本の虫

◆第66回『ローマ人の物語』T「ローマは一日にして成らず」/塩野七生◆


 15年の長きに亘り、1年1冊のペースで刊行された塩野さんの『ローマ人の物語』。単行本は昨年末、無事完結している。ずっと気になってはいたが、今まで手に取らずにきた。こんな面白い物、もっと早く読めば良かった、というのが率直な感想。けれどその反面、完結してしまった今だからこそ、次の年の刊行を待つことなく、一気に読み進んでいける。私は橋本治さんの『双調平家物語』を刊行当初から読んでいるのだが、これが最近ほぼ年に1冊ペースなので、前の話が思い出せなくて大変なのだ。人物名、出来事、その背景を「え〜っと?」と記憶の片隅から毎度引っぱり出さなければならない。

 この『ローマ人の物語』、文庫版の1、2巻「ローマは一日にして成らず<上・下>」を買ったのは、他の本との抱き合わせで「送料無料」にするための、いわばおまけだった。実のところ、主は他の本の方だったのである。もちろん、塩野さんの「ローマ」本なのだから面白くないわけはない、「やばいよな。きっと続きを買う羽目になるぞ」と文庫が何巻まで出てるのかちゃんと調べたりしていたのだけど。

 きっと、これも縁というものなのだろう。15年前に単行本の1巻目を手にしていたとしても、今ほど面白く読めたかどうかはわからない。『ギリシア悲劇』を読んだ今なら、ギリシアに関する叙述もすっと頭に入ってくる。橋本さんの『平家物語』14巻と同時期にこの本を読むことで、考えることも多かった。読むべき時に、読むべき本にめぐりあう。活字中毒者にとって、こんなに嬉しいことはない。

 単行本の1巻目にあたる「ローマは一日にして成らず」では、ローマ建国からルビコン川以南のイタリア半島統一まで、およそ500年間の歩みが語られる。

 事実は小説より奇なり。“歴史”そのものが面白いのはもちろん、塩野さんの語りが実に楽しい。考えることの喜び、知的興奮に溢れている。文章も非常に読みやすい。まったく、祖国日本の物語である『平家』より、遠い海の彼方の話の方がよほどとっつきやすくて読みやすく、かつ楽しい。私はもともとちまちまと日本人同士で権力争いをしているだけの日本史より、様々な民族が複雑に絡み合い、興亡を繰りひろげる世界史の方が好きだけれど、『平家』を始めとする橋本さんの著作、そしてこの「ローマは一日にして成らず」を読んで、日本史のつまらない由縁がよくわかってしまった。

 塩野さんは、文庫版1巻目のP168、アテネについて述べた後、スパルタへと話を向けるところで、「政治体制とは、単なる政治上の問題ではない。どのような政体を選ぶかは、どうような生き方を選ぶかにつながるのである」と書いている。日本の政体は、古代のある時点から、ほぼ一貫して「二重権力」のままである。藤原氏が実権を握ろうと、元天皇である上皇が実権を握ろうと、武家が実権を握ろうと、天皇(朝廷)ともう一つ、という「二重権力」の構造は変わらない。将軍をどこの家の人間が務めようと、それは朝廷によって任命される“官”である。だから、鎌倉が室町になって江戸になっても、それは“政変”ではない。明治維新でさえ、天皇をかつぐ人間達が変わっただけのことで、システムの大枠は変わっていないのだ。

 前回のこの『本の虫』で、橋本さんの言葉を紹介した。「日本では、原則として政権交代が起こらない」「日本では、国民が国家や社会のあり方を変えない。変えるのは、“変えられる立場にある人達”だけである」。古代ギリシア、そしてローマの政治の変遷をたどることで、その意味が改めてよくわかった。『政体を選ぶ=生き方を選ぶ』であるなら、日本人はずっと「誰が一番偉いかわからない」二重権力のもとで、「誰が一番偉かろうと自分たちは自分たちでそれなりにやっていく」という、国民が国家のあり方にタッチしない生き方を選んできたのだろう。

 随所に散りばめられる塩野さんの卓見、現代に対する皮肉、そのままで格言として後世に残りそうな名文句。本当に面白い。

 曰く、「人間の行動原則の正し手を、宗教に求めたユダヤ人。哲学に求めたギリシア人。法律に求めたローマ人。」(1−P76) そしてこの前段の、「一神教と多神教の違いは、ただ単に、信ずる神の数にあるのではない。他者の神を認めるか認めないか、にある。そして、他者の神を認めるということは、他者の存在を認めるということである」(1−P75) 大きくうなずいてしまう。

 また曰く、「すべての事柄には、裏と表の両面があるのを忘れて。そして、真の生き方とは、裏と表のバランスをとりながら生きることであるのを忘れて」(2−P71) これは、ソクラテスとその弟子について言及した箇所での言葉。「ときに私の胸に、『ソクラテスとその弟子たち』と題した作品を書いてみたいという想いがわき起ってくる」(2−P69)と塩野さんは書かれているが、私もぜひその作品を読んでみたい。

 2巻の最後には、「ひとまずの結び」と題された章がある。これがまた実に感動的というか、読みながらうるうるしてしまった。この作品を書く塩野さんの覚悟、心意気に打たれてしまうのだ。「キリスト教を知らなかった時代のローマ人を書くのに、キリスト教の価値観を通して見たのでは書けない、とも思っている」(2−P203)という言葉の前に、「私も、信ずることで心の安定を得ることは大事なこととは思うが、なぜ、と問いかける姿勢は捨てることができない」という一文がある。そうそう、そうなのよ!と思わず心の中で塩野さんに呼びかけた。あなたとはお友達になれるわ!(笑)。

 続きを読むのが、非常に楽しみである(しかし文庫は全何冊になるんだろう。ああ、本棚のスペースが……)。

『ローマ人の物語』単行本全15巻
『ローマ人の物語』文庫本1〜28巻(以下続刊)
以上 塩野七生 新潮社


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