町浦古墳(追入)
 封土(ふうど)が失われ、石室が露出した状態で残る町浦古墳は、旧大坂街道沿いに所在していますが、不要な庭石が無造作に積んであるようにも見えますので、古墳であるということが地元の人にあまり知られていません。『分布調査報告書』(1)にもその存在が示されているだけです。唯一『大山村史』(2)に詳しく書かれていますので、以下の数値はこれによります。

 石室は入口を南に向けて開口し、奥壁石の一部が紛失しています。石室の全長は8.8m、奥壁と奥壁から6.5mの地点の幅は1.9mですが、中央部が2.6mに広がっています。この間の石室の高さは1.6mあります。

 奥壁から6.5mから8.8mの間の幅は、1.7mに狭まり、高さは1.1mとなります。また、天井石は4石あり、奥壁から4石めを他より50cm低く置いています。このことから『大山村史』は、この間を羨道(せんどう)、奥壁から6.5mまでを玄室として区切っています。

 町浦古墳の築造時期は、石室の形態から6世紀後半と考えられ、単鳳環頭大刀の柄頭が出土した山田2号墳より先行します。

附記
 『丹南町史』は、「全長11mの横穴式石室は羨道部が土で埋もれて」いるとしています。また、「洞中1号墳同様玄室の大型化、羨道の長大化のために、側壁にも天井石にも大型の石を使用するという構築方法」をとっているとしています。

西から東を望む

東から西を望む

奥壁部

奥壁から
(1)『多紀郡埋蔵文化財分布調査報告書』 多紀郡埋蔵文化財調査委員会 1972年
(2)『大山村史 本文編』 1964年