本の虫

◆第42回『原典訳マハーバーラタ』/上村勝彦・訳◆

 『マハーバーラタ』と言えば、『ラーマーヤナ』と並んで有名な古代インドの大叙事詩である。名前ばかりは聞いたことがあるけれども、当然そんなもの読んだことはなかった。うちの近所の書店にこんなお堅い本が並んでいるわけもないから、本当なら私はこの本を手に取ることもなく、『マハーバーラタ』の「摩」の字も知らずに(漢字で書くと『摩訶婆羅多』となるらしい)一生を終えるはずであった。

呪いの応酬  が。世の中には書評というものがある。4月某日(だったと思う)、毎日新聞に『マヌ法典』(これも古代インドの物)の現代語訳の書評が載っていて、その最後の箇所に「『イリアス』『オデュッセイア』より何倍も面白い『マハーバーラタ』の原典訳も始まった」と書かれていたのだ。『イリアス』も『オデュッセイア』も読んだことないから、どれくらい面白いのかまったく想像つかないんだけれど、しかしなんか心惹かれてまずネット書店で検索。したらあんた、文庫なのに1冊1500円もするじゃないの。げーっ、なんちゅう高い本や。しかもそれが1冊で終わらないで何巻も続くんだよ(たぶん全20巻ぐらい。ひえー)。そんなもん買うてられるかいな。(※注:この原稿を発表後、全11巻ということが判明いたしました)

 しかしそのネット書店の読者コメントにまた心惹かれる文句が書いてあったりするのだ。曰く、「ここに存するものは他にもある。しかし、ここに存しないものは、他のどこにも存しない」。これは『マハーバーラタ』の文中に出てくる言葉なのだけれど。うーん、実に興味をそそられるじゃないかい。未来のファンタジー作家としてはこーゆー大叙事詩をはずすわけにはいかんのじゃないかね。

 とりあえず大阪に出る機会があったので、紀伊国屋に寄って1巻だけでも買ってみようと手に取った。まず最初に出版に到るまでの経緯が書いてあって。「やはり現在の出版事情では、必ずしも利益を期待できない、このような大部の原典訳を出版することは無理なのであろうか」と訳者が諦めかけるほど、出版までには紆余曲折があったのだ。そうだよねー、こんなの普通の人買わないよねー。私が買うしかないじゃんよ。

 というわけで買って、読み始めたらば。これが面白い! 名前の覚えにくさには閉口するけど、意外にもどんどんと読み進めてしまうのだ。筋が面白いというよりは、いちいちの会話の理屈っぽさが面白いというのかな。とても有難い人生訓が書かれているかと思うと、現代人の感覚では「おいおい、それで徳が高いのか!?」とつっこみたくなるエピソードもあり、その硬軟の絶妙のバランス(?)につい頁を繰ってしまう。「王よ。私はそなたに満足した。そなたの名声は三界に響き渡るであろう」というような叙事詩ならではの言い回しに引き込まれ、今なら自分も王様や神官の出てくる話が書けるんじゃないかという気がしてくる。

 なんてったって「言葉の力」がすごい。「おまえは象になるであろう」と言っただけでもうそれは「呪い」として実現しちゃうのだ。言われた方が「おまえは亀になるであろう」と言い返したら二人で象と亀になっちゃうんだよ。あーあ。言葉というものは神聖で、それ自体力を持つものなんである。うっかり冗談で変なこと口にしちゃうと大変なのだ。「私が言った言葉は虚言(そらごと)にはなりません。それは決して変えようがありません。私はふざけている時も嘘は言いません。いわんや呪ったらなおさらです」

 しかしこーゆーものを読むと自分の小説なんて馬鹿馬鹿しくて書けなくなるのだなぁ。二千年も昔に言うべきことはすべて言われてしまっているのだ。今更私が何を書くというのだね。焼き直しですらない、陳腐で貧困な物語であることよ。よよよ(と泣き崩れる)。

「この物語に依存せずして、いかなる物語も地上に存在しない」

『原典訳マハーバーラタ』@〜B(ちくま学芸文庫、以下続刊)
以上 上村勝彦・訳
【2008年追記】『原典訳マハーバーラタ』は訳者上村勝彦先生死去のため、G巻までで中断してしまいました。上村先生に代わる訳者は未だ見つかっていないようです。


●次回予告●

次回は『ギリシア悲劇U/ソポクレス』です。


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