朧月夜








 今日は倫子の帰宅が遅くなる。
 それが判っていて、尚且つ家政婦の矢野さんがお休みの日だということもあって、あきのは弟の悠一郎を保育所まで迎えに行き、その帰りに、こうして家から一番近いスーパーマーケットに立ち寄った。
「ねえ、悠ちゃん、夕御飯どうしようか? 何か食べたいもの、ある?」
「ちゅるちゅる! 食べゆー」
「・・・ああ、おうどんね・・・」
 2歳になった悠一郎は少しずつはっきりとした言葉が出てくるようになってきている。
 ただ、発音はまだまだ不明瞭な部分も多く、聞きなれた者でないと何のことだか理解出来ないものが半数くらいはあるように思う。
「そうね・・・桜は散ってしまったけど、まだ少しひんやりするから、あったかいおうどんにしようか」
「うんっ!」
 元気よく、嬉しそうに頷いた悠一郎に、あきのは自然と微笑む。
 うどんくらいなら、あきのにも問題なく作れる。麺も、だしも既に出来上がっているものを購入すればいいからだ。
 具材は何にしようかと、野菜のコーナーから豆腐などの大豆製品の置かれたコーナーへと移動して、あきのはふと、少し離れた鮮魚のコーナーに智史の姿があるのを見つけた。
 しかも、彼は1人ではない。
 肩より少し長い、茶系の髪の綺麗な女性と一緒だった。黒っぽいパンツスーツにA4サイズの皮のバッグを持った、OLらしき女性だ。
 距離があるので会話は聞こえない。でも、彼女と智史は親しげに寄り添い、魚のパックを吟味しているようだ。時折、笑顔になりながら、女性は彼を肘でつついたりしている。それでも、彼の顔に嫌悪の色はない。
 あきのは見てはいけないものを見てしまった気がして、暫し呆然となる。
 そして、ふらふらとそちらに足を向けていた。
 少しずつ距離が近づき、会話も聞こえるようになっていく。
「・・・それはダメよ、智史くん。こっちの方が新鮮だし、こっちにしたらどう?」
「けど、由紀子さん、コレ、ちょっと予算オーバーですよ」
「ん〜・・・じゃあ、これは? 煮るのも焼くのも御奨めよ」
「や、しかし・・・煮るのは、ちょっと・・・」
「何よ、それ。努力も必要よ?」
 また、女性が智史をつつく。それに対して、彼は苦笑いだ。
 あきのは顔色を失くす。
 こんなに親しげな年上の女性がいたなんて。今まで、全く気づかなかった。
 けれど、全くない、とは言い切れない。
 何と言っても、あきのと智史は別々の大学で学んでいるのだ。どちらも共学だし、彼はサークル活動もしている。もしかしたら、部活の先輩、ということもあり得るかもしれない。
 智史は、己の懐に一度入れてしまうと、相手が女性であっても刺々しい雰囲気を出さずに気さくにつき合える人だ。
 逆に言えば、親しくない女性は相変わらず寄せつけない、ということでもある。
 そういう意味で、目の前の女性は明らかに『特別』に分類される女性だということだ。
 なら、彼女は一体、智史の『何』なんだろう?
 立ち尽くすあきのと手を繋いでいた悠一郎が、歩を止めた姉を見上げて首を傾げ、それから視線を移して、智史の姿を見つけ、嬉しそうに叫んだ。
「しゃーにーに!」
「へ? ・・・悠一郎!? あきの?」
 智史は振り向いてあきのと、その手を握っている小さな悠一郎の姿を認める。
 しかし、あきのの強張った表情に一瞬瞠目し、隣の由紀子をちらりと見やって、ハッとした。
「あきの、違う!」
 思わず大きな声を出してしまい、智史は再度ハッとする。周囲の主婦らしき人たちの視線が一瞬己に集中したのを感じて、バツが悪い。
 一方のあきのも、その声に呪縛が解けたかのようにゆるゆると後ずさった。
 智史は眉根を寄せて、大股で彼女に近づき、買い物かごを持つ方の腕をぐっと掴んだ。
「離、して」
「誤解だ、あきの。あの人は・・・」
「・・・智史くんの彼女って、子持ちなの?」
 ある意味呑気とも取れるような口調で聞かれ、智史とあきのは同時に由紀子の方を見た。
「由紀子さん・・・んな訳ないでしょう。このチビは彼女の弟。俺ら、同級生っすよ」
「あら、同級生なんだ。じゃあ、彼女、うちの弟のことも知ってるのかな」
「え?」
 あきのは会話の意味が掴めずに困惑する。
「勿論ですって、由紀子さん。・・・あきの、この人は俊也の姉さんだ」
「え? 清水くんの、お姉さん?」
 言われて、あきのはまじまじと由紀子の顔を見た。程よい化粧が施されているが、目元や唇の形が確かに俊也に似ている。
 由紀子はニッコリと微笑んだ。
「俊也の姉の由紀子です。・・・あなたのお名前は?」
「あ、はい、あの、椋平 あきのといいます」
「・・・ああ、あなたが椋平さん。2年、3年とお世話になったそうね」
 由紀子の言葉に、あきのは目を丸くする。
 どうやら、俊也はクラス委員としてのあきのを褒める発言を由紀子にしていたらしい。
 由紀子は女らしさの中にもしっかり者を窺わせるものを持っている、とあきのは感じた。
「・・・じゃあ、私はさっきの鰆を買って帰るわ。智史くんも頑張ってね。椋平さん、機会があれば、また」
 颯爽といった感じで去っていく由紀子の後姿を見ながら、智史は微かな溜息をついた。
 それから、まだどこか呆然と様子のあきのに目を向け、その隣で一所懸命手を伸ばし、存在をアピールしている悠一郎の頭を撫でてやる。
「・・あきの、倫子さんは仕事なのか」
「あ、ああ、うん・・・そう。今日は遅くなるみたい。取材だから、って」
「それで、晩飯の買い出しを?」
「うん・・・悠ちゃんがおうどんがいいって言うから・・・」
「そうか」
 智史は再度、「ちゅるちゅるー!」と言いながらにこにこしている悠一郎の頭を撫でた。
「・・・あの、智史は、どうして?」
「ああ、うちは親父と母さんがどっちも新任の先生の歓迎会で、志穂はバイトでな。俺と香穂だけなんだ、今日は。・・で、まあ、その、なんだ、いつものことっちゃあいつものことなんだが・・・香穂と、な」
「・・・口ゲンカになったってこと?」
 智史と香穂は気性が似ているからか、よく口ゲンカをする。互いに『売り言葉に買い言葉』となってしまうケースが多いのは確かで、あきのも何度かそういう兄妹の言い合いを見ている。
「・・・そういうこった。最初は香穂の奴が何か作るって話だったんだが、全部自分がやるのはおかしい、俺にもやれ、ってことになって・・・」
 智史はそのやり取りを思い出して溜息をつく。
 基本的に、智史も香穂も調理にかかわることはないに等しい。掃除や洗濯物を取り込む、畳むといった作業はしても、こと食事作りに関しては知香に任せて頼っている。
 ここ半年程、志穂は自主的に調理を手伝っているが、智史たちは参加しない。
 今日も、最初は知香が何か作っていってくれる筈だったのだが、待ったをかけたのは意外にも父の安志だった。
「一食分くらい自分たちで作れ。そうすれば母さんのありがたみが解る」
 そして、香穂と何を作るか、どちらが作るか、の話をしていたら口論になった。
 結果、智史が主菜を、香穂が副菜を用意することになり、このスーパーに買い物にきて仕事帰りの由紀子に会い、アドバイスを受けていた、というのが一連の流れだ。
「・・・おじさまは、家事をされるイメージがないんだけど・・・」
 遠慮がちにあきのが言うと、智史は僅かに肩を落とす。
「それがな・・・親父、大学生になってから母さんと結婚するまで一人暮らしだったんで、どうも、最低限のもんは出来るらしいんだよ、これが。カレーとか、炒飯とかなら普通に作れるらしい。なんかな、さすがに俺も何も出来ないはマズいなって思ってさ」
「そうなんだ」
 父方の祖父母は愛知だと聞いた覚えがある。1人暮らし経験者なら、ひととおりの家事が出来て当然かもしれない。
「・・・まあ、啖呵切って出てきた以上、努力しねぇとな、俺も。あきの、お前はそれ買ったら帰るんか」
 かごの中のゆでうどんやうどんつゆをチラリと見て、智史はあきのの瞳を見つめる。
「あ、うん・・・悠ちゃん、きつねうどんが好きだから、そうしようかなって思ってるんだけど、野菜が足りないかなあって思って」
「・・・青菜の茹でたんとか、茹でた人参とか? 椎茸とかねぎ、くらいしか思いつかねーな、うどんとの組み合わせって」
「・・・だよね・・・人参にしようかなぁ・・・確か、お花の形の抜き型があったと思うから・・・」
「おはなー!」
 悠一郎の嬉しそうな声に、あきのはようやくぎこちない笑みを浮かべる。
「そうだね。お姉ちゃん、頑張るよ、悠ちゃん」
 悠一郎は姉の言葉にニコッと笑う。
 智史も悠一郎に笑みを向ける。
「良かったな、悠一郎。・・・俺も頑張るか。とりあえず、鮭を買って帰るわ」
「・・・塩焼きにでもするの?」
「・・・それ以外ねーだろ。多分、香穂はポテトサラダを作ってるだろうから、合わねーけど、しょうがない」
「ムニエル、とかは?」
「・・・作り方が判らん」
「あ〜、それは・・・さっきの、清水くんの、お姉さんに聞く、とか」
「由紀子さんに? ・・・面倒くせぇ・・・あきの、お前、知らねえのか?」
「えっと・・・確か、塩、コショウして、小麦粉をつけてフライパン焼く、んだったと思うんだけど・・・自信はないわ」
「・・・そんだけでいいんなら、やってみるか」
 智史はふう、と溜息をついてからあきのと悠一郎に微かな笑みを向ける。
「・・・じゃ、またな、悠一郎。あきのも、頑張れよ」
「あ、うん。・・・またね」
 去っていく智史の背中を見つめながら、あきのは唇を引き結んだ。
 自分が知らない智史の世界の一端を垣間見てしまったような気がして、なんだか落ち着かない。
「おうち、ちゅるちゅるー」
 そう言って手を引っ張ろうとする悠一郎に曖昧な笑みを返して、あきのも歩き出した。


 胸の中に小さく巣食う不安の種。
 それを振り払うかのように、歩く。



 日が沈んだ空には、朧月が浮かび始めていた。








END







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