教会こそが神のものを盗む者となります。決して許されることではありません。
しかし、そのような悪用によって、みことばが損なわれるはずはありません。
私どもは、律法主義の過ちから守られる事の他にも、マラキ書が与えられている意味を悟ることも
、祈り願わなければなりません。確かに、不信仰の病は捧げ物においてその初期症状を現すのです。
私どもは、謙遜がむしろ傲慢にすらなりかねないほど大きな群れになりました。
伝道のために群れを分かち地に広がることではなく、一つの群れとしての交わりを保ちながら、
大きな群れならではの多様な働きによって、主の名を告げ知らせる道を選んだからです。
二年前より念願の教師四人体制が叶えられましたが、
それでも教師一人当たりの受け持ち人数は通常の二倍以上、
逆にみれば二倍の信徒で一人の教師を支えています。
そこに生まれる余裕を伝道と愛の業に振り向け、
励む決意をしたはずの私どもは、はたしてその通りの、
規模に応じた働きが出来ているでしょうか。その余裕を自分らで喰い潰していながら、
なお規模を頼みに教会に対し求めるばかりになっていないでしょうか。
教会は自立できて当り前、他教会を支えられて一人前、といわれます。
私どもは先日、融資と献金によって浦賀教会の献堂を支援する決議をいたしました。
しかし具体的な課題が与えられた一方、その間教会の継続的な働きを停められる訳ではありません。
目新しいトピックだけでなく、営々と続く宣教の働きの為にも、
僅かずつでも捧げ続ける感謝の信仰を新たにしたいと思います。
(9月1日 教会祈祷会より)
1092.使徒の時代に什一献金は存在したのか?
名前:管理人(個人) 日付:2011/9/12(月) 20:21
新約聖書には、十字架後に什一献金について書かれた箇所はありません。
その上、什一献金を匂わすような箇所さえ皆無です。
しかしながら、新約聖書に書かれてなくても使徒の時代、
什一献金は存在したとする考え方の人もおられると思います。
確かに、新約聖書に書かれてなくても使徒の時代に什一が存在した可能性は、
ゼロとは言えないでしょう。
ただ、そのような主張をする人は、当然のことながら、
聖書以外の歴史書等を検証し、什一献金が存在した事を証明する義務があります。
それをしないなら、単なる個人的な思い込みを主張していると言われても反論できないでしょう。
また、『什一はあまりにも当たり前過ぎて新約聖書に書かれてない???』
このような主張をされる方もおられるようですが、この主張は、曖昧さを良しとし、
文章の行間を読もうとする非常に日本的な主張です。
厳格な契約社会の中東やヨーロッパではあり得ない主張でしょう。
現代日本でも契約書を見れば理解できると思いますが、契約社会では、書かれていることが全てです。
行間を読むなんて事はあり得ません。
そしてもし、この主張が正しいとするなら、新約聖書には、殺人や姦淫という言葉は
、あまりも当たり前過ぎるという理由で出て来ないことになります。
まあ、事の真偽はともかく、新約聖書に什一献金が一切書かれていない事から、
導かれる結論は、少なくとも、新約聖書は、什一献金について沈黙している。
すなわち、什一献金は福音とは何ら関係ないどっちでも良い事と言えるでしょう。
(ルターはこのような福音と関係無いどちらでも良い事をアディアフォラと表現しています。)
そして、もし什一が福音と重大な関係があり大事な事なら、
什一しなさいと使徒たちが新約聖書に書いたはずです。
ここまで書いても、什一献金は、理屈抜きに正しいと思われている方もおられるかもしれません。
そのような方は、現代の日本の教会で什一献金が強要されて、
多くの被害者を生んでいる事実に目を向けることを、お勧めします。
本当に什一献金が正しく、神の御心なら、
弱く貧しい人がどんなに傷つこうが神の御心である什一を推奨して、
被害者をどんどん生んだら良いではありませんか。
http://www.eonet.ne.jp/~mount-zion/index.html
1094.使徒の時代に什一献金は存在したのか
名前:管理人(個人) 日付:2011/9/12(月) 22:25
『聖霊と私たちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。
すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉とみだらな行いとを避けることです。
以上を慎めばよいのです。』
使徒言行録15:28〜29
この箇所は、パウロたちが、エルサレム教会に乗り込んで、
異邦人教会に律法遵守を強要しないよう、直接使徒たちに談判した時の使徒たちの結論です。
つまり、異邦人教会は次の4点のみ慎めば良いということが、書かれています。
1 偶像に献げられたもの
2 血
3 絞め殺した動物の肉
4 みだらな行い
この4点を慎むだけで良く、モーセの律法は守らなくて良いと使徒たちが、
太鼓判を押しているわけです。
この中には、もちろん律法の一つである什一献金は、入っていません。
どうでしょうか、これでも、あなたは、使徒の時代に異邦人教会で
什一献金が行なわれていたと思われますか。
もちろん、エルサレム教会に限って言えば、クリスチャンもユダヤ教の律法を守っていたので、
十分の一規定も守っていたと考えられます。
ただし、この場合、エルサレム教会に献金していたのではなく、
神殿を始めとしたユダヤ社会に納めていたはずです。
http://www.eonet.ne.jp/~mount-zion/index.html
1097.献金は、神への捧げ物なのか?
名前:管理人(個人) 日付:2011/9/13(火) 22:47
『ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼きつくす献げ物、
罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」
と言われ』
ヘブライ人への手紙10:8
ヘブライ人への手紙10章では、キリストが罪を贖うための唯一の献げ物になられたので、
もう罪のための献げ物は必要が無くなった事を、
その当時まだ律法の下にあったユダヤ人クリスチャンたちに語られています。
ただ、注意しないと読み飛ばしてしまう箇所が、冒頭の8節です。
8節では、焼きつくす献げ物や罪を贖うためのいけにえだけでなく、
献げ物全般を神様は望まないし、好みもしないと書かれています。
『律法に従って献げられるもの』と書かれているので、
当然、什一献金も神様が望みもしないし、好みもしない献げ物と言えます。
つまり、私たちが献金を、もし献げ物として神様に献げているなら、
そんなものは神様が望みも好みもしない行為だとこの箇所ははっきりと言っているのです。
では、それとは反対に、神様に喜ばれる献金とは、どのようなものなのでしょうか?
『各自不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。
喜んで与える人を神は愛して下さるからです。』
第2コリント9:6〜7
この箇所はエルサレム教会の信徒のための献金について書かれている箇所です。
つまり、神に献げる献金について書かれているのではなく、
エルサレム教会の信徒の為の献金についての記述です。
人間の為にお金を集めることを、通常、募金と呼びます。
献金とは呼びません。
神様が喜ばれるのは、献金?
それとも募金?
あなたは、どっちだと思います?
http://www.eonet.ne.jp/~mount-zion/index.html
1098.イスラエルの10分の1
名前:アタナシウス 日付:2011/9/14(水) 18:47
はじめまして。
いつもこの掲示板を拝見させていただいており、
この10分の1献金という新しい概念が、律法の10分の1の誤用・悪用
であることが明らかにされていることはとてもよいことだと感じております。
イエスの時代の律法において、全土地の産物や家畜の増加分から全体の40分の1から60分の1が、
祭司への献納物(テルマー)として、その残りの総量から最初の10分の1(マアセル・りショーン)
の献納物がレビ人の取り分として、宮に運ばれ分配されます。お金で納入する場合は、5分の1を
加えなければなりません。
さらにこの献納物(テルマー)と最初の10分の1(マアセル・りショーン)
が取り除かれた残りから、10分の1が取り分けられ
安息周期年の第一、二、四、五年目に第二の10分の1(マアセル・ショニー)として、
エルサレムに携えられてそこで祝いながら食べられます。
また安息周期年の第三年と第六年目は貧者への10分の1(マアサル・アニー)
として貧者ややもめなどに分配されます。キリスト教のいう10文の1献金とは全く違います。
近年に興った10分の1献金を正当なものとして教えている新興教会は、
この10分の1献金と律法の10分の1が全く違っているものであることを無視しているというより、
理解していないと言った方が妥当だと思われます。
http://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/
1102.教会の都市伝説パート2
名前:管理人(個人) 日付:2011/9/15(木) 23:24
教会によっては、牧師が什一献金を勧める時、『什一献金は信仰のチャレンジだ、
騙されたと思ってともかく什一してみなさい。』と言う場合があります。
チャレンジ=挑戦
ですから、
困難な什一献金に挑戦するという意味でしょうか?
はたまた、什一献金をすることによって、神様に挑戦して打ち勝つという意味でしょうか?
非常にあいまいな言い方です。
そして、どちらの意味合いにしろ、聖書には『献金に関してチャレンジしろ』
なんてどこにも書かれていません。
これも、都市伝説でしょうか?
http://www.eonet.ne.jp/~mount-zion/index.html
1101.教会の都市伝説パート1
名前:管理人(個人) 日付:2011/9/14(水) 23:26
日本の教会では、献金の時、『私たちの献身の証として献金を献げましょう。』
とアナウンスされる場合があります。
しかしながら、本当に『献金することが、献身の証明になる』のでしょうか?
もし本当にこのとおりなら、イエス様の時代のファリサイ派や律法学者などは、
全員立派に献身できた信仰者ということになり、イエス様を十字架にかけるようなことは、
なかったのではないでしょうか?
また、このようなことが書かれた聖書箇所も管理人の知る限り見当たりません。
都市伝説の一つなのでしょうか?
http://www.eonet.ne.jp/~mount-zion/index.html
1105.(untitled)
名前:アタナシウス 日付:2011/9/16(金) 10:19
貧しいやもめの献げ物(ドーロン)もパレスチナで飢饉があった時、
エルサレムの教会のために集められた募金(ロゲイア)も、
新改訳では「献金」と訳されてしまってもとの意味が分からなくなっていますね。
その新改訳を使って、その系統の主張がなされていることはとても残念なことです。
教会での奉仕も、普通の教会では牧師職以外は普通特に献身者とは言いませんが、
最近の新興教派では安易に使われていて、献身者でないと奉仕者ではないように聞こえてしまいます。
大抵固定の奉仕者になりやすい技術のいる奏楽者でも、一般には献身者とは言いませんが、
これらの教会では専属の教会スタッフという聖書的根拠に乏しいものをそのように呼ぶように見えますね。
http://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/
1104.繁栄の神学
名前:管理人(個人) 日付:2011/9/16(金) 9:23
繁栄の福音は、什一献金したら神様から経済的に祝福され、健康もいただけるという思想
またアブラハムは大金持ちだった。
だから、牧師が金持ちになって何が悪い。
ゆえに、清貧の思想は悪魔の思想である。
主として、この2点でしょうか?
これら非聖書的な教えによって、キリスト教が、創価学会と類似した非常に安っぽい
宗教に貶められたことは、確かでしょう。
そして、最近、プロテスタント教会における献身という言葉さえ、ずいぶん安っぽく感じられるのは、
管理人だけでしょうか?
お金が欲しいなら、牧師など辞めて、一信徒に戻り、社会で普通に働けば良いではありませんか?
また、新約聖書には、神様に献げるという意味の『献金』という言葉は出てこないし、
新約聖書で一貫して勧められているのは、『募金』や『施し』であることは、
この掲示板に何度も書きました。
しかし、大部分の日本の教会では、神様に献金を献げるように信徒に指導しているのが実態です。
『募金』や『施し』を『献金』とすり替えて恥じない。
日本の教会の不誠実さを如実にあらわしている事柄の一つでしょう。
http://www.eonet.ne.jp/~mount-zion/index.html
1127.教会の都市伝説
名前:管理人(個人) 日付:2011/9/22(木) 23:51
聖霊派や福音派の一部狂信的な教会で使われている言葉に、『什一返金』があります。
「土地から取れる収穫量の十分の一は穀物であれ、果実であれ主のものである。」
レビ記27:30
「イエスは言われた『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』
彼らはイエスの答えに驚き入った。」マルコ12:17
どうも『什一返金』はこれら二つの聖書箇所を合体させたものであるようです。
しかしながら、マルコの箇所は、前後の文脈を見れば、
ファリサイ派やヘロデ派がイエスを陥れる為にした質問
(皇帝に税金を納めることが律法にかなっているかどうか)に対する切り返しであり、
イエス様も、まさか、この箇所が旧約律法と合体して今日、使われるとは考えもしなかったでしょう。
ところで、管理人にも子供がいますので、毎月こずかいを1000円づつ渡しております。
しかしもし、子供たちから、『このお金は、お父さんからもらったものなので、
十分の一の100円は返金します。』と言われたとしてもちっとも嬉しくありません。
それよりも、こずかいの一部を、震災等の義援金に使いたいと言ってくれたほうが、
よっぽど嬉しいと思います。
私たちクリスチャンは全員神様の子供です。
もし本当に自分は、神様の子供だと思っているなら、
私たちは、神様に税やみつぎものを納める必要は、まったくありません。
もちろん、自分は神様の子供ではないと言われるなら、話は別で、什一返金されれば良いでしょう。
もし疑問に感じる方はマタイ17:24〜26の神殿税の箇所を一読していただければ幸いです。
さて9月は、うちの庭の家庭菜園で子供たちがピーマンを育てていたのが実ったので、
献金の代わりにピーマンの収穫の十分の一を持って行くかな。
什一献金が正しい献金方法だと思われているあなた!これこそ、
神様が律法で命令されていることですよね。
聖書に忠実だと思いませんか!
そう、ピーマンの十分の一なら聖書どおりです。
http://www.eonet.ne.jp/~mount-zion/index.html
1144.フランシスコ会訳のマラキ書
名前:管理人(個人) 日付:2011/9/28(水) 23:56
「人は神をあざむいてよいものだろうか。しかし、お前たちはわたしをあざむいている。
『どのようにして、あなたをあざむきましたか』とお前たちは言う。
それは、十分の一税と奉納物によってである。お前たちは呪いを受けている。
十分の一税をすべて宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物となるようにせよ」と
万軍の主はおおせになる。」上はフランシスコ会訳聖書のマラキ書3章8〜10節です。
新共同訳や新改訳との大きな違いは、新共同訳で『十分の一の献げ物』、
新改訳で『十分の一』と訳している箇所をフランシスコ会訳では『十分の一税』
と訳していることでしょう。
個人的には、『十分の一税』という訳は古代ユダヤ社会における律法の十分の一規定の
本質を端的に表した素晴らしい訳だと思います。
そして、新共同訳や新改訳のように『十分の一の献げ物』や単に『十分の一』と訳すと、
マラキ書を使って什一献金の推奨は可能になりますが、十分の一税と訳せば、
什一献金のおすすめには、使えない、または使いにくいということになりそうです。
注解付き新共同訳聖書が、未だに発売されて無い昨今、プロテスタントの信徒であっても、
注解付きフランシスコ会訳聖書は、非常に参考になります。
http://www.eonet.ne.jp/~mount-zion/index.html
1151.聖書に忠実な什一献金
名前:管理人(個人) 日付:2011/9/30(金) 0:13
什一献金については、十字架によって律法が完成したために既に、
聖書的な根拠を失っていることは、多くの人がこの掲示板にも書かれています。
しかしながら、そのように言っても、旧約聖書も神様の言葉なので、
現代でも有効であるとする頑固な方もおられるでしょう。
そのような方の為に、旧約聖書に忠実な什一献金について考えてみましょう。
「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ主のものである。」
レビ記27:30
まず、この箇所から、什一献金しなければならないのは、農家および酪農家のみとなります。
家畜の十分の一については32節〜33節をご覧ください。
つまり、賃金労働者、いわゆるサラリーマンは、什一献金の対象外となります。
シオンの丘教会のような都市型の教会には、農家や酪農家の信徒はいないので、
せいぜい家庭菜園の収穫の十分の一を物納すれば良いことになります。
また、什一献金の使い方も律法にちゃんと定められていますので、聖書どおりなら、
レビ人および社会的、経済的な弱者(寡婦、孤児など)の為に使われなければなりません。
もちろんレビ人というのは、古代イスラエルのレビ人の子孫を言いますから、
少なくとも日本人の牧師はその対象外となります。
ですから、什一献金されたお金は、教会の維持費や牧師給には使えず、
レビ人の子孫と思われるパレスチナ難民の方々や世界中の貧しい人々の為に寄付しなければ、
律法違反となります。
100歩譲って、もし什一献金を集める時に、現代は貨幣社会なので、
律法どおりではないが、律法の精神によってサラリーマンも教会に現金で什一するように
勧めるのを良しとするなら、その使い方についても、律法の精神に基づいて、
社会的弱者の為に使わないと片手落ちになります。
つまり、什一献金を教会の維持費や牧師給に使うのは、律法の精神から言ってもNGとなります。
従って、牧師が信徒に什一献金を勧めて、その献金から牧師給をもらうなら、
これは、重大な律法違反となります。
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1158.十分の一規定の拡大解釈
名前:管理人(個人) 日付:2011/10/1(土) 23:25
アタナシウスさんのサイトを見ていて気がついたのですが、
マタイ23:23でイエス様が『先のこともないがしろにしてはならない。』と言っているのは、
十分の一規定そのものというより、どうも『はっか、イノンド、ういきょうの十分の一』
のことなんですね。
すなわち、律法学者やファリサイ派の十分の一規定に関する拡大解釈について
言っているように思われます。
だから、24節で、これを『ぶよ』にたとえているのでしょう。
つまり、この箇所でイエス様は次のように言いたいのではないでしょうか?
『あなたがたは、律法を拡大解釈して、香辛料の十分の一まで納めているが、
律法の中で一番大事な正義、憐れみ、忠実をないがしろにしている。
あなたがたが、律法を勝手に拡大解釈したのだから、香辛料の十分の一についても、
もちろんないがしろにしてはならないが....』
これは律法学者やファリサイ派に対する皮肉ではないでしょうか?
ですから、イエス様はこの箇所で什一献金のお勧めをしているわけではありません。
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1156.マタイ23:23
名前:管理人(個人) 日付:2011/10/1(土) 21:55
「律法学者やファリサイ派の人々、あなた方偽善者は不幸だ。
あなた方は、はっかや、イノンド、ういきょうの十分の一は納めるが、
律法の中で最も重要な正義、憐れみ、忠実をないがしろにしている。
先のこともないがしろにしてはならないが、実践しなければならないのは、後のことである。」
マタイ23:23 フランシスコ会訳
この箇所にある『はっか、イノンド、ういきょう』というのは、
調味料に使われる植物です。
律法では本来、香辛料については、十分の一規定の対象外だったのですが、
当時の律法学者やファリサイ派は、十分の一規定を拡大解釈して香辛料の十分の一も捧げておりました。
また、ルカ18:9〜14のファリサイ派と徴税人のたとえから当時のファリサイ派が
律法の十分の一規定をさらに拡大解釈して、全収入の十分の一を捧げていたことが、読み取れます。
現代のキリスト教会では、たいてい、全収入の十分の一を献金するよう指導されますが、
これは、律法どおりではないことは、先に書きました。
現代日本のキリスト教会の什一献金のルーツは、案外、このファリサイ派の拡大解釈ではないでしょうか?
そして、マタイ23:23のイエス様の律法学者とファリサイ派への非難は、
そのまま、現代日本の教会に当てはまります。
すなわち、旧約律法の十分の一規定を拡大解釈して、信徒に荷重な負担を要求して、
信徒をつまずかせることによって正義をないがしろにしています。
また、什一献金が出来ない人にまで什一を要求して、憐れみをないがしろにしています。
最後に、什一献金の使い方は、社会的弱者に使うことが、聖書に定められているのにも関わらず、
教会の維持費や牧師給に使うことによって、聖書に忠実であることもないがしろにしています。
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1174.レビ人
名前:管理人(個人) 日付:2011/10/5(水) 22:20
前回、牧師はレビ人ではないので、什一献金から給料をもらうなら律法違反になると書きました。
しかしながら、キリスト教の世界には、いろんな解釈をする人がいるようで、
『牧師は新約のレビ人である。』と考える人もおられるようです。
プロテスタントの三大原理の一つに確か『万人祭司』があったことを、
ひょっとしたらお忘れになって、このような拡大解釈をされているのでしょうか?
まあ、これも100歩譲って、牧師は新約のレビ人だといたしましょう。
牧師がレビ人なら、一応什一献金から給料をもらっても、問題ないことになります。
しかしながら、レビ人の取り分は、ちゃんと民数記に記されております。
「わたしは、イスラエルの人々が主にささげる献納物の十分の一をレビ人に
嗣業として与えるからである。」
民数記18:24
ということで、レビ人の取り分は献金額の十分の一と定められております。
つまり、これを現代の教会に適用すると、年間予算800万円程度の平均的な教会であれば、
牧師の年俸は80万円で良いということになります。
どうでしょうか?
もうそろそろ、什一献金の根拠を聖書に求めるのはやめにしませんか?
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1180.伝統
名前:管理人(個人) 日付:2011/10/6(木) 23:17
これまでの多くの方々の書き込みから、什一献金に聖書的な根拠は無いことを
賢明な読者は悟られたと思います。
つまり、什一献金は単なるキリスト教的な習慣であって神の命令ではないと
言って差し支えないでしょう。
そして、日本のキリスト教会の最大の問題点は、什一献金という単なる
キリスト教的な習慣を、神様の命令だと偽って勧めていることです。
特に、キリスト教初心者にバプテスマクラスで、牧師が聖書を使って什一献金を勧める。
初心者の人なら什一献金を神の命令であると誤解してしまうでしょう。
このような偽りは絶対にあってはならないことです。
「『人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。
あなたたちは神の掟をすてて、人間の言い伝えを固く守っている。』
更にイエスは言われた。
『あなたたちは、自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。』」
マルコ7:7〜9
もし什一献金という『言い伝え』を大事にして、隣人愛という神の掟をないがしろにするなら、
私たちはイエス様に合わす顔がありません。
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