本の虫

◆第65回『このストレスな社会! ああでもなくこうでもなく5』/橋本治◆

 これまでにもご紹介してきた橋本さんの『ああでもなくこうでもなく』シリーズ。『広告批評』での連載は、今年(2007年)の1月でもう10年を迎えている。そんなになるのか、と作者でもないのに感慨を覚えてしまう。私が橋本さんを読むようになったのは大学の時で、かれこれ20年ぐらいにはなっているけれど、「ああでもなくこうでもなく」を読みはじめてからももうそんなに経つのだな。まぁ、『広告批評』そのものではなく単行本になってから読んでるから、実際には8年ぐらい。橋本さんの著作のうちでも特に好きなシリーズなので、単行本が出るのをいつも楽しみにしている。「4」が出たのは2004年5月。やっと「5」が出た。

 5冊目でまとめられているのは、2004年の5・6月号から2006年の11月号までの掲載分。さてこの間日本では何があったのでしょう? いつも、この単行本を読む時は「そういえばそんなことがあった」と忘れていたことを思い出さされる。「まえがき」で橋本さんご自身が書いているように、「やたらの数の事件・事象が起こって、消えて行く−−その一々を覚えてはいられない、というのは誰にとっても共通することではなかろうかと思います」。本当に、次々と色々なことが起こるから、大騒ぎしたり重大だと思われたことも、さっさと次の事件に取って変わられて、忘れられていく。その事件で提起された問題がちゃんと解決されないうちに。そしてまた、「何も学んでいなかったのか」というような事件が起きるのだ。

 2006年の秋に大問題になった高校の「未履修問題」も、卒業の季節を迎えどうなったのか。どうにか履修を終えたのか、それとも受験が全部終わったこれからまだ大勢の学生が補習を受けることになっているのか。そういう事態を招いてしまった根本について、検証と改革はちゃんと行われているのだろうか。

 2004年の5月には、福田官房長官が「年金未納」問題で辞任。6月には佐世保で小学生の女の子が同級生を殺害している。この二つの事件は、「男達の袋小路と女の子の犯罪」という章で扱われている。橋本さんは、「男の子の犯罪と女の子の犯罪は違うと思う」と書いていて、あの小学生の女の子が友達を殺してしまったのは、「仲が良かったはずのママ友の娘を殺してしまった」という話に通じる、「大人の女の犯罪」なのだと言う。「大人になること」につまずいて「子どもの犯罪」を起こす男の子と、「さっさと大人になって」しまって「大人の犯罪」を起こす女の子。どちらも、「子どもが大人になる」という、その成長過程がうまくいっていないことに問題があるのだろう。「子どもをちゃんと大人にする」ができなくなってしまった社会に。

 2005年の秋には姉歯建築士による耐震強度偽装問題が発覚して、2006年の2月にはホリエモンが起訴される。この辺の事件も「そういえばあれはいつのことでしたっけ?」になりかけているけれども、橋本さんの膨大な論考を勝手に「結局は」とまとめさせてもらうと、「結局は世の中全体が子どもっぽくなってしまったんだな」ということである。そのものズバリ「子どもっぽいの構造」という章もあるのだが、そのすぐ前に「二〇〇六年一月十七日」という章があって、ここで語られる「働くということと大人であるということ」の関係こそが、色々な出来事の核をなしているのだと思う。  橋本さんはこう書く。

 「大人である」ということは、その根本に「働く」ということが根を下ろして、そのことを前提として「生きる」を進めることだとしか私には思えないのだけれど、「働く」の位置付けが曖昧になってしまっている結果、「子どもから大人へ進む」がよく分からなくなってしまっているのではないかと、そんな風に思う。(P326)

 「働く」ということが免責にされてしまうと、大人と子供の境界が曖昧になる。(P327)

 だから“大人”は子どもっぽくなって、「なんでそんなバカなことするんだろう」みたいな事件を起こすし、子どもを「大人に成長させる」もできなくなる。「働く」の意味が風化した結果、「すべては金儲け」になって「企業の社会的責任」も何もなくなってしまう。そういえば、「会社は誰のものか?」という問いの答えは「株主」ではなく、「社会」だ、とこの本のどこかに書いてあった(何頁だか見つけられない)。

 最初から最後まで、「そういうことだったのか」とうならされることばかりで、しかもその「そういうこと」が「そんなにも世の中めちゃくちゃか」ということばかり。「なんで日本はこんななんだよ!」と怒りたくなるが、そういう自分も「日本」を構成している「大人」の一人だから困る。「こんな日本」になっていることの責任が、やっぱり私にもあるのか? 自民党には投票したことないのに……。でも民主党もなぁ。代表が小沢さんになっちゃったら自民党の分派みたいなもんだよな……。

 で、「小泉解散―あるいは、本家と分家の構造」の章の最初の小見出しが「日本に政党は一つしかない」。やっぱりそうなのか。前々からそうじゃないかと思ってはいたけど。「民主党はサラリーマンの自民党」という言葉は266頁。そして最終章、安倍内閣が発足して、「それで、日本は変わるのか?」。

 日本では、国民が国家や社会のあり方を変えない。変えるのは、「変えられる立場にある人達」だけである。(P453)

 明治維新は、支配階級である武士の中で起こった「反乱」であって、圧政にあえぐ農民だとか文化と経済の発達で力をつけた町人が起こしたものじゃない。平安貴族の時代が終わって武家の時代になった時も、天皇を頂点とするシステム自体は変わらなくて、そのシステムから「征夷大将軍」という「変えられる立場」をもらって、それで政治を動かした。

 日本では、原則として政権交代が起こらない。(P456)

 うわ〜。「変えられる立場=特権」だから、自民党は憲法を変えたがるらしい。その特権を一時期アメリカに奪われていたということが悔しいから。……そーゆー理由なの……? ホントに?

 それで、日本は変わるのかな――。

【おまけの格言】
人生で勝ち負けがあるのなら、その基準はたった一つ――「生き方が中途半端だった」だけが「負け」である。(P52)
(↑こーゆー発言を見ると、やっぱり橋本さんとGacktさんには通ずるものがある、と思ってしまう)

『このストレスな社会! ああでもなくこうでもなく5』
以上 橋本治 マドラ出版


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