岩井山古墳群(小立)
 岩井山丘陵の南斜面には、10基の古墳が東西100m、南北200mの範囲に存在しています。いずれも無袖式の横穴式石室を伴う径5〜10mの円墳で、石室は南を向いて開口しています。

 これらの古墳は、石室の構造や規模などから、6世紀後半から7世紀初めに造られたと考えられています。

1号墳・・・径7m、高2m

2号墳・・・径8m、高2m、石室全長3.5m、幅奥壁部で1.25m、中央部・入口部1.3m、天井石3枚、奥壁巨石1枚

3号墳・・・径9m、高2.5m、石室全長6.87m、幅奥壁部1.4m、中央部1.2m、入口部1.4m、天井石4枚、奥壁に石棚

4号墳・・・径9m、高1.5m、石室全長5.25m、幅1.27m、奥壁2段、天井石2枚

5号墳・・・径7m、高1.5m、石室全長4m、幅1m、奥壁2段、天井石3枚

6号墳・・・径8m、高2m、石室全長4m、幅1.1m、高1m、天井石3枚

7号墳・・・径8m、高2m、石室全長5.7m、幅奥壁部1.4m、中央部1.6m、入口部1.3m、奥壁2段、天井石4枚

8号墳・・・径4m、高1m、その他不明

9号墳・・・径8m、高1.8m、石室全長5.3m

10号墳・・・石室全長3.8m、幅1.2m

岩井山3号墳 開口部

岩井山3号墳 入口から奥壁

岩井山3号墳石室実測図

岩井山3号墳の石棚について
 石室の特徴としては、側壁1段めの石の奥から4つめと5つめを突出させて、玄室と羨道を区切ったようにし、奥壁部と同じ幅の羨道を設けたようになっています。ですから、岩井山3号墳の石室は無袖式ではなく両袖式の横穴石室としている文献があります(注1)

 石棚は奥壁の下から63cm、天井石から77cmのところに架設され、幅1.4m、奥行96cm、厚さ40cm、石棚は奥壁と両側壁の中にその端を組み込んでいます。

 石室に石棚をもつ古墳は、全国に約140基あります。中でも和歌山県に最も多く、約半数を数えます。次いで九州地方に多く、約2割を占めます。

石棚の用途
 この石棚の用途は次の4つが考えられています。@屍床(ししょう)を覆うもの、A棺台となるもの、B石室を補強するもの、C棚の上に副葬品などをのせるもの。

 @屍床を覆うもの・・・石棚の下を屍床とし(板石を置く場合がある)、そこに被葬者を安置することで、石棚は屍床を覆う役目をします。また、たつの市の大住寺古墳群大鳴支群大鳴3号墳のように、奥壁・側壁が石棺の側面の三方を兼ね、残りの一方を板石で覆い、石棚は石棺の蓋の役目をしたと思われるものがあります。

 A棺台となるもの・・・石棚を棺台としてのみ利用したことが認められる古墳の例として、奈良県生駒郡平群町の三里古墳があげられます(注2)。三里古墳の石棚は、奥壁に組み込まず接しています。その石棚と奥壁の間から刀子片が2点検出しています。このことから棺台として利用されたと考えられています。

 B石室を補強するもの・・・石棚を架設した本来の目的は、石室を補強するためであるというのがほぼ一致した意見です。そして、「羨道部を石室の中央部に設計した時点で石棚の補強材としての実質的使命は無くなった」と考えられています(注3)


『埋蔵文化財愛知 no54』より
 C棚の上に副葬品などをのせるもの・・・一般に低い位置に架設されて石棚は、棺台として利用したのではないかと考えられていますが、中村修氏は、石棚の下に棺を置き、上には副葬品を置いたのではないかと考えられています(注4)。中村氏は、岩井山3号墳の石棚を低い位置に架設されたものとし、岩井山3号墳の石棚は、「石室奥部を上下二室に分割していてその上に副葬品を置くこともできるので、≪被葬者の覆い≫と≪副葬品を置く棚≫を兼ね備えた≪祭祀棚≫」とされています。

 岩井山3号墳の石棚がどのような用途で架設されたのかは、遺物が残っていませんので一概に述べることができません。ただ、石棚は40cmと分厚いので、棺台・死床棚の利用を視野に入れて架設したのではないかと考えられます。しかし一方では、幅が1.4mであることから、身長のことを考えると棺または遺骸を安置できたか疑問が残ります。

岩井山3号墳の被葬者像
 3号墳の規模はこの古墳群の中で最も大きいことから、「こゝに埋葬された被葬者の中では、盟主的存在の人」(注5)、「石棚付石室をもつ古墳の優位性が認められる」(注6)という意見があります。

 お隣の亀岡盆地には、有名な拝田16号墳をはじめ石棚付石室をもつ古墳が7基あります。ですから、亀岡盆地からの影響を考えてもよいと思われます。

 拝田16号墳の石室は、和歌山県の岩橋型の石室と類似していると言われています。岩橋(いわせ)千塚古墳群は、紀氏の墳墓とされており、石棚をもつ石室が県内で最も多く分布しています。このことから石棚をもつ古墳を紀氏またはその同族の墳墓であるという意見があります。

 よって、岩井山3号墳は亀岡盆地からの影響を受けて造られたとすると、紀氏またはその同族のお墓と言えるかもしれません。しかし、群集墳内に単発的に造られていることなど様々な問題が残りますので、今後の課題としたいと思います。



(注1)紀伊風土記の丘資料館 『石棚と石梁』 1996年
(注2)河上邦彦氏は、石棚の下にも棺があったと考えられています(「石棚を有する古墳について」 『平群・三里古墳』 1977年)。
(注3)松下彰 「梁棚考」 『立命館大学考古学論集T』 1997年
(注4)中村修「低い石棚の考察」 『立命館大学考古学論集W』 2005年
(注5)富田好久 『多紀郡文化財調査報告書第4冊 篠山・多紀町の古墳』 多紀郡教育事務組合教育委員会 1974年
(注6)進藤弘誉 「石棚付石室の系譜と伝播」 『滋賀考古』 第22号 2000年

参考文献
中岡敬善 「吉備考古散歩9 吉備の石棚付石室」 『考古文化』 第24号 2002年
『篠山町遺跡地図及び地名表』 篠山町教育委員会 1998年