アマ小説家の作品

◆伝言◆ by日向 霄
 TRR………TRR………。
『はい、秋本です。ただいま留守にしております。ピーッという音が鳴りましたらお名前とご用件をどうぞ』
 ピーッ。
「もしもし、ぼくです。明日の午前十一時、西都デパートの屋上遊園地で待ってます。必ず来て下さい。でないともう一生逢えませんから」


 その声に、聞き覚えはなかった。だから、わざわざ出かけていく必要なんてなかった。それなのに、約束の時間、約束の場所にふらふらと足を向けてしまったのは、どうせ暇だったのと、留守番電話に入っていたその声が、やけに意味深な響きを持っていたからに違いない。
 屋上へ向かうエレベーターに乗り込みながら、俺は初めてデートに赴くガキみたいに、ひょっとして来てないんじゃないだろうか、自分は裏切られるんじゃないだろうか、どんな風に声をかけようかと一人でどぎまぎしていた。声をかけるも何も俺は相手の顔も名前も知らないのだ。一体どうやって逢うつもりなんだろうか。
 日曜の屋上遊園地は、予想以上に混んでいた。家族連れや、親が買い物をしている間に勝手に遊びに来ているらしい子供達。ソフトクリームを食べている中学生ぐらいのグループもいる。俺はその中を、おのぼりさんのようにキョロキョロしながら歩いていった。あんなイタズラ電話にひっかかって、のこのこ出かけていったなんて知ったら、我が愛しの悪友どもはどれほど馬鹿にしてくれることだろう。
 だが俺の予想に反して――あるいは期待に応えて――、俺は奴を見つけてしまった。
 屋上に張り巡らされた高い金網を透かして、奴はどこか遠くを見ていた。その背中があんまり場違いだったので、俺はそれが電話の主だと知ったのだ。
「あの、すいませんが」
 来る道々さんざん考えたにしては、芸のない声のかけ方だった。
 奴は振り向いた。振り向いて俺を見た。
「秋本さん?」
 特に何ということはない少年だった。高校一年生ぐらいだろうか。紺のコールテンのコートと、柔らかそうな黒い髪がなんとなくお坊っちゃん風に見せている。俺の名前を尋ねた時、奴の黒い瞳に浮かんだ好奇の色は、俺が頷いたとたん、あからさまな嘲りのそれに変わった。
「こりゃ驚いたな。まさかホントに来る奴がいるなんて。今まで何度かやったけど、来たのはあんたが初めてだよ、秋本さん」
 そう言って奴はくっくっとおかしそうに笑った。俺はむっとして言い返した。
「そのくせ律儀に待ってるんだな、このイタズラ小僧」
 奴は眉をしかめた。俺を殴るべきかどうか決めかねるようにしばし睨みつけた後で、奴はふっとため息をもらし、金網に背を預けた。ずいぶん投げやりなやり方で。
「あんた大学生? それとも働いてんの?」
「会社員だ」
「ふうん。若く見えるって言われない?」
「言われない。本当に若いから。そっちこそ童顔だって言われるだろ」
「言われない。本当に若いから」
「いくつだ、おまえ。名前は?」
 俺は奴と並んで金網にもたれた。
「そんなこと聞いてどうするわけ? 親に連絡でもするの? お宅の息子さんは悪質なイタズラ電話をなさいますって」
「呼び出してただ会うだけなら悪質ともイタズラとも言わんだろ。俺は別にたいした迷惑もこうむってないわけだし。まだ、今のところは。ところでおまえ、何しにこんなことやってんだ? ただのイタズラでなきゃ、賭けか?」
「そんなとこかな。もし電話の相手がやってきたらぼくの勝ち」
「じゃあ俺のおかげでおまえは儲かるわけだ」
「お金を賭けてるわけじゃないよ。ぼくが賭けてるのは」
 奴は意味ありげに俺の顔を見た。ずるそうな微笑が唇の端に浮かぶ。
「ぼくが賭けたのは、ぼくの命さ」
 黒い瞳が残酷な光で俺を射た。俺は何か傷つけられたような、侮辱されたような想いで――事実奴は侮辱したのだろうが――、奴を見つめた。魅入られたように、とっさに言葉が出てこなかった。
 と。突然笑い声が弾けた。笑ったのは俺ではなかった。
「あんた、そんなに信じやすいと、そのうち本当にひっかかるぜ。ぼくなんかよりずっと悪質な奴にさ」
 言いながらも、奴の笑いはなかなかおさまらない。腹が立ってきた。さっさと背を向けてこんなガキとはおさらばするべきだった。だが、腹が立っていたのだ。
「ご親切に、忠告ありがとうよ。けど俺は、だますよりはだまされる方が性に合ってるんだ」
「善良なことで。でも誰も誉めてくれやしないぜ」
「誉められるために生きてるわけじゃない」
 今思えば、よくもそんなかっこいいことが言えたものだが、その時は意固地になっていて、奴の言うことにはとにかく反対してやろうと構えてしまっていたのだ。それぐらい奴は挑戦的だった。顔も。声も。
「じゃあ何のために生きてるわけ?」
「そんなもの一言で言えるかよ」
「長くなってもいいよ。ぼくは暇だから」
 たじろいだ。『そんなもの言葉では言えない』と言うべきだった。だがもう遅い。奴はそれ見たことかと言わんばかりの表情で、ふいに目を金網の向こうへやった。
「あの人混みの中で、何のために生きてるか知ってる奴が何人いるかな」
 見下ろした地上には、どこへ行くとも知れぬ人の波と、車の列。
「こっから見ると、まるでゴミだろ。うじゃうじゃとさ。奴らの一人一人が、感情を持って日々の生活を営んでるなんて、とても思えやしない。こっから見れば、ただのゴミだもの」
 確かに、名前も顔も持たず流れていく群衆は、ほとんど空恐ろしくさえある。ひとたび地上へ降りてしまえば、俺だってあの中の一人に――いや、一部に――なってしまうのだ。
「一体どこからあれだけの人間が湧いて出るんだろうな。しかも俺の知らない奴ばっかり」
「地球上には、ぼくの知らない人間が、まだ四十五億も生きてるよ」
 四十五億。ほとんど想像もつかない。ただの数字としてさえ理解の域を越えてるのに、その一粒一粒に顔があり、名前があり、人生があるなんてことは。
 四十五億分の一か。
「おまえが俺の家に電話をかける確率は、どれくらいだろうな」
「さあ。一分の一ってとこかな」
「そんなわけないだろ」
「あんまり確率が低いと、偶然は必然になると思わない?」
 奴は初めて、混じりけなしの微笑を浮かべた。つられて俺も苦笑い。
 俺達はしばらくそうやって地上を見下ろしていた。子供達の歓声を、背中に聞きながら。
 それから昼メシを一緒に食って、俺達は別れた。わざと名前は聞かないまま。縁があれば、いつかまた逢うこともあるだろう。一分の一の必然で。


 留守番電話の録音を聞く時には、妙にどきどきする。まだ逢ったこともなく、これからも逢わないかもしれない誰かからの伝言が、入ってやしないかと。
 そして、奴からの伝言が。


 TRR………TRR………。
『はい、もしもし』


※この作品は、1990年4月発行の同人誌『水と木々の対話Vol.5』に掲載したものに、ほんのちょっと手を加えたものです。あのころは若かったわね……。


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