ちっぽけな旅
 京大病院に入院している息子に付き添っている私のもとに、義母が倒れたという連絡が入ったのは2001年の四月初めだった。幸いなことに軽症の脳梗塞で、命にかかわるような状態ではなかったが、義母もまた、入院生活を余儀なくされた。その日から母が洛東病院へ転院するまでの1ヶ月間、私は京大病院から大津日赤へ通うことになった。
 東大路通りを東山までくだり、そこから地下鉄東西線で山科へ。山科からは京阪電車で上栄(かみさかえ)駅までの道のりである。バスや電車を乗り継いでいると、自分で車を運転していては見落としてしまうような小さな景色の変化に気づく。そして、ずいぶん久しぶりにこの変化の中に身をおいたような、懐かしいにおいを感じていた。
フッと車窓から外を見ると、桜が満開なっていた。毎日毎日生活に追われ、息子の病気に苦しみ、下ばかり見つめていたのではないだろうか。ああ、季節はまちがいなく廻っているんだ。電車に乗っている間は何もできないのだから、だったら、私の時間を持とう、とそのときに思ったような気がする。
バスや電車を乗り継いでいる間は、家庭でもなく、病院でもなく、まさに、生活の狭間に存在する旅空間なのだ。
 五月半ばに母が転院してからは、主人と相談して病院に自転車を置くことにした。地図をみると二つの病院は、ともに東大路通り沿いに在る。自転車をこぐと、五月の風が肌にやさしく心地よく、少し横に外れた細い道はいつもの見慣れた風景ではなく、何もかもが新鮮で、それでいてなつかしかった。
白川に沿って行くと、子供たちが川の中で水遊びをしていたり、おばあさんが打ち水をしていたり、花しょうぶが咲いているのが見える。
私の日常を忘れさせてくれるのには充分であった。
それに、全国各地から訪れているであろう旅行者たちに自分がまぎれてしまっているのも、何となくうれしいような気がした。
 そのうちに本格的な梅雨が始まり、夏のギラギラした陽ざしが照りつけるようになるころ、母は退院した。それ以後、私のちっぽけな旅は我が家と息子の病院の間の電車の中だけになってしまった。たった20分程の時間だったが、その間の勉強のおかげで、11月に福祉住環境コーディネーター2級の資格へチャレンジし、合格もできた。
 おかげさまで、息子は、2002年の3月から在宅看護にきりかわり、看護師さんやヘルパーさんたち、多くの人々に支えられてなんとか暮らしているような毎日である。私はといえば、バタバタと雑事に追いかけられている・・・
こうやって我が家で過ごすことができる幸せをかみしめながら、時々、フッとあのあわただしく過ごした日々にあった、私だけのちっぽけな旅が、ちょっと懐かしく恋しくなることがある。
2002,金木犀香るころ 記
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