春の訪れ.1








「おはよう、お母さん」
「あら、おはよう、志穂。今朝は早いわね」
「うん。・・・携帯、ありがとう、お母さん。それでね、今日、出かけるから」
「俊也くんと?」
「うん。・・・お兄ちゃんが帰ってくるまでには戻るから」
「判ったわ。もうすぐだものね、俊也くんの出発」
 志穂は頷いた。
 そんな娘を、知香も微笑んで見つめる。





 昨日の夕方。
 知香は志穂に、約束していた携帯を今日、買ってほしいと言われて目を丸くした。
 確かに、電話関係は知香の給与で代金を支払っているから、契約の権限は知香にある。
 けれど、志穂がこんなに性急に電話を欲しがるなんて思っていなかった。
 理由を問いただすと、俊也とメールを交わしたいからだと言う。
 智史の親友であり、幼稚園から小学生の頃は夏休みなどに時々預かったりしていた俊也のことは、知香もわが子同然のように見ている。しかし、兄のように慕っているとはいえ、遠方の大学に進学する彼とメールのやり取りをしたいという、志穂の真意が測れずに、即承諾は出来なかった。
「志穂、いくらなんでも唐突過ぎるわよ? どうしてそんなに俊也くんとメールの交換をしたいの?」
「だって・・・・・」
 志穂は一瞬躊躇ったが、知香には正直に打ち明けることにした。
 きっと母は、応援をしてくれる筈だ。母も、俊也を好きでいてくれているし、遠距離恋愛の経験者だと聞いているから。
「俊也くんのこと、好きなんだもの。・・・告白、したの、今日」
 さすがに、知香も瞠目して娘の顔をまじまじと見つめる。
 俊也が智史だけでなく、娘たちとも親しいことはよく判っていたけれど、まさか、志穂が彼を特別な存在として意識しているとは思いも寄らなかった。
「志穂、それは、俊也くんがあなたの気持ちに応えてくれた、ってこと?」
「・・・うん。俊也くんも、私のこと、好きって言ってくれたよ。お兄ちゃんの妹だからじゃなくて、特別だよって」
「・・・そう」
 俊也の気持ちにも全く気づかなかった。
 まあ、彼がしょっちゅうこの大麻家に出入りしていたのは小学生までだし、家に来ても、智史と過ごしてばかりだったから、知香が気づかなくても当たり前なのかもしれないが。
 あの俊也のことだ、おそらくいい加減な気持ちで志穂を扱うようなことはしない筈。
 そんなことをしたら、智史との友情や、自分たち家族との関係も崩壊することが判らないような人物ではない。
「・・・志穂、解っていると思うけど、あなたはまだやっと高校生になるところなんだから、安易に深いお付き合いはしないでね。まあ、それは俊也くんの方にも言っておかなきゃいけないことなんだけど」
 知香は娘に釘を刺す。
 今時の子は、互いに好き同士であれば、簡単に体の関係を持ちがちだと聞いている。けれど、それは良くないことだ。
 智史とあきのも、今回一緒に旅行をしているが、そういう関係に安易に進まないという約束のもとで、祖父母の家に泊まらせてもらっている。
 遠距離恋愛になることが確実な志穂と俊也だからこそ、その辺りはきちんと弁えていてもらいたいと知香は思う。
「・・・うん。解ってるよ、お母さん。私には、そんなの・・・早すぎる。きっと、俊也くんだって解ってくれると思う」
 志穂も、しっかりと頷いた。
 母のすぐ上の姉である麻衣が助産師という仕事だということもあって、志穂は小学生くらいから生命についての話を聞かされてきた。
 特に、初潮を迎えてからは丁寧に、性の話を聞いている。伯母は、とても大切なことだから、と割とストレートに話をしてくれた。香穂と共に、恥ずかしがりながら聞いたけれど、正しい知識を身につけるということは大事なのだと母からも諭された。
 兄の智史は伯父の翔と話をしていたように思う。
 志穂が思うに、智史とあきのの間には深い体の関係はないだろう。
 智史はあきのを本当に大切にしていると思うし、俊也も、そんな2人を見て来ている筈だ。
 だから、きっと自分たちも大丈夫。
 妙な根拠かもしれないが、志穂は自分と俊也の関係をそんな風に捉えていた。





「あれ〜? 志穂ちゃん、今朝は早いよねー」
 9時半をだいぶ回った頃にようやく起き出してきた香穂に、志穂は苦笑する。
「香穂は寝過ぎだよ。私、もう少ししたら出かけるから。夕方までには戻るね」
「あ、はーい。行ってらっしゃい」
 欠伸をかみ殺したような顔は、兄の智史に雰囲気がそっくりな片割れを見て、志穂は軽く肩を竦めると、もう一度鏡の前で身なりを点検する。
 今日は、初デートだ。
 そう考えただけで、ドキドキ、ワクワクしてくる。
 じきに仙台に行ってしまう俊也とゆっくり出来る貴重な時間だから、目いっぱい楽しめたらと思う。
 買ったばかりの携帯の時計を見ると、約束の10分前。
 志穂はバッグを掴んで靴を履いた。
「じゃあ、行ってきまーす」
「行ってらっしゃい、志穂」
 知香の声に送られて家を出た。
 エレベーターのボタンを押すと、程なくそれが降りてくる。
 無人のそれに乗り込むと、1階のボタンを押して、志穂は防犯カメラには背を向けるようにして前髪を少し掴んでみる。
 ちゃんと鏡で確認したから、おかしくはない筈。でも、やっぱり気になってしまう。
 長い付き合いの俊也に対して、今更取り繕ってみても仕方がないのかもしれないが、そこは乙女心だ。
 大好きな男性(ひと)には、少しでも可愛く見られたいし、いい印象を与えたいと思う。
 1階に着くと、オートロックの扉の近くに、既に俊也が立っていた。
 志穂の姿を認めると、ニッコリと笑う。
「おはよう、志穂ちゃん」
「おはよう、俊也くん。・・・待たせちゃった?」
「いや、そんなことはないよ。ほんの数分だから。・・・行こうか」
 やさしい瞳の俊也に笑顔で頷いて、志穂は彼の隣に並ぶ。
 外はよく晴れていて、綺麗な青空に白い雲が浮かんでいる。
「今日は暖かいね。風はあるけど、寒くはないな」
「うん。気持ちいい感じ」
 マンションから道へ出ると、俊也は志穂に問いかけた。
「志穂ちゃんはどこか、行きたいところってある?」
「あ、えっと、特別には、ないんだけど・・・俊也くんは?」
「じゃあ、少し買い物につき合ってもらってもいいかな。最低限のものは揃えておかないと、向こうに行ってから困るだろうし、志穂ちゃんにも見てもらいたいんだ」
「うん、いいよ」
 日用雑貨を買いたいという俊也の希望に合わせて、2人は電車で数駅向こうの大手の雑貨店に向かった。
「向こうではどんな感じのところに住むの?」
「大学に比較的近い場所のワンルームだよ。東京よりは家賃が安いから助かるな」
「そうなんだ。・・・1人暮らしって、楽しそうな気もするけど、なんか、ちょっと恐そう」
「・・・そうだね。志穂ちゃんにはしてもらいたくないな」
 俊也が僅かに苦笑したので、志穂は首を傾げる。
「どうして?」
「女の子の1人暮らしって、何かと危ないこともあるみたいだし。大切な君が危険に晒されたり、恐い思いをするのは嫌だから」
「俊也くん・・・」
 当然のようにさらりと彼の口から出た言葉に、志穂は頬を染めた。
「ん? どうかした?」
「・・・や、えっと・・・なるべく、大学も家から通える所を探します」
「うん、それがいいと思うよ。まあ、勉強したいことが何かってのにも因るけどね、僕みたいに」
「俊也くんはいつから仙台の大学に行こうと思ってたの?」
「高校受験の頃からかな。星や宇宙の勉強をしたいと思って色々調べた時に、選択肢の1つになったんだ。それから、実際に高校で学んで、偏差値なんかを考慮して志望校にした、ってのが正しいかな。今は、天文雑誌なんかで見かけた論文の作者が教授の1人だって解ってるから、絶対講義を受けたいと思ってるよ」
「・・・そうなんだ。私も、入学したら考えなきゃ、なのかな」
「志穂ちゃんは将来就きたい職業とか、勉強したい分野とかはあるのかな」
「あ、うん。出来たら、お母さんみたいに幼稚園の先生とか、なれたらいいかなって思ってる」
「そうか。志穂ちゃんならいい先生になれそうだね」
 俊也の笑顔に、志穂も笑みを浮かべた。








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