本の虫

◆第55回『湖中の女』/レイモンド・チャンドラー◆

 子どもが通う体操クラブの片隅で、私はこの本を読んでいた。普段は子どもががんばっているのを一応見学していて、本を持って行くことは滅多にない。その日の朝、耳鼻科の待ち時間に読み始めたら面白くて、「隙あらば一行でも読もう」という気分だったのだ。その夜、体操クラブはなぜか練習はなしで鬼ごっこや体育ゲームばかりしていたし。

 私が読み始めると、隣のお母さんが「何読んでるの?」と聞いた。私は表紙を見せて、「フィリップ・マーロウ」と言った。それで通じるだろうと思って。けれど相手の返事は「へぇ。何? 知らない」だった。私にとってマーロウはハードボイルド探偵の筆頭で、レット・バトラーと同じくらいの有名人だと思っていたので、「知らない人もいるのか」と少なからずショックを受けた。「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きている資格がない」というあの決めゼリフを言って説明すれば、ひょっとして「ああ、なんか聞いたことある」ぐらいの反応は引き出せたかもしれないが、私が芥川賞作家の名前を知らないように、推理小説に興味のない人々はたくさんいるのだろう。

 私は小学生の頃から推理小説ばかり読んでいたし、マーロウ物の2大傑作である『さらば愛しき人よ』と『長いお別れ』は学生の頃に読んでいた。今になって再び彼に会おうと思ったのは、数か月前、書評欄の「この人この3冊」というコーナーでこの『湖中の女』がマーロウ物(というか、チャンドラー作品全体だったかもしれない)のトップに挙げられていたからだ。ある作家や事件、また実在の人物等について、一人の識者がお勧めの3冊を挙げる、というそのコーナーで、この本は『さらば』や『長いお別れ』を抑えて1位だったのだ。もちろんそこには選んだ識者の好みだとか独自の視点だとかがあって、ただ単純に「1位の方がそれ以外よりも面白い」というものではないのだが、しかし気になる。

 たまたま紀伊国屋に寄ることがあって、ハヤカワの棚を覗くと、マーロウ物は未だにちゃんと平積みになっていて、苦もなく手に入れることができた。知らない人が多いとしても、やはり売れ続けているのだろう。ハヤカワの文庫なんて、新刊でもなかなか見つけられないというのに。

 久々に会うマーロウは、相変わらずとても気障で、いかしていた。気の利いたセリフは時にひねられすぎていて、よく呑み込めないこともあるほどだ。事件のトリックの一つは最初から予想がついたけれど、途中何度かだまされ、混乱させられた。これは「推理小説」ではなく「探偵小説」であるから、「謎解き」はそれほど重要ではない。マーロウ自身の魅力、そしてマーロウの少々ひねくれた目線で描かれる風景、物語を彩る一癖も二癖もある登場人物……。田舎の冴えない年寄り保安官と見せて実はけっこう腕の立つパットン氏が私のお気に入りだ。

 この作品が書かれたのは1943年。戦前というか、戦中である。『さらば』が40年で、『長い』が53年。書かれてから、もう50〜60年経つのだ。もう古典なんだなぁ。それだけの時間を隔てているとはまったく思えない。十分に面白く、魅力的だ。むしろそれだけの時間があるからこそ、マーロウの気障さをすんなり「カッコいい」と思えるのかもしれない。現代が舞台だったら、「こんな男いるわけないじゃん」で終わってしまいそうだ。果たして1940年代には、こんなクールでタフで粋な男が煙草をくゆらしていたのだろうか。「ボギー、ボギー、あんたの時代は良かった。男がピカピカの気障でいられた」というジュリーの歌ももう懐メロになってしまったが。(ひょっとして知らない人のために書いておくと、「ボギー」とは俳優「ハンフリー・ボカート」のことで、彼は一度映画でマーロウを演じてもいる)

 おそらくミステリーは最も人気のあるジャンルの一つで、新しい作品がどんどん出て、今ではホームズもポアロもマーロウも知らない、というミステリーファンがたくさんいるのかもしれない。これは余談だけれど、市立図書館の児童書の「推理小説・SF」の棚には、乱歩、ホームズ、ルパン、そしてクリスティの全集の他には、申し訳程度の作品しか並んでいなかった。エラリー・クイーンはどうした、ガストン・ルルーはどうした(『オペラ座の怪人』ではなく、密室トリックの古典『黄色い部屋の秘密』だ)、コーネル・ウールリッチ(またの名をウイリアム・アイリッシュ)は? 私が小学校の頃はもっと色々な作品があったのに(……まぁ違う図書館だが)。「少女探偵ジュディ」のシリーズとか、せっかく復刊されているのになぁ(金の星社フォア文庫)。日本の作家は名前順に並んでいるから、最近の子供向けのミステリーはそっちにあるのかもしれないが、なんだかとてもさびしかった。

 最近の作品など読んでいる閑はないじゃないか。まだいくらでも、読むべき名作があるのだ。

『湖中の女』
『さらば愛しき女よ』
『長いお別れ』
以上 ハヤカワ・ミステリ文庫 レイモンド・チャンドラー作 清水俊二訳


『本の虫』インデックスに戻る