アマ小説家の作品

◆I am What I am◆ by日向 霄
 「何か身分を証明できる物はお持ちですかぁ?」
 入会金と申込用紙を差し出すと、彼女はにこやかにそう言った。「え? いや、ちょっと今……」
 この間会社を辞めたばかりで失業中の人間に、いきなり『身分証明』と言われても困る。
「運転免許証でいいんですけどぉ」
 だから俺は免許も持ってないんだって。
「お持ちじゃないんですかぁ? じゃあすいませんけど、入会手続きはちょっとぉ」
 たかがレンタルビデオだぞ。たかがレンタルビデオ店の、たかがバイトの女の子(明らかに俺より年下だ)に、なんでそーゆー見下したような目で見られなきゃならないんだ、おい。
「また出直すよ」
 そう言って店を出たものの、俺はもちろん不愉快だった。二度と来るかこんな店。
 悪かったなぁ、失業中で。悪かったなぁ、今どき車の免許も持ってなくて。
 大体。と、駅へ向かいながら俺は思う。
 大体だな、なんでたかがレンタルビデオ店の会員になるぐらいで、会社や警察に身分を保証してもらわなきゃならないんだ? どんな立派な社員証を持ってたって、ビデオを返さねぇ奴は返さねぇし、ヤクザだって免許ぐらい持ってんだぞ。一体何の保証になるってんだよ。
 まったくこのところロクなことがない。この若さでリストラに会うわ、女にはふられるわ、気晴らしに寄ったレンタルビデオ店では門前払い―――。こんな理不尽なことがあっていいのか、いや、よくない(反語)。
 その財布を見た時も、何か嫌な予感がしたんだ。そんな、往来の真ん中にこれ見よがしに落ちてる財布なんて、ロクなもんであるはずがない。知らんぷりして通り過ぎるのが賢明ってもんだ。もし大金が入ってたとしたって、俺のことだ。ネコババできるほど度胸はないし、空の財布を手に入れたところで嬉しくもなんともない。
 そう頭では思っているのに。
 俺の腕はついついその財布を拾ってしまっていた。社員証も運転免許も持っていないが、俺は十分善良な小市民なのだ。金が入っているいないに関わらず、落とし主は困ってるに違いないんだから、そりゃ拾って警察に届けておいてやるのが見つけてしまった者の義務だろう。
 しかし、というか何と言うか。
 その財布には万札がぎっしり詰まっていて、おまけにクレジットカードやらキャッシュカードやらがこれでもかというぐらい入っていた。
 まずい。
 何だかわからないがとてもまずい気がする。
 しかしだからって拾ってしまったもんをまた道ばたに置き直すのはよけい変だし、知らん顔で持って帰るのは更に一層まずすぎる。
 仕方なく、俺はその財布を手に駅前の交番に足を踏み入れたのだった。
「拾った状況を詳しくお教え願えますか?」
 その若い警察官は、いたってにこやかに調書を取り始めた。
 だから嫌なんだよなぁ。『はい、落とし物』で済まないんだから。別に急いでるわけでも何でもないけど、善良な小市民なら誰だって、警察なんかと長くお付き合いしたくはないはずだ。
「すいませんがここに、御名前と御住所お願いします」
 『拾った状況』とやらを一通りしゃべった後で、俺はその調書に名前と住所を書いた。あー、嫌だ嫌だ。別に拾い主から謝礼なんて届かなくって全然いいのに。
「はい、どうもありがとうございます。高橋健二さん、ですか。すいません、高橋さん、何か身分を証明できる物お持ちじゃないですか?」
 え?
「あ、いやいや、誤解なさらないで下さい。別にどうということはないんですけどね、規則なんで」
 まさか、な。
 だって俺、財布拾っただけだもんな。拾って、ちゃんと届けに来たんだから。うん、そうだよ、身分証明書持ってないからって別に、どうにかなるわけがない。
 俺は言った。
「すいません。俺、この間会社辞めたばっかりで、社員証とか何にも持ってないんですけど」
 ついつい『すいません』と謝ってしまうところが、ホントに俺って小市民だと思う。
「ああ、いや、免許証でけっこうですよ」
 とにこやかに言われても。
「えっと、その、免許も持ってないんですけど……」
 一瞬、その若い警官の目が冷たい驚きに見開かれ、すぐに奇妙な笑みに取って代わられた。
「嫌だなぁ、高橋さん。冗談は言いっこなしですよ。持ってるんでしょ、免許。けちけちしないで見せて下さいよ、ちょっと確認するだけなんだから。あ、それともひょっとして免停中なんですか?」
 ………そりゃ、今どきこの年で免許持ってない男なんて見つける方が難しいぐらいかもしれないけどよ………。しかしだからって何だ、その言いぐさは。
「そう言われても持ってないもんは持ってないんです」
 怒りを抑えて、俺は言った。
「え? ホントに? ホントに持ってないんですか? ホントに?」
 だぁかぁらぁ。何でそんなことで嘘をつく必要があるって言うんだよ。それとも何か、日本国民は全員車の免許を取らなきゃならないって法律でもできたのか?
「俺はね」
 警官のわざとらしい驚きぶりがあまりにも鼻についたので、ついつい俺はよけいなことを言い出してしまった。
「俺は嫌いなんですよ、車ってやつが、そもそも。あんなもの環境に悪いだけじゃないですか。他に交通手段のない田舎ならともかく、こんなとこで車なんか持ってたって駐車場代がかかるだけだ。あんなものがあるばっかりに、おまわりさんだって駐車違反だのスピード違反だの取り締まらなきゃならないんでしょうが。交通事故だって起こるし」
 そうだそうだ、その通りだ。車なんて百害あって一利なしだ。
 俺は、『まあそれはそうなんですけどねぇ』という警官の相づちを待った。
 が。
「いやぁ、でも仕事がなくなっちゃうのはこっちとしても困るんですけどね。みんなが違法駐車してくれるからぼくも警官としてお給料をもらえるわけだし」
 おいおいおい、それはどーゆー理屈だ。
「それにね、高橋さん、考えてもみて下さいよ、自動車産業がなくなったら、一体どれだけの失業者が出ると思うんです? 法人税だって入ってこなくなるし、日本は一気に貧乏になっちゃうんですよ。やっぱり都市部でも一家に一台ぐらいは買ってもらわないことには」
「あんた警官のくせに交通事故死者数のグラフ見て何とも思わないのか?」
「違いますよ、高橋さん。あれは車が悪いんじゃありません。悪いのは人間です、人間。ハサミだって使いようによっちゃ立派な凶器になるんです。同じことですよ。ハサミで人が殺されたからって、この世からハサミがなくなればいいなんて誰も思わないでしょ? 運転する人間がルールを守りさえすればいいことなんです。もし車に責任があるとしたら、ぼくは車を逮捕しなきゃならなくなるじゃありませんか」
 ………ひょっとしてこいつ、とんでもなくイカれた野郎なんじゃ………。
「とにかく俺は個人的に車が嫌いなんですっ。従って免許も持ってないんですっ」
「何もそんな力いっぱいおっしゃらなくても」
 俺だって別に力説したくなんかないよ、たかが免許証一枚のことで!
「でも困りましたね」
 さして困ったふうもなく、頭を掻きながら、そいつは言った。(もうおまえなんか『そいつ』扱いだ。ちきしょー)
「あなたの身の証が立たないとなると………」
「身の証って、俺は財布を届けただけでしょうが」
「いや、それはそうなんですけどね。財布を届けていただいたことに関してはホントにありがたいんですけど、でも、ひょっとしてあなた、不法滞在者かもしれないでしょ?」
 はぁ?
「あのね、自称高橋健二さん」
「自称も他称も、俺は高橋健二なんだよ!」
「でも」
 勝ち誇ったような笑みを浮かべて、奴は続けた。
「あなたはそれを証明することができない」
 あ、あ、あ。
 開いた口がふさがるかぁ。
「いいですか、自称高橋健二さん。あなたは自分が確かに高橋健二であるということを証明できない。ということはつまり、あなたが日本国民であるかどうかもわからない。もしあなたが日本国民でなく、他国のパスポート及び正式なビザ、又は外国人登録証をお持ちでない場合、私はあなたを不法滞在者として逮捕しなければならないんですよ」
 唖然とした。今この時の俺以上に唖然とすることなんてできないだろうほどに、唖然とした。
「この、どっからどう見ても伝統的日本人のっぺり顔、おまけに胴長短足で近眼の俺が、ふほーたいざいしゃだって?」
「またまたぁ。ぼくが言ってるのは国籍のことで、人類学上の分類のことなんかじゃないんですから。ホントに日本人は困るんですよね、一国家一民族だなんて思ってるから。あ、でも発想が日本人的だからって、あなたが日本国民かどうかは別問題ですよ、もちろん」
 俺は財布を拾っただけだぞ。拾って、届けただけだぞ。『はい、落とし物』って、それでいいだろうがよ、普通はよぉ。
「いい加減にしろよ、てめぇ」
 思わず知らず、ドスの効いた声が出た。
「警官だからって、小市民をからかって喜んでんじゃねぇや、このとっちゃん坊や!」
 がちゃ。
「警官侮辱罪です」
 にこやかに。あくまでもにこやかに。
 そして俺の手首には手錠が一つ。
「あ、あ、あ」
 あまりのことに、言葉が出てこない。
「ちなみに自称高橋健二さん、健康保険証持ってます? あ、もちろん今持ってるかどうかじゃなくて、家にあればいいんですけど」
 健康保険証………。退職する時取り上げられて、そうだ、任意継続にしたけど、新しい保険証はまだ届いてない。
「その顔じゃ保険証も持ってないようですね。仕方ない、じゃあ最後のチャンスです、パスポートは?」
 持ってない。
 持ってない! 俺は海外旅行には興味ないんだよっ!
 奴は軽く首を振って答えた。
「あーあ、ホントに困った人だな。パスポートぐらい取っとくもんですよ。日本国民だって主張したいんならね。じゃ、自称高橋健二さん、署の方に行きましょうか」
 何でそうなるんだーっ。
「ちょっ、ちょっと待てよっ、じゃあおまえはどうなんだよ、いくらおまえがパスポートだの警察手帳だの持ってたって、おまえが本当に”そいつ”だとは限らないじゃないかっ。大体戸籍謄本に顔写真がついてるわけじゃあるまいし、そんなこと言い始めたら誰も自分が何者かなんて証明できないじゃないかよっ!」
 にやっ。
 振り返った奴の顔に浮かんだ微笑は、俺の背筋を寒くするのに十分だった。
「その通りですよ、自称高橋さん。でもだからこそ、ルールがあるんです。それを持っている者を、その人だと認めるというね。たとえぼくが偽物だったとしても、そんなことはどうでもいいことだ。あなたが本物の高橋健二だということが、どうでもいいように」
 この世に悪魔というものが存在するなら、そしてその悪魔に微笑むことが可能なら、まさしく今、俺の視界一杯に広がるのがそれ、悪魔の微笑だった。
「それでも俺は、高橋健二だ」
 力なく、俺は言った。そして叫んだ。心の中で。
 それでも俺は、高橋健二なんだーっ。



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