会津若松城

所 在 地  福島県会津若松市追手町 別 名  鶴ケ城 若松城
遺 構  石垣 堀 土塁 復元天守・門・櫓 形 式  平城
築 城 者  蒲生氏郷 築 城 年  文禄2年(1593)
歴 史 会津若松城の起源は、至徳元年(1384)に蘆名直盛が東黒川館を築いたのに遡り、黒川城として蘆名氏が代々居城とした。
天正17年(1589)、伊達政宗は蘆名氏を滅ぼして黒川城に入城した。しかし天正18年(1590)、伊達政宗は豊臣秀吉に会津を召し上げられた。
かわって蒲生氏郷が黒川城主となり、近世城郭として大改造して鶴ケ城と改称し、城下も若松に改名した。
慶長3年(1598)、蒲生氏郷を継いだ秀行は下野宇都宮に移封され、上杉景勝が入封した。しかし慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、上杉景勝は減封のうえ米沢に移され、蒲生秀行が再入封した。
寛永4年(1627)、蒲生氏は無嗣のため移封され、かわって加藤嘉明が入封したが、寛永20年(1643)、会津騒動により加藤氏は改易され、出羽山形より保科正之が入封した。
保科正之は3代将軍徳川家光の庶弟であり、保科氏は松平氏と改称して明治維新まで続いた。
慶応4年(1868)、戊辰戦争に際して会津若松城は籠城戦の末に開城した。
歴 代 城 主 蘆名氏 伊達氏 蒲生氏(92万石) 上杉氏(120万石) 蒲生氏(60万石) 加藤氏(40万石) 保科・松平氏(23万石)


本丸 天守(復元)


現地案内マップ

本丸の北と西に北出丸と西出丸を、東に二の丸と三の丸を、それぞれ配置し、これらは水堀で囲まれている。さらに惣構として外堀と土塁が東西2.1km、南北1.4kmの範囲で巡っていた。


鉄門(復元) 走長屋と干飯櫓(復元)


西中門跡 北出丸大手門跡


廊下橋と廊下橋門跡 内堀と高石垣


 <アクセス>
会津若松城は、JR会津若松市の南2kmの位置。城の西出丸に大きな駐車場がある。西出丸駐車場への道は一方通行であり、城の北を東西に走る道の「北出丸」交差点から入ることができる。(2013.06.11)