本の虫

◆第48回『いま私たちが考えるべきこと』/橋本治◆

 橋本さんにしては随分大それたタイトルです。「はじめに」のところで橋本さん本人が「『いま私たちが考えるべきこと』とは、なにごとだ?」と言ってます。そして「いま私たちが考えるべきこと」とはとりもなおさず「私たち」のことだ、という実に橋本さん的な展開をして、本論に入ります。「私たち」は普段、あまり深く考えることもなく「私たち」という言葉を使って、さも自分が世の中の平均的な人間であるような顔をしているけれども、一体本当に「私たち」などと言えるような一体感を他人との間に持っているのか? 「家族」も「働き方」も「生き方」も「多様化した」と言われる現代、「私」と「私以外の他人」――ひいては「社会」――はどのように繋がりうるのか。

私たち  ということで、あとは読んでください。他の本で橋本さんが何度も言っているように、この本も最終的には「自分の頭で考えろ」というところにたどり着きます。だから、読んで考えてください。

 大体橋本さんのあっち行ったりこっち行ったり、関係があるんだかないんだかわからない話が流れるように続いていく話を要約しろという方が無理なんだけども、たとえば「自主性のない人」の話。「自主性がない」とか、もっと過激に「自分がない」とかいうのは、現代ではとてもネガティブな、けなし言葉として使われる類のものでしょう。でもその対極にある、誉められてしかるべき「自主性のある人」というのは往々にして「自分のことしか考えられない=エゴイスト」である、と。日本には昔から「世間」というものがあって、多くの人は「こーゆーことをすると世間からどう思われるかな」という考え方をしていた。自分がどうしたいか、どう思うか、よりもまず「世間」を考えるのは「自主性がない」ことで、「うちのかーちゃんは世間体ばっかり気にする」と子どもの嘆きの種になっていたりもした。

 他人の目を気にしすぎるのはよくない。でも他人がどう思うかを全く気にしなかったら、それはただのエゴイストにすぎない。何でも「ちょうどいい加減」の、バランスが大事なんだと思うけど、ここで一つ困難なのは「他人がどう思うか」なんて、本当はそうそうわかるもんじゃないってこと。人間が社会生活を営む生き物である以上「私」の周りに「他人」はいて、「他人」とうまくやっていくための不文律として、「世間」という漠とした縛りがある。いつの間に形成されたんだかわからない、実のところ誰も合意はしてないのかもしれない。でもそれを「古い」とか「ほんとはみんなこんなの嫌でしょ?」で無視してしまうと、「他人」と関わる時にいちいち個別に判断しなきゃならなくなる。果たしてそれでやっていけるのか?

 「個人」を抑圧していた古い縛りがなくなって「自由」になって、それと引き替えにしてみんなてんでんばらばらになっていく。この本の最後の方には、「若い夫婦の悩むこと」という章があって、それは「結婚した私たちは、どのように“夫婦”として存在して行けばよいのか?」という悩みだ、と橋本さんは書く。一昔前なら、嫁は夫の家に入ってその家のしきたりを守って云々というのが「結婚」というもので、「どのように」もへったくれもなかった。でも今や「結婚」は「両性の合意のみに基づく」のであるから、どういうルールでどういう夫婦をやっていくかは、その夫婦二人が自分たちで考えるしかない。「好きにしていいよ」というのは実はとても面倒なことなのだ。

 でももちろん、「だから昔の方が良かった」ということにはならない。「そんなものはただの逃げである」「自分で自分のあり方、自分たちのあり方を考えるのがいやだから、“答の見えない現代は寂しい”と言って他人のせいにしているというだけである」

 この本には、イラクに関する言及もある。「あれは“戦争”であるよりも、“我々の正しさの基準に従え”という、補導とか逮捕のようなものだったのだろう」「アメリカとイラクでは、『国家』に対する考え方が大きく違う。『違う』ということさえ、ろくに理解されていない」――だろうなぁ。「イラクの人たちは『国家がピンとこない』。そして、そんなこと言ったら日本だって、たいして『ピンときて』ないだろう」――いや、実にまったく。

 イラクの多くの人たちは、たぶん「フセインでもいいや」と思っていた。だってフセインが元首でも、とりあえず自分の生活は確保されているから。日本人の多くだってそうでしょう。別に「小泉でもいいや」「自民党でもいいや」と思ってるでしょう? とりあえず自分の生活は確保されてるんだもん。いくら年金がどうの、財政破綻がどうのと言われても、どっかで「自分には関係ない」と思ってるでしょう? 私だってまったくピンとこない。たまたま日本に生まれて、別に不都合がないからよその国に逃げる必要もなくて日本人をやっているだけで、日本の風土も文化も好きだけれど、日本という「国家」が好きかと言われたら、「え……」と口ごもるしかない。

 そもそも「国家」って何か。ある国の「国民」であるというのはどういうことか。イラクの日本人人質事件で、人質になった人たちに対して「危険なとこに行く方が悪い」というバッシングが起こった。救出を願う家族も、救出された本人達も、「迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪の言葉を口にした。「みなさんに心配をかけた」はわかる。でも「国(や国民)に迷惑をかける」ってどういうことだろう? そりゃ政府は大迷惑だったろう。厄介なことしやがって、ぐらいは思っただろう。人質になった人たちは自衛隊派遣に反対する人たちでもあったし。でも「国の方針に従わない奴は助けなくてもいい」っていうのは、“あり”なんだろうか。「政府が迷惑するから勝手な行動はするな」っていうのはやばい発想じゃないんだろうか。

 私たちはふだん、「国のため」を思って生活なんかしない。「政治」なんかよくわからない、国の方針なんて政治家が勝手に決めてるんだろうとさえ思っている。そうであっても、よその国から見れば私たちは日本の「国民」で、日本の「国家」がしていることを背負わされる。だから私たちは韓国や中国の人に戦中のことをなじられて、「そんな生まれる前のこと言われてもなぁ」「国がやったことじゃん」と思いながら返答に困る。

 イラクで人質になった人たちは、まず「日本人である」という理由で拘束された。「自衛隊を送ってアメリカに協力している国の国民」であるという理由で。私たち日本国民には、好むと好まざるとに関わらず「国のやること」に責任があって、いつ「テロに遭う」という形でその責任を取らされるかわからない。拉致するなら大臣、爆破するなら国会議事堂にしてくれよ、と言いたいようなものである。その危険を直視するのが嫌だから、「自己責任」なんてバッシングをするんだろう。「あんなとこに行く方が悪い」は、裏を返せば「行ってない自分は悪くない、安全だ」だもの。

 で。「民主国家」の「自由」な「国民」である私たちは、考え続けるしかないのです。『「大きな“私たち”」が、「正解を持っている」と言えた時代は終わった。』『「正解」というものが「自分と他人で作り上げるもの」に変わった以上、「自分とは違う他人」「自分たちとは違う他人」のありようを無視することは出来ない』

『いま私たちが考えるべきこと』(新潮社)
以上 橋本治


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