台湾びっくり旅行

                           2014.2.26〜3.1

 いきさつ

 会社勤めのころ同じ部に属していた同僚たちと『歩こう会』という会を結成した。

 そもそも、この会の始まりは会社が終わると同僚同士が近くの飲み屋で酒ばかり飲
んでいたが、これでは健康によくない。ここはひとつ大いに反省しようではないかという
深甚な思い(?)から歩こうということに一致した。

 第一回として平成7年10月にハイキングが行われた。
 それからなんと17年間続き、去年平成24年夏ごろには
100回を迎えることになる。そこで、100回を記念して海外
に雄飛しようということになった次第。

 ところが寄る年波には勝てず、いくら100回記念といえど
も真夏開催は厳しい。

  結果として気候が優しく、かつ財布にも優しい2月に記
念行事として盛大(?)に台湾旅行を行うことに決定した。

総勢12名 最年長が76歳、若手が62歳で平均は70歳ぐらいか。


 1.台湾

 九州と同じぐらいの大きさ。人口約2300万人 

 1600年初めにオランダが統治するまでは島主はいなかったらしい。

 その後、鄭成功(人形浄瑠璃の国姓爺合戦の国姓爺と言われ台湾の民族的英雄)
が統治したが26年ぐらいで、清朝に降伏する。清朝支配となるが台湾の統治には熱
心でなかったという。台南市にある赤嵌楼にある鄭成功の銅像

 日清戦争後、1895年から50年間、日本統治と
なる。日本の統治はかなりうまくいったようで、
日本本土並みの教育制度と上下水道を整備した。

今でも親日家が多い。
  
 
 



  


 



2.台湾の人たち


 我々のツアーについてくれたガイドさんは40半ばの女性。ところがこのガイドさん、
案内する説明の端々に蒋介石総統の話になると、どーも良くは云わない。

 台湾の観光名物、故宮博物館の説明でもなんとなく胸につかえたような説明ぶりである。

つまり、この蒋介石が大陸から持ち込んだ文化遺産を誇りたいが誇りたくない
という複雑な胸のうちのようである。
  島主の居なかった頃のから住んでいる原住民
の人、はるか昔に中国の福建省あたりから渡っ
てきた人たち。

これらの人たちは台湾人または本島人という。

 日本は、この人たちを日清戦争後、50年間の
間、統治してきた。

 そして、そのあと1949年に毛沢東に追われた蒋介石が
中国本土から引き連れてきた60万人の大陸系の人達で
ある。

 ところが蒋介石が連れてきた大陸系の人たちは台湾の国家機関を乗っ取り、本島人を差別し迫害し、多くの人を虐殺したらしい。
台湾人(本島人)からは『犬が去って豚が来た。』と云ってたいへん恐れ
たようである。

 その後、1990年に台湾人である李登輝が総統になったため、台湾人は、やっと
緊張を解くことができたが、それは,ほんの23年前のことである。

 私が彼女に「あなたは蒋介石のことや中国大陸の人のことを良くは云わないので
中国人のツアー客をガイドするときは具合が悪いのではないか」と尋ねたら「私は
中国人は案内しない。」ときっぱり。 かっこいい!!

 彼女にとっては、人生で一番輝いていたはずの20代青春のころに体験した恐怖と
屈辱の記憶はまだ鮮明に残っているのである。

 ここら辺のことを知らないと、うかつに「あなたたち中国人は・・・・・・。」などと、簡単に
言えないと感じた次第である。

 
 3.台中の交通

 台湾3番目に大きい街『台中』人口263万人、堂々たる大都会である。

  宿泊ホテルのそばに南北に走る4車線の主要道路があり大権路という名前どおり
の大通り。

 大権路は自動車とミニバイクであふれている。ホテルから大権路を南に3km足らずで
台中駅にぶつかる。 ホテルから台中駅の間の中華路というところに夜市がある。  

 ホテルから、夜市に行こうということになった。普通ならタクシーを利用するとこだが
我々は『歩こう会』という会に属する者なので、もちろん歩くことにする。

 ホテルの付近は道路を横切るための高架があり
歩道もゃんとついている普通に立派な道路である。

 ところが、その歩道が問題。歩道の幅は3mぐらい
のごく普通の幅。しかしその歩道には車やバイクが
直角に乗りあげ車の一部は車道に張り出して駐車
場化している。 

 またバイク屋さんの店の前の歩道にはバイクが
多く並んでおり、歩道の上が作業場としてバイクの
修理作業をしている。 

食べ物屋の前の歩道は食卓と椅子が並べられ
お客が食事している。

 店の前の歩道の両端には透明のビニールで塞がれて
おり歩行者が微妙に一人通れるぐらい開いている。

 そこを我々12名のおっさんが抜けていくのでまるで食堂に押し入ったような形で
横切っているような思いに駆られる。

 驚くべきは隣の店と自分の店との歩道の高低差は30cm以上の段差がある場合が
ある。あまりに段差が高いためか45度ぐらいの角度でセメントで坂を作っている所もある。

 確かにそれがなかったら自転車を押して歩いても
持ち上げるのは難儀なことだろうし、おそらく四輪
駆動ジープでも走破は難しいのではないか。
  
 30cm以上の段差を上がったり降りたり蹴躓
いたり、いわば大きい石がごろごろしている河原
を歩いているようなもの。 

 われわれ(12名のおっさん)はそのような歩道を
往復約4kmも歩いたのである。
                                              
 当然、歩道には歩いている人は見当たらない。
ほぼ我々だけ。

 しかし、店にはそれなりにお客が入っており賑やかである。

 例えば店内が覗けるタツゥの店があり、お客が痛さに顔をしかめているのが見えて
びっくりしたし、マッサージの店の前で立ち止まっていると素早く店のマスターらしき人が
刺青を誘ってくる。

 買物客は、ただ歩道を歩いて目的の店に到達するウィンドウショッピングではなく、
バイクか車で直接目的の店に乗り付ける点から点への移動である。

 あくる朝、ガイドさんに台湾では自分の店の前の歩道は店の私有物なのかと尋ねて
みたが公共物だという。

  地方都市では歩道に車を止めたり物を置いたりすることは目をつぶっているのだ
そうだ。

 確かに台湾の首都である台北では歩道は人が歩いている普通の歩道であった。
 しかし台中市263万人の都市が地方都市か?

 家に帰ってから図書館で借りた司馬遼太郎の
「街道を行く台湾紀行」を読んでみた。

 この本は1994年(20年前)に書かれたもので、
その中に「でこぼこの歩道」という章があり当時
の台北の歩道のことについて書かれている。

  そこには【台北では商店ごとに”私”が優っている。
自店の都合で店頭の歩道を盛り上げたり、そのままで
あったりする。

 戦前の台北ではありえないことでした。と、ある老台北が
日本時代のことをほめて(?)くれた。

蒋介石氏が来てから大陸の万人身勝手という風を持ち込んだのす。】と書か
れている。

 中正紀念堂の正面入ったところに蒋介石の大きな像があり、そばに『天下為公』
の額が掛かっているが司馬遼太郎に言わせれば「歴朝の中国皇帝は私で、公で
あったことがない」と喝破している。
 一番大切なものは自分の家族と親族という
”私”であって、”公”である国家や他人はあずかり
しらずというとこか。

「自分を守るのが精いっぱい」という歴史的背景
があり、そのため公衆道徳が育ちにくいと云う
ことらしい。

 台中は台北の20年前の状態が映し出している
だけでなく中国歴史の遺伝子も色濃く残している
ようであった。

 これもバスで通り過ぎるだけではと見過ごしてしまう。


 4.台湾高速道路

 台湾に行って一番驚いたのは高速道路が発達している事であった。

 高速道路の上に高速道路が立体交差していたり、その高さは30mぐらいあったりして
壮観である。

ただ日本より華奢な橋桁で支えられていたりするので少しだいじょうぶなのかなーと心配になる。

 それにインターチェンジがなく料金場が見当たらない。いつの間にか高速道路を走っている。

・・・・・・とするとタダ?

 台湾に失礼な言い方をするのを許してもらうならば、どー見ても日本のGDPと比較
すれば、すこし劣っていると思われる。

 少し小さい街などは昔の懐かしい日本の町並
である。

 だとすれば、どこから出てきたお金で高速道路
を作ったのであろうか。何故タダなのだろうか。

 アメリカが台湾の共産化を防ぐためお金を出し
たんだろうか? 疑問が多い。

インターネットで調べてみると解った、解った。
高速道路はタダではなかったのである。

 丁度、二か月前の去年2013年12月30日に料金所が
撤去され、その後、すべての車はETC化されETCを持っ
ていない車は走れないとのことになっている。

 高速道路上に一定間隔でセンサーゲートが゙あり通過
するとETCから情報を読み込み自動的に加算されるとのこと、このシステムは
世界初とのことである。

 日本ではインターチェンジがありETCを持っている車は20km/h以下でゲートのバー
に当たらないことを願いながら通過するが台湾ではインターチェンジなど無く速度も
下げず無意識にに通り抜けるだけである。

 一昔前までは台湾は、日本とアメリカの加工工場として大いにドルをため込んだし、
最近では電子工業が一大産業として隆盛を極め、シャープに資本投下をしようかと
するほどの実力がある経済大国である。

 そのための道路であり行政官僚の優秀さを理解した次第であった。



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