素読のためのテキスト (随時追加します)

徒然草 序段

つれづれなるまゝに、日くらし、硯(すずり)にむかひて、心に移りゆくよしなし事(ごと)を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

平家物語

祇園精舎(ぎをんしやうじや)の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹(しやらさうじゆ)の花の色、盛者必衰(じやうしやひつすい)の理(ことわり)をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵(ちり)に同じ。

竹取物語

今は昔、竹取の翁(おきな)といふ者ありけり。
野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。
名をば、さかきの造(みやつこ)となむ言ひける。
その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。
あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。
それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。
翁言ふやう、「我、朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて、知りぬ。
子となり給ふべき人なめり」とて、手にうち入れて家へ持ちて来(き)ぬ。
(め)の嫗(おうな)に預けて養はす。うつくしきことかぎりなし。
いと幼ければ籠(こ)に入れて養ふ。

枕草子

春はあけぼの。やうやう白くなり行く、山ぎは少しあかりて、
紫だちたる雲の細くたなびきたる。 

夏は夜。月のころはさらなり。
やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。
また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。
雨など降るもをかし。

秋は夕暮。夕日のさして山の端(は)いと近うなりたるに、
烏(からす)の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさへあはれなり。
まいて雁(かり)などのつらねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし
。日入りはてて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。

冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。
霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火などいそぎおこして
、炭もてわたるもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもて行けば、
火桶(ひおけ)の火も白き灰がちになりてわろし。

方丈記 第一段

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。

玉敷(たましき)の都のうちに、棟(むね)を並べ、甍(いらか)を争へる、高き卑(いや)しき人のすまひは、世々(よよ)を経て尽きせぬ物なれど、是をまことかと尋 ぬれば、昔しありし家はまれなり。

或は去年(こぞ)焼けて今年作れり。或は大家(おおいえ)滅びて小家(こいえ)となる。住む人も是に同じ。所もかはらず、人も多かれど、古(いにしえ)見し人は二三十人が中に、わづかに 一人二人なり。朝(あした)に死に、夕(ゆうべ)に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。

不知(しらず)、生れ死ぬる人、 いづかたより来りて、いづかたへか去る。又不知、仮の宿(やど)り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主(あるじ)とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露(つゆ)に異ならず。

或は露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。

奥の細道 序文

月日は百代(はくだい)の過客(くわかく)にして行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらへて老いを迎ふる者は日々旅にして旅をすみかとす。

古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年(こぞ)の秋、江上(かうしやう)の破屋(はおく)にくもの巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞(かすみ)の空に白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、ももひきの破れをつづり、笠の緒(を)をつけ替へて、三里に灸(きう)すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方(かた)は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べつしよ)
に移るに、
 
  草の戸も 住み替わる代(よ)ぞ ひなの家 
 
 面(おもて)八句を柱に掛け置く。


 「素読のすすめ」のページにも書きましたが、漢文の場合、文字そのままを音読して韻(いん)と音を楽しむのが素読の本来のあり方です。しかし、読み下し文を暗唱してもよいと思います。

 ちなみに「韻」とは、その字のもつ響きのことで、詩の中で同じ響きを持った字をきまった場所に置いて、音調を美しくととのえることを押韻(おういん)と言います。

 孟浩然の『春暁』という五言絶句の漢詩をみると、暁(ギョウ) 鳥(チョウ) 少(ショウ)の3字が同じ響きになっています。

  春 眠 不 覚 暁(春眠暁を覚えず)
  処 処 聞 啼 鳥(処処啼鳥を聞く)
  夜 来 風 雨 声(夜来風雨の声)
  花 落 知 多 少(花落つること知る多少ぞ)

 漢詩に限らず、ヨーロッパでも詩に押韻を行うのが一般的なようです。ビートルズのイエスタデーにもそれがみられます。各行の最後の単語の発音が「エ」か「イ」で終わっています。美しい漢詩やポエムは、何十年何百年経っても語り継がれるのですね。

  Yesterday,
  all my trobles seemeed so far away
  Now it looks as though they're here to stay
  Oh l bilieve in yesterday
  Suddenly
  l'm not half the man l used to be
  There's a shadow hanging over me
  Oh yesterday came suddenly
  Why she had to go, I don't know, she wouldn't say
  I said something wrong, Now l long for yesterday
  Yesterday,
  love was such an easy game to play
  Now l need a place to hide away
  Oh l believe in yesteday

「春暁」 孟浩然

春 眠 不 覚 暁   春眠(しゅんみん)(あかつき)を覚えず
処 処 聞 啼 鳥   処処(しょしょ)啼鳥(ていちょう)を聞く
夜 来 風 雨 声   夜来(やらい)風雨(ふうう)の声
花 落 知 多 少   花落つること知る多少(たしょう)

「春望」 杜甫

国 破 山 河 在   国破れて山河在(あ)
城 春 草 木 深   城春にして草木(そうもく)深し
感 時 花 濺 涙   時に感じては花にも涙をそそぎ
恨 別 鳥 驚 心   別れを恨(うら)んでは鳥にも心を驚かす
烽 火 連 三 月   烽火(ほうか)三月に連なり
家 書 抵 萬 金   家書(かしょ)万金(ばんきん)にあたる
白 頭 掻 更 短   白頭掻(か)けば更(さら)に短く、
渾 欲 不 勝 簪   渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲(ほっ)

「黄鶴楼送孟浩然之広陵」 李白
黄鶴楼(こうかくろう)にて孟浩然(もうこうねん)の広陵(こうりょう)に之(ゆ)くを送る 

故 人 西 辞 黄 鶴 楼   こじん にしのかた こうかくろうをじし
烟 花 三 月 下 揚 州   えんか さんがつ ようしゅうにくだる
孤 帆 遠 影 尽 碧 空   こはんのえんえい へきくうにつき
唯 見 長 江 天 際 流   ただみる ちょうこうの てんさいにながるるを

「静夜思」 李白

牀 前 看 月 光   牀前(しょうぜん)月光を看(み)
疑 是 地 上 霜   疑(うたご)うらくは是(こ)れ地上の霜(しも)かと
挙 頭 望 山 月   頭(こうべ)を挙(あ)げて山月(さんげつ)を望み
低 頭 思 故 郷   頭を低(た)れて故郷を思う

無題 李商隠

八歳偸照鏡

長眉已能畫
十歳去踏

芙蓉作裙
十二学弾箏
銀甲不曾卸
十四藏六親
懸知猶未嫁
十五泣春風
背面鞦韆下

八歳にして偸(ひそ)かに鏡に照(う)つし
長眉(ちょうび) 已(すで)に能(よ)く画(えが)
十歳にして去(ゆ)きて青(せい)を踏み
芙蓉(ふよう)もて裙(くんさ)と作(な)
十二にして箏(そう)を弾(ひ)くを学び
銀甲 曽(かつ)て卸(はず)さず
十四にして六親(りくしん)に蔵(かく)
(さだ)めて知る 猶(な)ほ未(いま)だ嫁(とつ)がざるを
十五にして春風(しゅんぷう)に泣き
(かほ)を背(そむ)く 鞦韆(しゅうせん)の下(もと)


韓国ドラマ「ホ・ジュン」第21話のイェジンがホ・ジュンに宛てた手紙にも登場しますが、60話ではイェジンが宮中を去り、三寂寺(サムジョク)に帰ることを決意した日に、サンファにこの詩を聞かせます。

「昔の漢詩にこんな一節があるわ
8歳の時 こっそり鏡をのぞき見て 眉を長くひきました
10歳の時 蓮の花の刺繍の服を着て 山菜をを採るのが好きでした
12歳の時 玄琴(コムンゴ)を習いました いつも琴爪を離しませんでした
14歳の時 なぜか男の人が恥ずかしくて 両親の後ろに隠れました
15歳の時 わけもなく春が悲しくなりました ぶらんこの綱を握ったまま
顔を背けて泣きました
唐代の李商隠(りしょういん)の詩よ」

「昔 ある春の日に ある方を見てから わけもなく春が悲しくなったわ
その方を想うたびに 切なくて胸が痛んだ・・・」

読むのには難しいですが、内容はいい詩ですね。