本の虫

◆第59回『ひろい世界のかたすみで』/橋本治◆

 半年ぶりに、橋本さんの本である。昨年の夏に『勉強ができなくても恥ずかしくない』(ちくまプリマー新書)を紹介してからも、『橋本治という行き方』(朝日新聞社)や『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』(集英社新書)はちゃんと読んでいた。特に後者は読みやすくて面白かったけど、資本主義の限界というか、「資本って借金だ」というような話は既に『ぼくらの資本論』(小学館文庫)で語られていることだ。最近の橋本さんの著作は、「これって前にも言ってはったよな」と思うくだりが多い。何度読んでも面白いし、その時々の繋がり方でまた新たな発見もあったりするのでまぁいいのだけれど、そんなに何回も言ってくれてるのに、世の中ちっとも変わらないな、と思ったりはする。というか、世の中が変わらないからこそ同じことを言い続ける羽目になるんだろうけれど。

 この『ひろい世界の…』は、1990年代後半から2004年までの間に橋本さんがいろんなところに書いたコラムやエッセイを一冊にまとめたもので、やっぱり「このネタは前にも読んだ」と思う箇所があった。『勉強が…』で語られた高校時代のこととか。さすがにこれだけ橋本さんの著作をよみあさってると、初めて読む内容でもなんだか知ってるような、「うんうん、橋本さんならそう言うよね」と思ったりもするけど。

 寄せ集めだから、その内容は多岐にわたっている。婦人公論で連載されていた時評、橋本さんが手がけた薩摩琵琶の詞、あるいは講談。古典のこと、芸術のこと。琵琶の詞はちょっと読みにくかったけど、講談は面白かった。かの有名な「決闘高田馬場」の話。赤穂浪士の1人でもある堀部安兵衛の。ああいう日本語が書けるっていいな、と思う。“声に出して読む日本語”じゃないけど、「いよっ、名調子!」と声をかけたくなる素晴らしいリズム感と、豊富で的確な語彙。『源氏物語』の中の漢文的要素について論じた一文の中で、橋本さんはこう書いている。“日本語は分かりやすさばかりを重視して、漢文という難解を排除することばかり考えてしまった”。その結果、こういうやたらに漢字の多い講談の文章なんかはとても読みにくいような気がしてしまうのだけど、声に出してみればその実とても心地いいし、その場の情景もよく浮かぶ。“分かりやすいことしか説明できない能力を与えられて、それで事足れりとしていることほど悲しい状態はない”という言葉は重い。もっともっと勉強しなきゃなぁ。

 『源氏物語』についてはもう一文、「“その後”があるというのはすごい」というのがある。『窯変源氏物語』や『源氏供養』(ともに中公文庫)を読んで紫式部のすごさはよくわかっていたつもりだけど、改めてその偉大さに恐れ入ってしまった。はぁ。ほんとに私なんて修業が足りないどころか、スタートラインにすら立ってないなと思う。

 橋本さんの書くものはいつも、私の思考回路をめちゃくちゃ刺激してくれる。橋本さんの文章を読むと、本当に色々なことを考えさせられるし、あーでもないこーでもないと考えたことを文章にまとめたくて仕方がなくなる。実際にまとめられるほどには考えがまとまらないことが多いけれども。そして橋本さんの文章を読むと、「ああ、私の行き方もそんなに間違ってないな」と思う。別に、すべての事柄について橋本さんと同意見だ、というわけではない。よく理解できない部分だってあるし、歌舞伎の話なんかこちらに素養がないから「ふーん」としか言えない。でも、感じ方や考え方にとても共感できるのだ。「そう感じてもいい」「そう考えてもいい」というお墨付きをもらうような。

 例えばの話、「うっとうしい男や女がグズグズしている高級そうな映画ばっかり見て理屈を言ってるやつはバカだ」という文章には大いに快哉をあげてしまった。そしてこの一文が“テロリストと国家”という話に続いてしまうことに大いにうなってしまう。さすが橋本さん、なのである。

『ひろい世界のかたすみで』

以上 マガジンハウス 橋本治著


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