山田2号墳の単鳳環頭大刀
 大山小学校内の「ふれあい館」には、大山の古墳から出土した遺物が陳列してあります。その中に単鳳環頭大刀(たんほうかんとうたち)の柄頭(つかがしら)があります。


かつての山田2号墳 (1970年代か)
 これは1960年、大山下の山田坪で耕作中に発見されたものです。現在は全壊していますが、この地には横穴式石室を有する径約8mの円墳がかつてあり、「下段の塚」と呼ばれていました。現在は山田2号墳と名付けられています(1)。

 単鳳環頭大刀柄頭はこの山田2号墳から直接出土したものではありませんが、出土地が山田2号墳に近いことから、山田2号墳の遺物だと考えられています。

 山田1号墳からも装飾大刀が出土しています。保存状態が悪く、柄頭が不明ですが、鞘
(さや)金具に華麗な文様をたたき出していることから、頭椎(かぶつち)大刀ではないかと考えられています。
 しかし、2005年に実見された大谷晃二氏は、「鞘尻が丸くならず四角になっているものは、双龍環頭大刀にしかない」と分析されています。また、大谷氏は「(1号墳は)出土須恵器から7世紀前半ないし中葉のもの」と考えられています。

山田2号墳位置図

山田1号墳石室略図

















単鳳環頭大刀
 単鳳とは鳳凰が1羽、環頭とは柄頭が環状をなしているということを示しています。一般に、太刀は平安時代以降の反りをもつ刀を指し、大刀は古墳時代・奈良時代の直刀を指します。また、金銀で飾られた大刀は、装飾付大刀と呼ばれています。

 単鳳環頭大刀とは別に単竜環頭大刀というのがあります。よく似ているのですが、口から舌を出し、上下1本ずつの歯があるのが竜、玉を咥えているのが鳳凰です(2)。

 単竜環頭大刀柄頭
 竜頭部の部分名称


 単鳳環頭大刀柄頭

 山田2号墳のものは玉を咥えず、口を閉じています。また、冠毛はくっつき3本の刻み目で表され、後毛が環にくっついています。そして、環のまわりには竜が彫られているのですが、鱗(うろこ)がなく不鮮明な状態です。

 現在人の感覚からすると、技術の進歩と共に精巧な造りになってよいはずですが、当時は、オリジナルの模倣を繰り返すことによって、あるいは大量生産されるようになると、形や模様が退化していきます(粗悪になります)。山田2号墳のものは大量に生産された時期にあたるようです。

山田2号墳出土の単鳳環頭大刀の柄頭
(『篠山市の指定文化財』より)

環内の竜鳳頭部実測図
 それでは山田2号墳の単鳳環頭大刀柄頭は何世紀の遺物なのでしょうか。

 山田2号墳から出土した確かな遺物(須恵器など)はなく、また横穴式石室の形態も不明です。だとすれば、他地域で出土した同じような形式の柄頭と比較し、時期を推定するしかあしません。

 幸いにも百済の武寧王
(ぶねいおう)のお墓から単竜環頭大刀が発見されています。武寧王は、文献や墓誌から在位期間(502年〜523年)が判明していますので、これを起点とし、編年を試みられています。

 新納
(にいろ)氏は型式を6つに区分されています。新納氏による図をみると、山田2号墳の柄頭はX式にある奈良県の榛原(はいばら)町(現宇陀市)のものとよく似ていることがわかります。

 X式は、山田2号墳と同じ型式の単鳳環頭大刀柄頭が出土している岡1号墳(京都府網野町)出土の須恵器の型式などから6世紀末を想定されています。

 よって、山田2号墳の築造は6世紀末より下らないということになります。

 さて、単鳳環頭大刀などの装飾付大刀は、中央から地方豪族に下賜
(かし)されたものというのが有力な説です。特に、X・Y式の時期には単鳳環頭大刀が量産されたようで、全国的に分布します。

 山田2号墳のものと類型式または同系列の分布を示しているのが下図です(3)。穴沢・馬目氏はこのグループのルーツを龍王山C3号墳出土の単鳳環頭大刀とし、龍王山系列と仮称されています。そしてこの一系列のみが特に量産され、全国に配布されたとのではないかとみています。

龍王山系列の単鳳環頭大刀の出土例とその分布図(縮尺不同)
「兵庫・奥谷」とあるのは、篠山市殿町の奥谷蕪谷古墳出土の単鳳環頭大刀柄頭です。退化状況からみてY式となります。

山田2号墳の被葬者像

装飾付大刀編年表
 下図は中・四国地方と山陰地方の装飾大刀の分布を表したものです。これを見ると、単竜・単鳳環頭大刀は中・四国に多く分布し、双竜・双鳳環頭大刀は山陰地方に多く分布していることがわかります。

 また、左図(4)を見ると、平行する時期がありますが、単竜・単鳳環頭大刀の後に双竜・双鳳環頭大刀が盛行しているのがわかります。

 両図を合わせると、「中央による地方への政策の一環を表して」(5)おり、中央が中・四国地方からやがて山陰地方に政策を転換していると思われます。

 この流れの中に山田2号墳の被葬者はおかれていたと言えます。後の官道である山陰道が通る地域でもあるので、中央にとっては重要な地域であったと思います。

 それは、大山古墳群は5世紀後葉から7世紀代にかけて築造された古墳群で(5)、初期横穴式石室と推定される峠尻1号墳や前方後円墳が集中する篠山盆地内においては稀な地域であったことからもうかがえます。

 (つづく)

『ひょうごの遺跡42号』 (兵庫県埋蔵文化財調査事務所 2002年) より一部改


(1)池田正男 「地方政権の誕生」 『丹南町史』上巻 1994年
尚、『波賀尾群集墳分布調査報告書』(多紀郡教育事務組合教育委員会 1973)は、「もとは径約20m前後の円墳であったようだが、昭和7年に田の拡大のため破壊された」としています(小川弦太氏のご教示による)。また、『多紀郡埋蔵文化財分布調査報告書』(多紀郡埋蔵文化財調査委員会 1972)は、半崩壊として「円墳(東西4.0m、南北8.0m、高1.5m)、横穴式石室」と報告しています。

(2)新納泉 「単竜・単鳳環頭大刀の編年」 『史林』 1982年
(3)穴沢柱・馬目順一 「単龍・単鳳環頭大刀の編年と系列」 『福島考古』第27号 1986年
(4)新納泉 「戊辰年銘大刀と装飾付大刀の編年」 『考古学研究』第34巻第3号 1987年
(5)下江健太 「方頭大刀の編年」 『定東塚・西塚古墳』 岡山大学考古学研究室 2001年

(6)池田正男 「篠山盆地における古墳群の動態」 『高井悌三郎先生喜寿記念論集 歴史学と考古学』 1987年