本の虫

◆第70回 番外編『古典を楽しむ』◆

 今回は番外編です。『本の虫』でもあるし、ひょっとしたら『アマ小説家はつらいよ』でもあるかもしれません。

 blogを読んでくれている読者の方ならご存知の通り、私はついこの間、『カラマーゾフの兄弟』を光文社の古典新訳文庫で読み直していました。その前には『赤と黒』も読み返し、その前には橋本さんの『双調平家物語』最終巻……。『双調』は橋本さんによるまったく新しい「小説」と言っていい作品ですけど、描かれているのは長大な日本の歴史ですし、「古典の新解釈」という意味では、古典新訳文庫とも通じるものがあります。もともと、私の読書傾向はとーっても偏ってるんですけど、最近はほんとに新しいものはもう読む気がしないなぁ、という感じ。この『本の虫』で紹介しているラインナップも、橋本治さんとマンガを除くと、最近の作品ってほとんどなかったですよね。『ギリシア悲劇』だの『マハーバーラタ』だの、ミステリもチャンドラーやハメットだったりして。

 「古典」と呼ばれるもの、「名作」と呼ばれるものを読みだすと、なんか止まらなくなる。当たり前だけど、面白くて。「名作」ってホント、色褪せない。毎年世界中でアホほど作品が生まれている中で、消え失せず、ずっと残っている作品。時間と空間を超え、超えることでなお一層輝きを増すような。どんな時代、どんな国に生きても、「みんな人間なんだな」と思える。「人間ってこうなんだ」と思わせてくれる代物。

 もちろん訳文は「古典新訳文庫」のように時々新しくなってくれると読みやすくって助かるけど、「古典」ってやっぱりこう、「作品」自体の持つ吸引力というかオーラが違う。ずっと古典を読んでると、もう自分の小説を書くのなんかばかばかしくなっちゃう。「こんなくだらないもの書いてる暇があったら、少しでも多く古典を読んだ方がよほど有意義だ」って。

 だって、ねぇ。まだまだ読んでない作品って、めちゃくちゃあるんだもの。「タイトルは知ってるけど読んだことない」っていう名作が。私の場合、同じ「古典」でも基本的に日本の名作はダメなので谷崎潤一郎とか三島由紀夫とか(この方々の作品もすでに「古典」ですよね?)全然読んだことないし、海外作品でもヘミングウェイとかプルーストとか、挑戦したことのない作品が山ほどある。『カラマーゾフ』の余勢を駆って『罪と罰』を買ってみたけど、読んだことなかったのよねぇ、これも。カフカもヘッセも読んだことない。ああ、もうどないしょ。どれだけ読めば「名作の泉」は尽きるのでしょう(笑)。

 あと何年生きられるかわからないし、あとどれだけ本が読めるかもわからない。私ね、ホントに一日中本を読んで、本棚が倒れてきて本に埋もれて死ねたら本望だなぁって思うのよ。私は本を読むために生まれてきたんだって(笑)。『ギリシア悲劇』とか『源氏物語』とか、1000年2000年単位の「古典」でしょう。そんな昔から、人はこうして生きて、死んでいったんだな、って知ることが、私には一番の救いになる。もちろん今現在の、新しい作品の中にも素敵なものはたくさんあって、中には「古典」となっていくものもあるのだろうけど、時代や場所が隔たっている方が、より「普遍的な人間の営み」っていうものが感じられる。自分も近いうちに消えてしまううたかたの存在だけれども、自分の前にもこれだけの「営み」があって、生きて、泣いて、笑って、色んなこと考えて死んでいったんだなぁ、ってことが。

 だから私、日本の作品が基本的にダメなのね、近すぎて(爆)。

 外国の作品が好きなのは最初の文学体験が、うちにあった『少年少女世界文学全集』のせいかもしれませんが。前にも書いたことがあったかもしれないけど、うちには50巻本の「世界文学全集」があって、『イリアス・オデュッセイア』から『現代日本詩歌集』まで、それはとんでもないラインナップが揃っていたんです。父の妹(つまりはおばさん)のために祖父が買ったものが、私のところに回ってきて。もちろんその50巻の中で実際に読んだのは数えるほどではあったんだけど、今思えばホントにゼータクな読書環境でした。『あしながおじさん』『小公子』『クオレ』に『十五少年漂流記』、『ニーベルゲンの歌』などなど、行ったことのない国の、時代も宗教も生活もまるで違う人々のお話を読む――。それって、世界には自分の知らないことがアホほどある、ってことを知ることでもあるし、「全然違うけどわかる」ってことを体験することでもある。子ども向け(と言っても、字は2段組でかなり小さく、挿絵はちょっとしかなかった)だから翻訳は少し「甘めに味付け」してあったかもしれないし、日本人の視点によるバイアスがかかっていたかもしれないけど、でも「自分の生きている状況とはまるで違う世界で起こる話」にちゃんと一喜一憂して、泣いたりドキドキしたり感動できるわけなんだもの。これって、考えたらすごいことだと思う。どんなに近くにいても分かり合えないことはいくらでもあるのに……。

 『カラマーゾフの兄弟』なんて、出てくる人みんなヒステリーで、もうホント、絶対「日本人ではこうはいかない!」(笑)。でも、ちゃんと好きになれる。ちゃんと、彼らの気持ちがわかる。少なくとも、彼らの運命にドキドキして、彼らの悲しみや喜びを感じて、一緒に笑ったり泣いたりできる。神と悪魔の相克、キリストの話だって、ロシアの人とは違うふうかもしれないけど、やっぱり「わかる」。読んで、共感したり、「えーっ」と思ったり、反応できる。

 『カラマーゾフ』は「世界最高の小説」と謳われるほどの作品で、別格かもしれないけど、でもなんか、「日本の小説ってなんでこうじゃないんだろう」と思ってしまった。いや、日本の小説を語れるほど読んでないんで、あくまで勝手なイメージですけど、日本の近代小説は「私小説」が多くて、なんかこう、ちまちましてるじゃないですか。近視眼的というか。世界が狭いというか。いや、もちろんそこには「普遍的な真実」「生活の中にこそ見いだせるもの」っていうのがあるのかもしれないけど、私はなんか、そーゆーのが読めない。日本の小説って、ぐずぐずした男と女がぐずぐずしてるだけ、みたいな……。別に神様を出してこいとは言わないけど、なんかもっと“哲学”があってもいいのにな、と。

 そりゃ、「ちまちました現実」だって大事だとは思います。「普遍的な人間の営み」を感じられるからと言って、物語に耽溺して現実を省みないのは問題だと。「連綿とした人間の営為」には感動できても、身近な人々の“ちまちました”営為には関心を払えないとしたら、その人は(つまりそれは大いに私ですけれども)“本当に生きている”と言えるのか。もしも本当に一日中本を読む生活ができたとして、「外界」との接触が極端に少ない状態で暮らしたら、どうなるのか? それで「人間を知った」ことになんかとうていならないはずでしょう。時々、本や自分の書くものに夢中になりすぎて、現実世界で買い物をしている自分が自分じゃないような気さえする私は、果たして――? 本を読んで、「人間は愚かで、だからこそ愛おしい」と思えても、実際に身近なところでその「愚かさ」を発揮されたら愛せやしないのに――。

 それでも。「本を読む」は“現実世界”の出来事で、やっぱり、普通に生きているだけでは味わえない色々な体験を、色々な世界を見られることは、私にとっては素晴らしい。生きる糧。死ぬまでに、あとどれだけ読めるかな……。

過去の『本の虫』で『ギリシア悲劇』等紹介しています。
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