本の虫

◆第67回『ローマ人の物語』U〜Z/塩野七生◆

 あはははは。また『ローマ人』かよ! しかもU〜Z、ひとからげかよっ!!

 前回更新してから2か月しか経っていないが、文庫版4巻〜20巻まで、読了してしまった。現在文庫は28巻まで出ているが、「先が見えたな」って感じである。やめられない止まらない、これを読み切るまでは他の本にはとても寄り道できない。きっと他の本なんか読んでも面白いと思えないだろう。文庫になって、しかももう28巻まで出てからがーっと読むと、「がーっと読める」分だけのめり込めるし、いちいち「前はどーゆー話だったっけ?」と思い出さなくてすむのだが、しかし。

 あまりにもがーっと読み過ぎて、感想を書こうにももう「ハンニバル戦記」なんか記憶の彼方、というところもある。時に応じ、blogにもちょこちょこ感想や、「考えたこと」を書いたけれども、ここで一つずつについて詳細に記述するのはとても不可能だ。なので、U〜Z十把ひとからげ。どーもすいません。

 「ハンニバル戦記」「勝者の混迷」「ユリウス・カエサル ルビコン以前」「ユリウス・カエサル ルビコン以後」「パクス・ロマーナ」「悪名高き皇帝たち」というのが、U〜Zのタイトル。まだ記憶に新しいということもあって、「パクス・ロマーナ」の巻の主人公だったアウグストゥスがお気に入りである。カエサルは、もちろんとっても偉大でものすごく魅力的な人物なのだが、しかし闘っているだけで終わってしまう。ルビコン以前は「ガリア戦記」で、ルビコン以後は「内乱記」。内乱を終え、終身独裁官となってさぁこれからローマを変えていくぞ!というところで暗殺されてしまうので、思い出そうとしても「やたらな戦場の記述」しか出てこない。武将としても天才、政治的にも天才、そして人間的にも男としても超魅力的、なんて人について、一体どんなコメントをすればいいのか、というところもある。正直「こんな人がホントにいたのねぇ」としか言いようがない。ちなみに、私はずっと「ユリウス」を名前だと思っていたのだが、本当は「ユリウス」は家門名であってファーストネームではないらしい。名前は「ガイウス」なのだそうだ。なんか、騙された気がしたのは私だけ?(笑)。「ユリウス」ってなんかすごい美男な気ぃするし(爆)(←“美形”という意味ではカエサルよりアウグストゥスの方が上。だから私好み?) 7月が英語で「July」なのはカエサルの誕生月だからだけど、名でも姓でもなく家門名がついてるっていうのは、日本人にとってはなんか妙な気もする。逆に日本も「姓・家門名・名」にしてしまえば、夫婦別姓問題もうまくいくかもしれないが。

 で。カエサルよりもアウグストゥスである。若いときの名はオクタヴィアヌス。わずか18歳でカエサルの後を継ぐことになり、並みいる敵を蹴散らして見事34歳で最高権力者となる。その後、77歳で亡くなるまで広大なローマ帝国の「第一人者」として君臨し続けた、初代皇帝。彼の何がすごいって、「みんなには共和政だと思わせておいて、実質的には帝政を敷く」というこの手練手管である。ローマの皇帝は、私達が頭に描く「専制君主」の「皇帝」ではなく、元老院や市民の承認を受けた、「市民中の第一人者」と呼ばれる地位であった(そんなこと全然知らなかったので、すごく新鮮で面白い)。元老院主導の共和政の行き詰まりを、「ただ一人に権力を集めること」で打開しようとしたカエサルが、共和政主義者に暗殺されてしまった轍を踏まないために、「これは共和政なんですよ」と人々を欺き続けたのだ。

 すごくない?

 天才カエサルに比してアウグストゥスは天才ではなかった、と塩野さんはおっしゃっているのだけど、むしろ私にはアウグストゥスの方がすごいように思える。確かに設計図を書いたのはカエサルで、アウグストゥスは新しい何かを発明したわけではないのかもしれない。でも「実現する」というのは、時に「考えつく」以上に難しいことだ。理論的には可能だが、実現するには100年かかる、である。それを、わずか18歳で後継に指名されたアウグストゥスは、カエサルの設計図の意図をきちんと理解して(説明されたわけでもないのに)実現していく。34歳から40年以上にわたって人々を欺き続け、しかし欺かれ続けた人々は彼を「神君」と讃え、慕ったのだ。彼以降、それほど長く皇帝の地位にあり続けた者はいない。4代目のクラウディウス帝の死のところで、「10年もやれば燃え尽きてしまうのだろう」というふうに塩野さんは書いている。そして、「アウグストゥスの皇帝人生は40年余もつづいたではないかといっても、あの人は常人ではない。つまり、単純なる誠心誠意の人ではなかった」と続ける(文庫版19−191)。まぁ、たった17歳やそこらでしかなかったオクタヴィアヌスにそれだけの力があると見抜いたカエサルは、やはりすごいということにもなるけれど……。

 騙し続けたのに、騙された側は彼を「神君」と讃えた、ということについて、塩野さんは「人間とは心底では、心地よく欺されたいと望んでいる存在ではないかとさえ思う」と書いている(文庫版19−191)。そしてまた、「人間とは、主権をもっていると思わせてくれさえすればよいので、その主権の行使には、ほんとうのところはさしたる関心をもっていない存在であるのかもしれない」とも(文庫版18−19)。

 まったく、政治とか国家、人間性について色々なことを考えさせてくれる本である。しかもこの本がかなりの人に読まれているんだから、日本の未来も暗くはないのだろうか。何しろ文庫版は、書店に行けばずらっと並んでいる。私がよく買う橋本治さんの著作なんて、新刊でも置いてないことがあるくらいなのに、いつ行っても、私がちょこちょこ3冊ずつ買っていっても、次の週には全巻揃っているのだ。それだけ売れる、ということでしょう。ちゃんと日本の政治家の皆さんも読んでくれているかなぁ。まぁ、同じものを読んでも、「見たいものしか見ない」(byカエサル)のが人間だから、どういう感想を持ち、何を考えるかはわからないけれども。

 また、この本で面白いのは、ローマ人の死生観・宗教観だ。アウグストゥスの後のティベリウスぐらいのところでキリスト教が生まれるのだが、当然ユダヤ教はその前からあって、ローマとも絡んでくる。多神教が普通の古代に、一神教のユダヤ教は異質だった。ユダヤ教の布教なんて聞いたこともない(選民思想が核である以上、他民族への布教はあり得ない)、という指摘が面白い。一方キリスト教は同じ一神教で、「キリスト教の神の前には平等」という、やはり広い意味での選民思想は持ちながらも、民族は問わない。なので布教する。「その神を信じない人は真の宗教に目覚めないかわいそうな人なのだから、その状態から救い出してやることこそがキリスト者の使命と信じているからである。だがこれは、非キリスト者にしてみれば、“余計なお節介”になるのだった。そして、当時のローマには、圧倒的に非キリスト者が多かったのである」(文庫版20−168)。ああ、まったく、当時のローマ人に同感やわ〜。

 日本には八百万(やおよろず)の神様がいるが、古代のローマ人には30万の神様がいたらしい。日本と同じですごい人は神様に列してしまい、よその民族の神様も受け容れてしまうから、どんどん増えていったらしい。多神教の神は、人々の生き方を縛らない。保護を与えてくれるだけである。人間の社会の在り方、生き方を決める「法」は、あくまで人間が決めるべきもの、というのが古代ローマ人の考え方だったらしい。ラテン語には、「不確かなことは、運命の支配する領域。確かなことは、法という人間の技の管轄」という格言があるそうだ。いいなぁ。好きやわぁ、ローマ人。私って前世はローマ人かも(笑)。

 ローマ人が刻んだ愉快な墓碑銘を紹介しようと思ったが、生憎その箇所が見つからない。私にとっては、彼らの死生観も宗教観も、非常に健全なものに思える。なぜ多神教が一神教にとって代わられなければならなかったのか、この先には「キリストの勝利」という巻も待っている。心して読みたい。(っていうか、納得いかんわ……。なんで唯一絶対の神なんか必要なん?)

『ローマ人の物語』単行本全15巻
『ローマ人の物語』文庫本1〜28巻(以下続刊)
以上 塩野七生 新潮社


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