野中の一本道
 久しぶりに実家の庭先に立った。
私が生まれ育った家は、比叡山の中腹とでもいうような山あいにあり、遠くには琵琶湖が望める。
以前と同じように家のまわりだけは、草や木が生い茂り湖は陽の光に輝いているが、付近の風景はすっかり変わってしまった。
野中の一本道のようにくっきりと通っていた江若(こうじゃく)鉄道は、もう30年以上も前に廃線になって、その跡を今は、JR湖西線が走っている。
 江若鉄道というのは、料金の高さでは日本で一、二位を争うような私鉄ローカル線だった。
その昔、近江と若狭を結ぶ目的でつくられたらしいが、とうとう、つながることがないままに廃線となっている。のどかな単線でいつも二両編成くらいの小さな列車が一本道をガタゴト走っていた。
ダイヤも1時間に一本あるかないかだったが、それでも、湖西路に暮らす我々にとっては生命線とでもいえるような交通機関であった。
 私がいつも乗り降りしていたのは雄琴(おごと)という駅で、この駅にかぎらずどの駅も待合室もあるかないかの小ぢんまりした駅舎だった。駅員さんも一人か二人くらいではなかっただろうか。

あのころは、家族向きの温泉地で小さな旅館が立ち並ぶような町だった。ホームに降り立つと、淡色のスーツ姿で頭には小さな帽子、胸にはコサージュと、一目で新婚旅行とわかる二人連れや、週末には家族連れの姿が見られたものだ。
 そんな小さな駅を、私は通学のため、ほぼ六年間利用していた。
中学時代は日吉駅まで一区間の乗車で、家から駅まで徒歩で三十分強。どうして自転車を使わなかったかというと、帰りの坂道がつらかったから、ということにつきる。
乗車時間は約五分。駅から学校まで歩いて十五分ほど。家から直接学校へ歩くコースもあったのだが、途中に谷を越え険しい崖道を通らなくてはならなかったので、わざわざ遠回りをしてでも列車通学をしていた。

 「おまはん、キンチャクノフチを歩いてるようなもんやのう・・」

とは、近所のおじさんの弁である。「キンチャクノフチ・・・?」と、ひっかかっていたのが、「巾着の縁」だと理解したのはずいぶんと後になってからだが、妙に言い得てて感心したことしきりだった。
 高校時代は浜大津まで乗車した。
なにぶん本数の少ない鉄道だったので、市内に通う高校生は、ほとんど同じ時間帯に乗り合わせていたのではないだろうか。
名前は知らなくても、お互いにそれぞれの位置を認識していて、よほどのことがない限りその場所を尊重していたような気がする。
そのころからかなりの年月を過ごしてきたけれど、町でみかけた見知らぬ人が、どこかで会ったことがあるようなきがして、よく思い出してみたら江若鉄道で一緒だった人だった、なんてことが時折ある。
 新学期が始まるころ、線路のまわりの田んぼには、菜の花が一面に咲き、その向うの山すそには桜の花がボカシ絵のようにひろがっていた。

桜が葉桜となるころには、黄色一面だったあたりの色合いが、薄ピンクのれんげ畑と変わり始め、そのころになると、どの家の軒下にもツバメが巣作りを始めようとせわしく飛び回る。そして、代かきを終えた田んぼの上をツバメ達は低空飛行をくりかえすようになる。

稲の成長とともに、その緑色がだんだんと深く濃くなっていくことや、そよぐ風に通り道があるんだと気づいたのも、あのころだったように思う。
 夏休みが終わり、体育祭だ、文化祭だと騒いでいる間に、ある日、フッとあんなに緑深かった田んぼの景色が、一面黄金(こがね)のしとねと化しているのに眼をみはる。そして、いつのまにか刈り入れが終わり、またもとの荒涼とした大地むき出しの季節がやってくる。
 毎日毎日同じ事を繰り返していても、何気なく顔をあげたとき、昨日と違う今日に驚くのが大好きだった。

私は、そうやって季節の移ろいを感じていたのではないだろうか。
 青春時代の私を乗せた野中の一本道は、新しい風景の中に埋もれてしまいそうだ。
けれど、?十年過ぎた今でも、季節は廻り律儀に時は刻まれている。今年も、近くの川べりには菜の花が咲き桜並木もにぎわった。向かいのガレージには、ツバメも同じようにやってきている。

そして、私の中の一本道は、青春と呼ばれた日々に、いつでもさかのぼれるダイヤが、心の時刻表にしっかりと記されている。
多分、誰しもの心のなかにも・・・






2003,風薫るころ 記
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