本の虫

◆第50回『戦争のある世界 ああでもなくこうでもなく4/橋本治』◆

 『上司は思いつきで……』の読者アンケートでGetした図書カードで早速購入したこの本。言うなればただ! こういうことがあると、私の「とりあえず書くのが好き」という技能(?)もまったくの無駄ではないんだ、と心慰められる。そういえばわが家の『ああでもなくこうでもなく2』は、うちに取材に来てくれた朝日新聞の記者さんが「持って帰るの重いから」と置いていってくれた代物。さすがに大新聞の記者さんは太っ腹だと感心したものだったけど、このシリーズと私の間には何か深ーいつながりがあるのかもしれない。偶数巻は常にただで入手できるという嘘みたいなつながりが(ということは6巻は……?)。

 しょーもない話はさておき。『上司は…』の回で、『バカの壁』に匹敵するネーミングと書いたけれども、『バカの壁』の著者養老孟司さんが毎日新聞にこの『戦争のある世界』の書評を書いていた。「なんてまともなんだ、と毎回感心する」と。なんだか自分が褒められたかのように嬉しかった。養老さんも橋本さんも世間の常識からはかなりずれた(と思われている)独自な人だけれども、「自分は常識的で世間一般なフツーの人間だ」と思っている人達はもはやまったくまともではないんだろう。だからこそあっちでもこっちでも変な事件ばっかりなんだ。

世界を作るのは  でもってこれは、『広告批評』の連載『ああでもなくこうでもなく』の4冊目の単行本。2002年5月号から2004年4月号までの掲載分がまとめられていて、2002年の4月(掲載は5月だけど原稿が書かれたのは4月)は鈴木宗男だった。ああ、そんな人いたなぁ、と思って、たった2年のうちになんて色んな出来事があったんだと呆れた(しかも鈴木宗男は今度の参議院選に立候補していてさらに呆れた)。あまりにも矢継ぎ早に、次から次へと重要なことが起こって、いちいちを深く考えている暇がない。「9.11」は2001年のことだったけれども、それに続くアフガン攻撃、田中真紀子に鈴木宗男、北朝鮮拉致被害者帰国、イラク戦争、BSEで吉野家から牛丼が消えて、鶏インフルエンザで大量の鶏が無念の死を遂げたのはまだ最近、そういえば道路公団のゴタゴタもあって、辻元清美もあって、長崎で中学生が男の子を殺したり、東京で小学生の女の子4人が監禁されたりしたのは丁度1年前の7月だった。

 その月に起きた事件が本文の前に「年表」ならぬ「月表」形式で付けられていて、それに目を通すだけでもけっこうくらくらする。2002年の5月に、中国の日本領事館に北朝鮮からの亡命希望者が逃げ込んで、中国当局に拘束されるという事件があった。これまた「そんなことあったな」なんだけども、この事件に対する橋本さんの「有事と外交を考える」を読んで本当にぞっとした。うわーっと思った。他にもこの本にはいっぱいすごいことが書いてあって、本当にどこを取っても有用で、全部消化するのが大変なぐらい「ネタがてんこもり」だけれど、イラク問題や北朝鮮、アメリカとの付き合い方に至るまでこと外交に関しては、ここにすべての元凶がある、ここにすべてが凝縮されている、と思った。

 日本にまともな外交がありそうにないということぐらい、一介の主婦である私にも想像がつく。「アメリカの顔色をうかがう以外に『外交』があるのか?」とさえ思う。西洋に対してはコンプレックスがあって、東洋に対しては蔑視があって、「国家対国家として対等に付き合う」ということが、きっと日本の政府にはわからない。もちろん近所付き合いの苦手な私にもわからなくて、「領事館の敷地を侵されるということは即ち主権を侵されるということだ。そしてそれこそが、よその国の軍隊が攻めてくるかもしれない、なんてことよりずっと『有事』なのだ」という橋本さんの指摘に愕然となる。ああ、そうかぁ、そりゃそうだよなぁ、である。結局のところ、「国家」ってものがピンと来てないんだなぁと。「なぜ日本人は『国防』と『外交』をリンクさせて考えられないのか?」 イラクへの自衛隊派遣も、そもそも「自衛隊ってなんなの?」という問題も憲法9条も、根っこはこれなんだ。『外交』がなくて『国防』だけというのは、つまりはクラスの誰とも口をきかないで、「いじめられた時のために」ナイフを持って学校へ行くのと同じ。なるほどなぁ。

 「自分のあり方を考える時に、他人とのあり方との調和を考えなかった」という、そのことの重さ、と橋本さんは書く。これって本当に、今の日本のすべての問題の根本のように思う。何も国家VS国家だけじゃなく、日本人一人一人が「他者との関係」をうまく結べなくなって呻吟しているんじゃないか。それが端的に表れているのが子どもの世界なんじゃないのか。4月号までだから、この本に例の「小学生同士の殺人」というものは出てこない。でも丁度一年前、同じ長崎で起きた中学生の事件に対する言及はある。橋本さんは言う。「大人がおかしくなっている中で、どうして子供ばかりがまともでありうるのか?」 なぜ「今の子供達はおかしい」ばかりを言って「今の我々はおかしい」と言わないのか。「『心の闇』というレッテルを貼り、『心の闇』という形で分断する。分断されて『心の闇』として孤立してしまったものは、開きようがない。(中略)大人達は、少年や少女を共生させていないし、その力をもう失っている。それはもう、『社会』ではないと思う」

 なんてことだろう。私達大人は、「自分たちはまともだ」と言うために子供をスケープゴートにしているようなものだ。卒業式で『君が代』を歌わせたり、教育基本法をいじる前に「我がふりなおせ」である。「愛国心」という観点では、先の「有事と外交を考える」の段にも「外交官はみんな日本より外国の方が好きだ」という面白い指摘があったけれど、法律でがんじがらめにしなきゃ子どもはまともに育たない、という発想は、裏を返せば「もう我々大人には生活の中で子どもをまともに育てる能力がない」と認めてしまってるようなもんだよなぁ。

 最初から最後まで、本当に考えさせられることだらけなんだけど。

 「世界の中の一人」という段には、感動してしまった。その前の、担当編集者さんが亡くなられたお話にもじんときたけど、「世界を作るのは、やっぱり、一人一人の人間である」っていう言葉にはぐっときた。橋本さんについてきてよかった。だからこそ私は橋本さんが好きだ!って思った。「世界情勢よりも、算数が出来ない子供を救う方が大切だ」「世界情勢は結局のところ個々の人間が作るもので、それをへんな風に歪めないためには、個々の人間が誇りを埋もれさせないことが一番大事だ」「そうでなければ意味はない」……今こうして書き写しててもなんか胸が熱くなってきちゃうけど、そうでなければ私がこんな誰も読んでいないようなサイトでごちゃごちゃ語ってる意味もない。昔、トルストイの『戦争と平和』を読んだ時も、歴史を作るのは一人の偉大な将軍とか指導者なんかじゃなくて、名もない市民一人一人なんだ、っていう主張にとても感銘を受けた。民主主義と資本主義の下で、私たち市民はナポレオン戦争の時代よりずっとたくさんの権利を手に入れたはずなのに、テレビに映し出されるむごい光景を前に、ますます無力になっている気がする。海の向こうの戦争だけじゃなく、なんだか勝手に決まっていっているような自分の国のもろもろの政策に関しても。

 無力だから関係ないと思って、そのことによってさらに無力になっていく。「一個人は、同時にまた一公人である――これは、義務であり、権利である」「『個としての深み』は、『公としての広がり』とシンクロしていなければいけない。それが『人のあり方』じゃなかったら、永遠に『新しい始まり』には届かない」 ……まぁ、一方で「きゃーっ、Gacktーっ!」とミーハーやってる私が「その通りだわっ」と言ってもあんまり説得力はないんだけれども。私の書くものといえば美少年だの美青年だのの話ばっかだし。イラク派遣反対でデモを起こしてもいないしな。でも、大切なのは世界情勢よりも「個人の誇り」だ。一人一人が自分の人生をまっとうに生きようとしていれば、世界だってそんなにもひどいことにはならないはずなんだ。日本や世界を覆っている暗雲をひとふきに消し飛ばしてくれる魔法はない。ただ、わずかに洩れる小さな光を一人一人が見つけていくだけだ。

 是非是非、一人でも多くの人に読んでいただきたい本です。

【おまけ】
 こんなことを言うとさらに説得力がなくなるかもしれないけど、私、この本読んでてふと、「Gacktさんと橋本さんは似ているのかもしれない」と思ったんだ。考え方というか、世の中に対するその、対し方が。橋本さんを読んでGacktさんを連想するのはまぁ私ぐらいなもんだろう。こじつけと言ってしまえばそれまでだ。でも二人とも「私の好きな世界観」の持ち主なんだから、そこにきっと共通点はある。「ホルンが上手になりたい」という相談に対して、「じゃあ腹筋を毎日200回やって、ゴムボートを毎日ふくらませなさい」と答えるGacktさんは、これ以上はないくらいまともな人だと思う。「何であろうとそんなに簡単に、楽にできるわけはない。でもできないのはみんな同じなんだから、そこにこそチャンスはある。がんばるしかないでしょ?」 こんなことがんばってない大人に言われても「けっ!」だけど、Gacktさんに言われたら「はい」とうなずくしかない。
 お二人のファンであることに恥じないよう、がんばらにゃいかんなぁ。うむ。

『戦争のある世界 ああでもなくこうでもなく4』(マドラ出版)
以上 橋本治


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