大山の古道
 701年の大宝律令で、全国は五畿七道(ごきしちどう)と呼ばれる地域に区分されました。そして、7世紀後半から8世紀にかけて、中央と地方を結ぶ道(官道)が建設されます。この道は10世紀ごろまで機能し、古代の道(古代官道)と呼ばれています。篠山市内には山陰道が通っていました。

 古代山陰道は、天引(あまびき)峠から篠山市内に入ります。古代の道である駅路(えきろ)には30里(約16キロメートル)ごとに、駅路を往来する役人(駅使)らに対して馬の乗り継ぎや食料の支給、宿泊所の提供などを目的とした駅家(うまや)が配置されていました。

 篠山市内には、小野駅と長柄(ながら)駅がありました。小野駅は小野新、小野奥谷が比定されています。

 長柄駅の比定地としては、諸説がありましたが、1988年に西浜谷の遺跡から「永丙」と書かれた土器が出土し、また近くの東浜谷の遺跡からは「厨」と書かれた土器や「郡」と印刻された土器がが出土していることから、長柄駅は西浜谷にあったというのが有力視されています。

 さて、古代山陰道は、天引峠からこれらの駅家を通って西進し、木之部の峠を越え、長安寺に到ります。ここから北西に方向を変え、大山には鐘ケ坂までの約3キロメートルの間に古代山陰道が通っていました。

 時代は近世になりますが、長安寺の交差点から旧国道に入った北野新田の三差路には、大坂街道と西京街道を示す文政4(1821)年の「左京 いせ道、右きよ水 大坂道」と刻まれた道標があります。ここから大坂街道は鐘ケ坂に到ります。この区間、大坂街道が先の古代山陰道と重複していたかは不明です。
(きよ水=加東郡社町にある清水寺

 このように、大山の地は京、大阪、山陰に通じる交通の要衝でした。江戸時代、鐘ケ坂の手前の追入は宿場で栄え、嘉永(1844〜1853)ごろには全73戸の内20戸が宿を営んでいたようです。

 当時旅人宿として認められていたのは、福住、古市、追入の3箇所だけです。しかし、北野新田は街道の分岐点となっていたことから、半公認的に宿を提供する家がありました。また宿以外の店もあって商業で栄えていたそうです。現在でも、小林屋、麹(こうじ)屋、小松屋、トフ屋、質屋、松屋、追分屋、見付屋、今福屋、丸屋という屋号を持つ家が残っています。

参考文献
別府洋二 「駅家の構造と機能」 『兵庫県埋蔵文化財研究紀要』 第2号 2002年
上島亨 「大山の古道」 『丹波国大山荘現況調査報告X』 1989年
兵庫県教育委員会 『歴史の道調査報告書 第三集 山陰道』 1992年

兵庫県の古代の道と駅家 (別府洋二 「駅家の構造と機能」より 一部改)