本の虫

◆第43回『ギリシア悲劇U』/ソポクレス(訳:高津春繁他)◆

 『マハーバーラタ』に引き続き、古典である。なんでこんなものを読み始めたかと言えば、もちろんそれは蜷川幸雄演出、野村萬斎主演の『オイディプス王』を見たからなんだけれど。一昨年の秋、『グリークス』を見た時もそりゃあ感動して、しばらく何を見ても何を読んでもつまらない、という状況に陥り、脚本集買っときゃよかったなぁと後悔したものの、原作に当たるところまではいかなかった。

人の子のさだめ  それが今回、読まねばなるまいと思ったのは、オイディプス王のその後に興味があったからだ。お芝居は、知らずになした自らの罪におののいたオイディプス王が両の目を潰し、「俺を早くこの街から放り出してくれ」と嘆くところで終わる。目を潰すぐらいなら死んじゃった方が良かったんじゃないの、というコロス(合唱隊)のもっともなツッコミに、「もし目が開いていたら、冥府へ行ってどんな顔で父や母を見ればよいと言うのか」と応える王。あれだけの悲劇を経験して、まだ生き続けねばならないとしたら、その人生は、その心中は、どのようなものであるのか。

 そしてまた、残された二人の娘。祖母でもある人を母に生まれてしまった呪われた子ども達。劇の最後で王自身がその行く末を思って涙にくれるように、その生涯が平坦なものであるはずもない。王のその後、娘達のその後を書いてみたいなぁと思った私の前に、神は啓示を下す。

 それはもう書かれている。

 そう、『オイディプス王』の作者ソポクレスは、王のその後である『コロノスのオイディプス』と、娘のその後である『アンティゴネ』もちゃんと書いているのだ。読むしかない。

 で、読んでみたら。王も娘も私が予想したのとは随分違った末路を迎えていた。オイディプスったら「父母が私の墓場と定めたキタイロンの山にこもろう」と言ってたくせに、息子に国を追い出されたと言って息子を呪っている。あれれれれ〜。そりゃ必ずしも悲劇が人を優しくするとは限らんけどさ。あの感動のラストシーンは何だったのよ。「俺は知らずにやったのだから、あれは俺の罪ではない」なんてことも言う。「知っていて俺を殺そうとした父母の方こそ加害者だ」――いや、まぁ確かにそうなんだけどねぇ。父と知って憎み、殺したわけではないし、母と知って慕い、寝床を共にしたわけでもない。そういう意味じゃ「オイディプス・コンプレックス」なんてネーミングはまったくいい迷惑なんだけれども。

 オイディプスが父を殺すであろうことは、彼が生まれる前から定まっていた。なればこそ、その予言を怖れた父は子を殺そうとしたのだもの。でももしかすると。予言を知った上でなお、父が子を慈しみ、自らの手で育てていたなら、あるいは運命は変わっていたのかもしれない。

 自身の力に驕り、神をないがしろにしたがために自ら命を絶つことになる『アイアス』、良かれと思ってなしたことが大いなる禍いをもたらす『トラキスの女たち』。繰り返し描かれる神々と――運命と――人間との相剋。「このことが為されるについては、神々の大きな無情を見てほしい。神々は子をもうけ、父と呼ばれながら、このような苦しみをただ見下ろしておられる」

 私が見た芝居のプログラムには、ちゃんと「脚本:ソポクレス」と書かれている。見事な構成も、心を打つセリフも、2500年の昔に書かれたもの。それだけの時を経て、なおそのままの上演が可能であり、大きな感動を呼び起こすことができるなんて! ソポクレス殿、あなたは2500年後の観客のことを、ちらとでもお考えになったことがおありでしたか?

 (しかしちくま文庫版の訳は必ずしも読みやすくない。7編を6人で訳しているのだが、訳者によってかなり文体にばらつきがあって、赤ペンを入れたくなるものも……。「〜してくれえ」と訳すのはやめてくれえ)

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『ギリシア悲劇U』(ちくま文庫)
以上 ソポクレス(訳:高津春繁他)


●次回予告●

次回は未定です。あしからず。


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