長島城

所 在 地  三重県桑名市長島町西外面 別 名  
遺 構  堀 移築門 形 式  平城
築 城 者  伊藤重晴 築 城 年  文明年間(1469-87)
歴 史 長島城の起源は、寛元3年(1245)に藤原道家が館を構えたことに遡るとされるが、文明年間に北伊勢四十八家の一人、伊藤重晴が築城したことに始まる。
元亀元年(1570)、一揆宗徒に攻められて伊藤氏は滅亡し、一向一揆の拠点となった。伊勢に侵攻した織田信長に一向一揆衆は抵抗するが、天正2年(1574)に長島城を攻略され、大虐殺された。
長島城は滝川一益の居城となり、さらに天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦のあとは織田信雄、さらに豊臣秀次の持ち城になる。
関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601)に菅沼定仍が入封して立藩した。二代目の定芳は元和7年(1621)に近江膳所に転封となり、一時廃藩となる。
慶安2年(1949)、松平(久松)康尚が下野那須より入封し、城を改修した。しかし2代目の忠充が重臣を殺害し、改易となる。
元禄15年(1702)、増山正弥が常陸下館から入封し、以後、増山氏が明治維新まで在封する。
歴 代 城 主 伊藤氏、滝川氏、織田氏、豊臣氏、福島氏、菅沼氏2代(2万石)、松平(久松)氏2代(1万石)、増山氏(2万石)


       蓮生寺に移築された大手門
門の形式は高麗門。控え柱の上の切妻屋根に比して、本柱上の屋根が不釣り合いに小さく、移築に際してかなり縮小されている。


城跡は現在、長島中部小学校・長島中学校となっており、遺構は殆ど残存していない。 長島城の内堀の一部として機能した長島川

現地案内板の
長島城図

本丸、二の丸、馬場などで構成されており、長島川、二ノ堀、三ノ堀で守られている。


<アクセス>
城跡の長島中部小学校は、JR・近鉄長島駅の南500mの位置。国道1号線の長島橋信号から橋を渡った一つ南側の筋を西に入り、3〜400mで小学校の校門前に着く。校門の前の川沿いに車を駐車するスペースがある。大手門が移築されている蓮生寺は、小学校の前の橋を渡り、真っ直ぐ400m。(2012.05.13)

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