本の虫

◆第52回『嵐が丘』/エミリー・ブロンテ◆

 『マノン・レスコー』があんまりつまんなかったので、今度は『嵐が丘』を手にとってみた。本屋に行って「新潮文庫海外」の棚をざっと眺めて「恋愛系の名作」ということで選んだんだけど、いや、大当たりだった。『嵐が丘』っていうタイトルが良いなぁ、いかにもドラマティックそうで、と昔から思ってはいたんだ。かの『ガラスの仮面』でマヤがヒロインをやったこともあって、キャサリンとヒースクリフという名前、そしてある種復讐譚であるということは知っていた(余談だけど、あらすじで読む世界の名作ならぬ『ガラスの仮面で読む世界の名作』ってありだよね。「たけくらべ」とか「奇跡の人」とかいっぱい勉強させてもらった)。またこの「ヒースクリフ」っていう名前がすごくいいんだよなぁ。一度聞いたら忘れられない。

 思った通り、「昼メロの原点はこれか!」と思うほどのドロドロ愛憎劇で、とにかく面白かった。『椿姫』と同じくらい物語に引き込まれて、ある程度展開の予想はつきつつもページを繰らずにはいられない。でも『椿姫』のもの悲しさ、主人公の男の性格から来るうじうじくよくよした「お涙ちょうだい」的感傷性とはまるで正反対の、荒々しくパワフルな生命力が全編にみなぎっている。これって面白いことだよね。『椿姫』だけで断じちゃいけないとは思うけど、男の書く恋愛と女の書く恋愛の差というか違いというか。ヒロインキャサリンは『風とともに去りぬ』のスカーレットに通じるものがあって、一体男がこんな気の強いヒステリーな女を好きかどうかって言ったら……どうですか、男性の皆さん!? ま、ヒースクリフのような男を女が好きかどうかっていうのも問題ではあるんだけど。レット・バトラーほどにはいい男じゃないからなぁ。半分狂ってるのは確かだし。

 どこの馬の骨とも知れないみなしごのヒースクリフはキャサリンの父親に拾われて、そして彼女との間に強い絆を育むのだけど、キャサリンは別の男エドガーと結婚してしまう。で、そこからヒースクリフの復讐が始まるわけなんだけど、これは本当はお門違いというか、エドガーを憎んだってしょうがないことなんだよなぁ。だってキャサリンが彼と結婚した理由は「彼にはお金があるから私とヒースクリフを養ってくれる」なんだもの。エドガーを嫌いなわけではもちろんないけれど、ヒースクリフと自分の魂は一つで、決して別れることはできない。ただヒースクリフにはお金がなくて、彼と結婚しても二人して物乞いになるしかないから、だからエドガーと結婚する。エドガーだって私と結婚したがってるんだからそれでいいじゃない、という。

 天晴れだねぇ。『マノン』と同じように、ここには「パンがないのに愛だ恋だ言ってられるか」という命題があって、キャサリンは自分自身よりもむしろ愛するヒースクリフにパンを与えるためにエドガーとの結婚を選ぶ。キャサリンはエドガーとヒースクリフの間で迷わない。ただ生活できるかどうかでだけ迷うのだ。まぁこの世にエドガーほど気の毒な男はいないだろうってもんだけど、キャサリンが特別に悪女ってわけでもないと思うんだよ。多かれ少なかれ結婚には「扶養」ということが付きまとっていて、だからこそ「三高」なんていう結婚条件も出てくるわけで。キャサリンを見てると、羨ましくもある。こんなふうに素直に激しく生きられたらなって。それは決して楽なものではないんだけど。

 「魂は一つ」のキャサリンとヒースクリフ。でも二人が以心伝心何でも分かり合ってたかというとそういうわけでもなく、ヒースクリフはキャサリンに捨てられたと思って姿を消してしまうし、キャサリンの死の場面でも二人はヒステリックに言い争っている。一体この二人は本当に愛し合ってるのか?と言いたいようなシーンなんだけど、でもじゃあ「本当に愛し合っている」ってどういう状態のことを言うんだろう。「ほかの何もかもが消え失せても、あの子だけは残る。彼が残れば、わたしも存在し続ける」とキャサリンは言い、事実ヒースクリフはキャサリンの死後十八年間、ずっと彼女の亡霊に苦しめられてきたと語る。「何を見たって彼女を思い出すじゃないか。――この世はまるごと、あいつが生きていたことを、俺がそれを失ったことを記す、膨大なメモみないなものなんだ!」

 ちょっと辞書を引けば、「英語で書かれた三大悲劇の一つ」とか「主人公ヒースクリフの悪魔的情熱を描いた小説」とかいう紹介文が出てくる。でもこれって悲劇なのかなぁ。別にエミリー・ブロンテは「悪魔的情熱」なんかを書こうとしたわけじゃないような気がするけど。29歳のエミリーは、「こんな関係があったら素敵じゃない?」と思ったんじゃないだろうか。「あの子はわたし以上にわたしなの」「もしわたしがこの体の中だけにすっかりおさまるんなら、せっかく神に創られてきたのに、なんになるというの?」 この世に生まれて、自分と同じ魂を持った相手と出逢えたら、こんなにすごいことはない。「そんなに楽しいものではないわよ。ときには自分で自分が好きになれないのといっしょでね」 そのために血を流すような苦しみを味わっても、その相手がいるといないとでは世界の輝きが違う。生まれてきた意味がない。

 きっと男と女とじゃ、この作品に対する評価、随分違うんだろうな。私が読んだ新潮文庫は去年発行されたばかりの新訳(“新世紀決定版”と銘打たれている)なんだけど、男が訳すか女が訳すかでも話の色がかなり変わってきそうだ。裏表紙の惹句には「一世紀半にわたって世界の女性を虜にした恋愛小説」と書いてある。女には究極の愛に見えて、男には理解不能な悪魔的情熱としか見えないのかも。「主人公ふたりの愛はあまりに抽象的で、肉体を欠いている」なんて批評をしてセックスの欠落を疑問視するのは(発表当時そーゆー批評がなされたらしい)実にまったく「わかってないなぁ」なのだ。

 ここまできたら次はエミリーの姉さんシャーロットの『ジェーン・エア』に挑戦するべきか。何々、「貧民学校で教育を受けた女家庭教師と、狂女を妻にもつ主人との波乱に富んだ恋愛を描き、社会的常識に痛烈な憤りをぶつける長編小説」とな。うーむ。読んでみたいような敬遠したいような。

『嵐が丘』(新潮文庫)
以上 エミリー・ブロンテ(訳:鴻巣友季子)


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