やさしい風.2
病院に入っておおかた3時間後。 倫子は無事に男の子を出産した。 3562gという、大きな赤ちゃんで、とても元気な声で泣いているのを、智史とあきのは分娩室のすぐ脇の廊下で聞いた。 「生まれた・・・! 生まれたよ、智史!!」 「ああ。でっけー声だな」 赤ちゃんを抱いた看護師さんが、あきのと智史にその顔を見せてくれた。 「元気な男の子ですよ。よかったですね」 「・・・うわぁ・・・ホントに赤い」 「・・・おでこの辺、親父さんに似てんじゃねえ? こいつ」 「え〜、そうかな・・・でも、可愛い・・・私の弟だよ、智史」 「だな。・・・よかったな、あきの」 あきのはこくん、と頷くと、倫子のことを尋ねる。 倫子も無事で、後産も終わったから30分もすれば病室に戻ると伝えられた。 「病室で待っててあげて下さい、お母さんが戻られるのを。それに、お父さんにも知らせてあげて下さいね」 看護師に言われ、あきのは病室に移動して、それから総一郎に電話をした。 仕事中だった総一郎は安堵した様子で、定時ですぐに仕事を終えて駆けつけるようにすると答えた。 「・・・そうか。・・・んじゃ、俺はもう少ししたら帰るわ」 「えっ、智史?」 総一郎への報告を終えて、倫子の入る病室の前の廊下にいた智史にそれを話したあきのは、軽く瞠目した。 「・・・このままここにいても、仕方ねえだろ? ちゃんと無事に生まれたんだし、倫子さんも無事だし。それに、勉強もしねえと、な。入試はまだこれからなんだし」 「あ、そっか・・・そう、だよね・・・」 こうしていると、智史と一緒にいるのが当然のように感じてしまうが、彼とは恋人同士ではあっても、家族ではないのだ。総一郎がここに到着するのを待つ理由はない。 明らかに落胆した表情(かお)のあきのに、智史は苦笑した。 「・・・あきの。親父さんを待つのが苦痛なんか?」 「あっ、べ、別に、そういうんじゃないんだけど・・・明日から、学校には週に1度しか行かないし・・・このまま、智史と暫く会えないかと思ったら・・・なんか・・・」 「・・・淋しいってか?」 あきのはうっ、と言葉に詰まる。 そう。智史の言う通りだ。 2月の初めには、お互いに本命と滑り止めの入試を控えている。結果が出る半ば過ぎまでは落ち着かない日々を過ごすことになるし、とりあえず、試験が全て終わらないことには、ゆっくり会うこともままならないだろう。 これまで、毎日のように学校で顔を合わせていたのとは違う、その変化に、あきのは少し戸惑いを覚えていた。 しかも今日は、弟が誕生した嬉しい日。 もう少し、智史と一緒にいて、この喜びを分かち合いたいと思ってしまうのは、やはり自分のわがままなのだろうか。 あきのは躊躇いがちに口を開く。 「智史は・・・平気? 暫く、会えなくても」 「・・・そう、だな・・・」 智史は少し考えながら言葉を紡ぐ。 「・・・まあ、数日なら平気かもな。・・・煮詰まってくっと、会いたくなるだろうけど、まあ、暫くはしょーがねえだろ、お互いに。・・・解ってんだろ? お前も」 智史は真っすぐにあきのを見つめる。 あきのはこくん、と頷いた。 確かに、仕方がないことだという事は理解している。ただ、感情がそれを納得出来ていないだけ。 「・・・どうして、智史とずっと一緒にいられないんだろう・・・」 「・・・は?」 唐突なあきのの発言に、智史は眉を吊り上げた。 「どうしたんだ、いきなり」 「うん・・・なんか、やっぱり淋しいなあって思って・・・他人の筈なのに、こんな風に、倫子さんを助けてくれたり、弟が生まれたことを一緒に喜んでくれたりするから、家族みたいな感じがしてるのかもしれない。でも、やっぱり、他人、なんだよね・・・それ、しみじみ感じちゃったら、なんか、ね」 「あきの・・・」 2人でいることが自然なものになっているということは、良いことではあるのだろう。 ただ、お互いをどんなに大切に思っていても、朝も昼も夜も一緒に、ということは無理な話だ。 2人はまだ、高校生。その事実は変わらない。 智史はあきのを穏やかな瞳で見つめ返す。 「・・・まあ、今は仕方ねえよ。お互い、まだ子供(ガキ)だってことは変わらねえんだし。・・・早く、行き先決めて、落ち着きてぇよな。そうしたら、またお前とゆっくり会える」 「・・・うん、そうだね」 あきのも頭ではちゃんと理解している。お互いに受験生の身では、どうしようもないことなのだと。 そして、智史の言葉で、彼もまた、自分と一緒にいられたらいいと思ってくれていることが判って、少しではあるが安堵した。 「・・・あのね、智史」 「何だ」 「とりあえず、入試終わったら、電話してもいい?」 「おう、当たり前だろ?」 智史は口元に笑みを浮かべる。 「その頃には倫子さんと生まれた弟も退院して、家ん中バタバタしてんだろーけど。入試の結果出て、合格出来たら、遊びにも行こうぜ」 「ホント?」 「ああ。夏からこっち、殆ど遊んでねーしな。やりたいこととか、やってみたいこととか、あるんじゃねーのか? あきの」 智史の瞳は明るい未来を想像してか、期待の色を映している。 あきのもなんだか嬉しくなってきた。 「えっと、智史と一緒に水族館行きたい。それから、映画見たりとか、買い物とか・・・あ、日帰りで旅行とかもいいかな・・・」 思いつくまま、口にしてみる。 「・・・旅行、か・・・」 智史はその言葉に、卒業し、大学に合格したら、名古屋と京都の祖父母に報告がてら会いに行こうと考えていることを思い浮かべた。 どちらの祖父母にも、中学に上がってから今日まで、一度ずつくらいしか会えていない。殊に、梅雨の時期には伯父の翔に、伯母や従兄弟たちが会いたがっていると伝えられている。だから、余計に、今春は会いに行きたいと思っていた。 もしも、あきのと、総一郎が承知してくれるなら、その旅行を提案してみてもいいかもしれない。 しかし、具体的に話をするのは、入試が終わって合格という結果が出てからだ。 「・・・もしも、合格出来たら、考えてみてもいいかもな、旅行ってのも」 「うん。・・・でも、その前に、だね」 あきのが苦笑しながら軽く肩を竦めてみせる。 「ああ、お互い、頑張ろうぜ?」 「・・・うん」 お互いに頷きあって、智史とあきのは微笑んだ。 そうしているうちに、倫子が病室に戻ってきたので、あきのと智史は中へ入った。 「倫子さん、おめでとう。そして、お疲れ様」 あきのの声に、倫子はやさしい微笑みで答えた。 「ありがとう、あきのちゃん・・・大麻くんも、本当にありがとうね」 「あ、いえ、俺は別に・・・」 智史はゆっくりと首を横に振るが、倫子は微笑んだままで更に言葉を続けた。 「いいえ、君がいてくれて本当に助かったの。・・・私もだけど、あきのちゃんも、だいぶ慌ててたみたいだし」 「う・・・ご、ごめんなさい、倫子さん」 あきのが恥ずかしそうに肩を竦める。 「・・いいのよ、当たり前だと思うわ・・・それに、無事に生まれてくれたんだもの、それだけで充分よ」 「倫子さん・・・そうよね。あ、お父さんもね、電話したら定時で終わって駆けつけるって言ってた」 「そう。・・・ありがとう」 出産直後の倫子をあまり疲れさせてはいけないと、智史は早々に病室を辞することにし、あきのも、送りがてら、病院の玄関口まで行くことにした。 「本当にありがとうね、智史」 「いや・・・良かったよ、どっちも無事で。何よりだな」 「うん」 「・・・次は、俺たちだ」 「・・・うん、そうだね」 挑むような瞳の智史に、あきのも真摯な瞳を向ける。 「・・・絶対、合格して、お前と、親父さんに胸をはれるようにしたいな」 智史の言葉に、あきのは頷いた。 「私も、精一杯頑張る。智史やおばさまたちに、いい報告したいし」 「ああ」 智史も力強く頷いた。
手を上げて、家路についた智史の背中を見送りながら、あきのはやさしい風に包まれているような温もりで、心が満たされているのを感じていた。 無事に生まれた弟の存在が、自分たちの明るい未来を示唆してくれているようで。 「・・・名前、私も考えようかな」 ひとりごちて、あきのは倫子の元へと歩きだした。
END
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