Bitter Sweet Day







 
 私大の入試も終わり、合格発表を待つばかりとなった智史とあきのは、ようやく出来た束の間の自由な時間に、デートをしようと街へ出た。
「・・・そういえば、明日は2月14日よね」
 あきのは街中に踊る『バレンタインデー』の文字を見て呟いた。
「・・・やたら甘ったるい匂いが充満してんのはそのせいか」
 智史が眉根を寄せてそれに応えた。
 甘いものが苦手な智史は、その匂いもあまり好きではない。少しなら良いが、過ぎると気分が悪くなる。
 この時期のスイーツ店が多く立ち並ぶような場所は智史にとって鬼門、と言っても過言ではない。
「・・・そうね。ここら辺はスイーツのお店が多いから」
 あきのはきょろきょろと周囲を見ている。
「・・・こういうの、好きそうだな、あきのは」
 智史が僅かに苦笑いを浮かべながらあきのを見やる。
「あ、うん。私は甘いもの、好きだから。智史は、甘いものが苦手だから、こういう雰囲気もダメ? もしかして」
「あー、いや、雰囲気は別にどうってことねえよ。ただ、この甘ったるい匂いは、ちょっとな」
「あ・・・そうなんだ。・・・ごめんね、智史」
 あきのはどうしようかと思案しながら謝った。
 バレンタインデーが近いからなのか、チョコレートの甘い香りが漂ってきているのは確かだ。自分は色々なお店を見たいが、智史をそれにつき合わせるのは申し訳ない気がする。
「・・・どう、しよう? 少し、別行動にした方がいい?」
 遠慮がちに問いかけると、智史は瞬間眉を吊り上げたが、微かに溜息をついて軽く肩を竦めた。
「・・・折角こうして一緒に出かけてきたんだし、別行動するほどのもんじゃないだろ。・・・いいぜ、今日はお前につき合うよ、あきの」
「・・・でも、いいの? 智史。匂いが辛いんじゃ、苦痛でしょう?」
 気遣わしげな瞳で見上げてくるあきのに、智史は再び微かに溜息をついて苦笑いを浮かべた。
「・・・毎日とか、今日一日中ずっとってんなら退散すっけど、今だけだろ? その位なら何とかなる。それに、お前の楽しそうな顔見てんのは悪くねえしな」
「智史・・・ありがとう」
 あきのは微笑んで、智史の肘をそっと摘まんだ。
 遠慮がちのその仕草に、智史は僅かに目を細めた。
 こういうところが、あきのの純情を表しているようで、愛しさが募っていく。勿論、彼女の前でそれを晒すつもりはないが。
 洋菓子店のウィンドウを覗きながら瞳を輝かせているあきのに、智史は気づかぬうちに口元に笑みを浮かべていた。
「・・・ところで、何か買いたいもんでもあるのか、あきの」
「あ、うん。やっぱり、チョコを、ね・・・智史、甘くないものなら、食べられるんでしょう?」
 見上げるようにして問いかけてきたあきのの言葉に、智史は軽く目を瞠った。
「ま、まあ、そうだけど・・・俺に?」
「だって、他に誰に? 勿論、義理のは色々あげるよ? 実香子とか、倫子さんとか、志穂ちゃんと香穂ちゃんとか。でも・・・私が、気持ちを込めて贈りたい人は、智史だけだもの・・・」
 改めてそう言われてしまうとテレる。
 智史は視線を僅かに泳がせた。
「・・・そ、そうか・・・まあ、ブラックに近いチョコなら、食えないことはないぜ」
「うん。そういうのを探そうと思ってるよ。本当はね、悠ちゃんにもあげたいんだけど、それは無理な話だしねぇ」
 あきのはふふっと笑う。
 先月末に倫子が生んだあきのの弟は悠一郎と名づけられ、父親の総一郎はことのほか待望の息子をかわいがっている。
 仕事は相変わらず忙しそうではあるが、だいたい1〜2時間程度の残業で帰宅することが増えた。
 あきのだけでなく、倫子も目を丸くする程の溺愛ぶりで、息子というのはそんなに違うものなのかと感心してしまう。
「悠一郎はまだ赤ん坊だからなぁ。けど、来年になったらチョコは無理でも、お菓子なんかは食べられるんじゃねーか?」
「うん、多分ね。凄く楽しみよ、今から。悠ちゃんが大きくなるの」
 ニコニコして話すあきのに、智史は僅かに苦笑する。
「お前・・・弟にベタ惚れじゃねーか」
「ん〜、そうかも。だって、寝てるだけなのに、いくら見てても飽きないんだもの。ホントに可愛いの。よく『食べちゃいたいくらい可愛い』っていう表現を聞くけど、納得したわ、悠ちゃん見てたら」
 18歳も年が離れた弟というのは、そういうものなのだろうか。
 妹である志穂と香穂は、たまには、可愛いところもあるが、基本的にうるさくてうっとおしい存在だとしか思えない智史にとって、あきのが悠一郎に抱く感情が理解出来ない。
 妹たちとは3歳しか年が離れていないというのもあるのかもしれないが、あきのの発言は姉、というよりはむしろ母親、のそれに近いのではないだろうか。
「・・・そのうち、俺は忘れられちまいそうだな」
 ぼそり、と呟いた智史の言葉は、幸か不幸かあきのには聞こえていなかった。
「あ、ねえ、あのお店に入りたいんだけど、いい?」
 それは、最近話題のパティシエが開いているケーキショップだった。甘さ控えめで、季節のフルーツを使ったケーキに定評がある。
 智史はあまり知らないが、確か、知香がそんなことを志穂たちと喋っていたような記憶がある。
「・・・ああ、行ってこいよ」
 智史が頷くと、あきのは少し躊躇うように目を泳がせた。
「・・・あきの?」
「一緒に、行ってって・・・言ったら、怒る?」
「いや・・・怒りはしねえが・・・」
 店の脇にあるらしいダクトから、甘い匂いが流れ出しているだけに、店内も相当なものだろうと予測され、智史は正直に言えば遠慮しておきたかった。
 でも、なんとなく心細そうな瞳で自分を見上げてくるあきのを見ていると、無下に拒否も出来なくなってしまう。
 どうかしている、と思いつつも、智史はあきのの申し出を承諾した。
 あきのはあからさまに安堵の息をつき、扉を開ける。
 やはり、店内は甘い匂いで満たされており、智史は一瞬、息を止めた。
「えっと・・・あ、あっち」
 あきのはガラス製のショーケースではなく、焼き菓子などが置かれている棚の方に智史を誘った。
「智史、フルーツは大丈夫だったよね?」
「あ、ああ・・・マンゴーとかパパイヤとかはダメだが、それなりに」
「・・・これ、どうかな」
 あきのが示したのは、この時期だけの特設コーナーに置かれている、チョコレートの山の中にある、チョココーティングされたフルーツの小箱だった。
 生ものなので、日持ちはしないが、フルーツの自然な甘味とビターチョコがマッチして美味しい、と情報誌に載せられていたのを見て、智史にどうかと考えていたのだ。
「チョコはね、スイートじゃなくてビターなんだって。いちごやオレンジの味が損なわれないから美味しいって、紹介されてたんだけど・・・」
「・・・えらく、上等だな」
 智史はその値段を見て驚く。いちご2つとオレンジ1つで、結構な値段がつけられている。
「嫌い? こういうの」
 心配そうに問いかけてきたあきのに、智史はそうじゃない、と伝える。
「勿体無いだろ、俺には」
「どうして? 普段、智史から貰ってるものに比べたら、あまりにも些細で申し訳ないくらいよ。・・・なら、これにするね」
 あきのはそのチョコを買い求めて、2人で店を出た。
「・・・はあ・・・さすがに、店内は半端じゃねーな・・・」
 溜息をつく智史に、あきのは眉を顰めた。
「ごめんなさい・・・甘いバニラとチョコの香りが充満してたよね、店内。うっかりしてた」
目当ての店を見つけて、有頂天になっていたようだ。智史が甘い匂いがダメだと聞いたばかりだった筈なのに。
 しおれているあきのを、智史は苦笑と共に見つめ、その頭をごく軽くポンポン、と叩く。
「気にするな、あきの。つき合うって言ったのは俺だ。それに、結局は俺のための買い物してくれたんだし・・・ありがとな」
「智史・・・」
 仕草から、そのやさしさが伝わってくる。
 あきのは智史に向かってそっと微笑んだ。
「・・・ありがとう、智史」
 智史もそれに応えるように微かな笑みを浮かべる。
「・・・んじゃ、そろそろ行くか。・・・さすがに、この匂いの中にこれ以上いるのは辛いからな」
「うん」
 あきのは再び、智史の肘の辺りを僅かに掴んだ。
「・・・そうじゃなくて」
 智史は苦笑と共に、あきのの手をしっかりと己の腕にかける。
「こうしてりゃいいだろ。・・・お前、遠慮しすぎ」
「・・・ありがとう」
 はにかんだ笑みを浮かべたあきのを、智史はやさしい瞳で見つめていた。





END








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