本の虫

◆第68回『生物と無生物のあいだ』/福岡伸一◆

 毎日新聞の書評欄で知ったこの本、非常に面白かった。著者は分子生物学を専門にする科学者。もちろんこの本の内容も専門的な領域に関わることが多いのだけど、新書だし、もともと『本』という雑誌に掲載された文章らしく、一般向けの科学エッセイという感じ。難しい化学式みたいなものはまったく出てこず、非常に読みやすい。とにかく福岡さん、文章が大変にうまいのだ。帯に茂木健一郎さんが「サイエンスと詩的な感性の幸福な結びつき」と書かれているけれど、まさしくその通り。第1章はマンハッタンの実に文学的な風景描写から始まる。風景なんて、読むのも書くのも苦手な私にはむしろ「早いとこ本題に入ってくれ」と思ってしまうほど。理系の人にこんなうまい文章書かれたんじゃ文系の人間はホント立つ瀬がありません(とほほ)。

 それはともかく、内容ですが。

 またこれがホントに面白くてどんどんと読み進んでしまう。野口英世の話から始まって、かの有名なDNAの二重らせん発見秘話。「自己複製能力を持つもの」という以外に、「生物」を定義するものはあるか、という視座から語られるいくつかの研究成果。タイトルの『生物と無生物のあいだ』というのはそういう意味で、何が生物と無生物を分けているのか、というのが本書を貫く一本の芯。

 遺伝子という設計図をもとに自己を複製する能力を持つ。遺伝子とかDNAというものが発見されてから、「生命とはそういうもの」という考えが一般的になったと思うのだけど、ここに「ウイルス」ってヤツが存在する。ウイルスには、DNAがある。しかしウイルスは自分だけでは自己を複製することができない。その設計図に基づいて自分を増やしてくれる工場(宿主)を必要とするのだ。ウイルスは栄養も採らないし、呼吸もしないらしい。まるで鉱物のように「結晶化」することもあるそうだ。ウイルスを生物とするか無生物とするかは色々議論があるらしいけれども、福岡さん自身は「ウイルスを生物とはしない」とおっしゃっている。つまり、DNAを持っているだけでは――自己を複製できるというだけでは「生物」の定義としては不十分だと。

 じゃあ「生物」を定義する他の要因とは何か? それは読んでのお楽しみ……と言ってしまうとこの文章はここで終わってしまう(笑)。たとえその「他の要因」をここでバラしてしまっても、本書を読む楽しみはいっこうに減らないと思うので書くと、「生命とは流れである」。シェーンハイマーという人が言った言葉が紹介されている。「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」

 私達は、自分の皮膚や髪が常に新しくなっていることを知っている。髪は一日に何十本と抜けて生え替わっているし、いわゆる「垢」の主成分(?)は古い皮膚が剥がれ落ちたものだ。生まれ変わっているのはそういった表層的な部分だけではなく、私達の体のありとあらゆる部位が日々新しく置き換わっているらしい。シェーンハイマーさんという人は、そのことを実験によって明らかにしたのだ。

 内臓や歯や骨や、体脂肪までもが分解と合成を繰り返しているなんて、信じられるだろうか? もちろんそんなことを実感するなんて不可能だと思うけれど、「今日から心を入れ替える!」は無理でも、体は今この瞬間も入れ替わっているのだ。福岡さんは、「(久しぶりに会った人との挨拶として「お変わりありませんか?」とよく言うけれど)一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである」とユーモアたっぷりに書く。

 これは、本当にすごいことじゃないだろうか。「私」という存在は、分子レベルでは常に入れ替わっているのに、なおかつ「私」なのである。福岡さんは言う。「私達生命体は、たまたまそこに密度が高まっているゆるい“淀み”でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が“生きている”ということである

 つまり、“流れ”が止まることこそが、生命にとっての“死”なのだ。私は妙に納得してしまった。東洋医学やヨガではよく「気の流れ」などと言うが、それはきっと「そういう流れ」を意味しているのではないだろうか。“流れ”が滞ると、色々な不都合が起きて、痛みや病気として表に現れる。痛みのある個所だけが問題なのではなくて、全体の流れがうまく行っていないのだという考え方。

 “流れ”という考え方は、“時間”をも包含する。この本の最後の章のタイトルは、「時間という名の解けない折り紙」だ。機械は原則として、どこから作り始めてもいいし、いつでも一部の部品だけを取り替えることができる。でも私達は“流れ”であって、その“流れ”を逆行することはできない。部品をうまく取り替えられたつもりでも、“流れ”が元に戻るわけではない。今現在の私は発生から死へ至る“流れ”の一瞬間であり、あらゆる意味で二度とはやり直せない存在なのだ。

 “ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず”――私達自身がまさにそのような存在であると思うと、なんだかくらくらしてくる。なぜ物質は生命を指向したのだろう? 一方で変わらぬ輝きを放つダイヤモンドである炭素が、なぜ私達のようなものを作り出すのだろうか?

 今自分が“生きている”ということの不思議さを改めて噛みしめる。

『生物と無生物のあいだ』
以上 福岡伸一 講談社現代新書


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