大山八景
 2004年、大山小学校の当時4年生のみなさんによって、百年後に残したい、語りつぎたい「21世紀の大山八景」「大山七ふしぎ」を小学校区の住民にアンケート調査が行われました。

 そのアンケート用紙に「昔、大山八景というのがあった」という内容の言葉が書かれていました。それ以来私は、昔の大山八景は何という古文書に書かれているのか気になっていました。

 2006年、私の塾に来ている子に大山八景のことを何気なしに聞いてみると、なんと当時の4年生でした。そして、調査結果は『大山すてき発見 オフィシャルガイド』という冊子にまとめられていることを知りました。その冊子によって、大山八景が書かれている古文書は、貞享年間(1684〜1688)の『大山記』(西尾家所蔵)であることがわかりました。

 久下隆史氏は、この『大山記』には中沢氏重正(=中沢重政、元禄4(1691)年死去)の漢詩や俳句が掲載されており、また徳永中沢氏が居住する*徳永村の所在地である**中村から筆を起こしていることから、『大山記』の作者は中沢重政であると指摘されています(「中・近世における大山地区の神社と祭礼について 広域祭祀の背景」『国立歴史民俗博物館研究報告』第98集 2003年)

 しかし、中沢重政は別名文右衛門ですので、既に『大山村史』が貞享年間の『大山記』の著者は文右衛門であると指摘しています。

 『大山記』には西尾家所蔵本の他に同名のものが複数存在します。延宝年間(1673〜1681)に書かれた作者不明・不完全本の『大山記』、貞享2(1685)年の『大山村古跡覚書』をもとに江戸時代後期に再編された故中沢栄一氏所蔵の『大山記』です。

 『大山村古跡覚書』とは、『篠山領地志』の資料として書上を命ぜられ、徳永村の大庄屋の文右衛門が著した地誌です。西尾家所蔵本もこれをもとに書かれたと思われます。延宝年間の『大山記』については不明です。尚、『大山村古跡覚書』は『大山村史』の史料編に「中道文書」として掲載されています。

 さて、前置きが長くなりましたが、江戸期の大山八景をご紹介します。


1.波賀尾の暮雪 (大山新) はがおのぼせつ
 標高392mの波賀尾岳は、何ともない普通の山ですが、見る角度によっては綺麗な三角形をしており、富士山に似ているということを納得させられます。

 福原潜次郎は、波賀尾岳を「古い時代に於いて民俗が聚落地(じゅらくち)を求むる為に移動する際には必ず特殊な山を目標とした」標山(しめやま)であると指摘しています(『多紀郷土史話』1934年)

 旧山陰道を西紀から大山にやってきた旅人は、長安寺で波賀尾岳を目の前にします。向かって右へ行けば出雲へと続く道になります。波賀尾岳山腹には多くの古墳が存在していますので、昔は特殊な山と映ったことでしょう。


赤丸が古墳

西行法師の歌
 さて、大山には西行の歌とされる波賀尾岳を読んだ和歌が伝わっています。

 『大山記』(以下貞享年間の『大山記』)では
 「富士に似てふしにはあらぬ大山の
    波賀尾嶽の雪のあけほの 廻国上人」 と書かれています。

 これが『大山村古跡覚書』では
 「一、波賀尾嶽、此山駿州富士山に似たる由西行法師の歌とて申伝候。
  ○富士に似てふしにはあらぬ大山の波賀尾か嶽の雪の曙
    廻国上人といへる僧北野村読ル」 と書かれています。 (=より)

 廻国上人(かいこくしょうにん)とは諸国を回って歩く(諸国行脚をする)僧侶の総称です。『大山村古跡覚書』は、富士の歌は西行法師の歌という伝承があると言いながら、歌に続けて「西行法師北野村読ル」とは言っていません。『大山記』は、西行のことに一切触れていません。はたして西行の歌でしょうか。

西行法師
 西行(1118〜1190)は、23歳で出家した後、諸国行脚の旅に出て多くの和歌を残しています。ですので、各地には西行に関する伝説が残っています。諸国といっても東北・陸奥、中国・四国などで、しかも陸奥へは東大寺再建の勧進のために、四国へは崇徳天皇の慰霊のためにと、多くが目的を持った旅で、漂白というものではありません。丹波篠山に立ち寄ったという記録はありません。

 西行に関する伝説は、西行没後15年めに成立した『新古今和歌集』でさらに増幅します。それは、『新古今和歌集』には西行の歌が最も多く撰ばれていること、『新古今和歌集』の編纂の勅命を下した後鳥羽上皇が西行に傾倒していたことによります。

 そして、西行伝説が世に広まるにつれて、西行追慕の気運が高まり、西行の足跡を慕って廻国修行を志すものが現れます。おそらくこういったものの一人が波賀尾の歌を詠んだのではないかと思います。あるいは、西行は高野山で30年もの間修行をしていますので、大山に高野山への信仰を広めるためにやってきた高野聖か熊野三山への信仰を広めにやってきた熊野の修験者、または熊野比丘尼(びくに)の可能性があります。

 詳しくは別に譲りますが、熊野の修験者が大山にもやってきたことは、和泉式部伝説が大山宮に残っていることなどから確認されています。

福井の西行
 福井県に文殊山(もんじゅさん)という山があります(標高366m)。角原(つのはら)という地からの眺めが富士山に似ているということで、別名「角原富士」と呼ばれています。西行がこの文殊山を望んで詠んだという歌が伝わっています。

 「越しに来て富士とやいはん角原の文殊が岳の雲のあけぼの」

 大山の歌とよく似ていますね。福井県では、西行は朝六つ時に橋のたもとで歌を詠んだことになっています。以後その橋は「朝六つ橋」と呼ばれるようになったという伝承があります。大山にもこのような伝承があってもよいはずですが、それがありません。もっとも福井まで西行が旅したという確証はありません。


 以上のことから、大山の「波賀尾」の歌は、西行が詠んだものではないと言えるでしょう。

 2002年、大山新の新生橋に平行して新しく橋が架けられ、波賀尾橋と名付けられました。橋には、大山小児童と大山幼稚園児、大山保育園児計135人の手形を刻んだ御影石のプレート23枚が埋め込まれてます。「波賀尾橋」と刻まれた文字は、当時中1生の西井さんが書かれたものです。

 波賀尾岳とこの橋が篠山の名所の一つに数えられることを願っています。




 おおやまの 未来へはばたく みんなの手

2.高蔵寺の晩鐘(高倉)
 宝橋山高蔵寺は、7世紀に黒頭峰(くろつぼ)の山腹に建立されていました。七堂伽藍を備え、僧坊(寺院内の僧の住む建物)は21もあったそうです。しかし、1578年、明智光秀の丹波攻めによって焼失してしまいます。

 1592年、現在地に本堂と西蔵坊、光源坊、泉蔵坊が再建されますが、1650年に本堂が焼失しています。現在の本堂は1712年に復元されたものです。

 1716年には壇信徒によって梵鐘が寄進されという記録がありますが、『大山記』はそれ以前に書かれていますので、八景の梵鐘ではないことがわかります。寄進された梵鐘は、太平洋戦争中に供出されています。現在の梵鐘は1963年に鋳造されたものです。


3.塩地の落鴈(長安寺) しおじのらくがん
 「塩地」とは池の名前です。この池がどこなのかよくわかりません。ただ、「大山村古跡覚書」の大山長安寺村の段に「塩池 此池ニハ・・・」とありますので、長安寺にあることは間違いないでしょう。

 長安寺の交差点から、県道長安寺・篠山線を西紀に向かって行くとすぐにカーブなっていますが、カーブが終わったすぐ左の山裾に池があります。この池は「庄ノ池(ショウノイケ)」と呼ばれています。

 もう少し行くと右手に池があります。この池は北野新田の某氏と西木ノ部の某氏が管理されているもので、北野新田の方は「大谷池」と呼び、西木ノ部の方は「ショウノイケ」と呼ばれています。「塩じ池」はこの2つのどちかだと考えられています。


4.追手の夜雨(大山宮) おってのやう
 追手神社の祭神は追手大明神=大山祇命(おおやまつみのみこと)です。大山祇命は全国の山の神を統括する神で、総本社は愛媛県今治市の大三島にある大山祇神社です。

 神仏習合の時代にあっては、釈迦如来を本地仏(神の本来の姿)としていました。また、江戸時代、追手神社には別当寺として大乗寺末神宮寺がありました。享保2(1717)年、氏子(大山宮、大山上)によって神宮寺に梵鐘が寄進されています。

 明治の神仏分離により、梵鐘は大乗寺に移設されています。明治41(1908)年12月には、国時(くんとき)にあった赤禿稲荷社、加茂地(かもち)にあった秋葉社・ふじま愛宕社が追手神社に合祀され(合祀の年はわかりませんが、加茂地にあった蛭子社も合祀されています)、現在に到っています。


5.友武の夕照(大山宮) ともたけのゆうしょう
 友武とは、和泉式部伝説の残る金井畑(かないばた)の友武です。コンビニのあった所から金ケ坂に向かって少し行くと右手の集落へ入る道があります。その道の突き当たりの山裾が友武です。

 また、友武は、和泉式部のめんどうをみた人物ということになっています。和泉式部の伝説は別にゆずるとして、金井畑には和泉式部の子である加弥の墓があり、そこに五輪塔が建っていたそうです。

 五輪塔はやがて崩れ、長らくそのままになっていましたが、1980年代のほ場整備の際に大山宮地区の共同墓地に移設されています。

 『大山記』では、友武の墓を古墳であることを強調しています。


6.籠原の晴嵐(大山上) かごわらのせいらん
 西尾家のある四つ角から荒子新田に向かって少し行くと橋があります。そこから少し上り坂になっていますが、坂を登り切ったところの台地を籠原(かごわら)と言います。近年、古墳時代後期の住居跡と平安から鎌倉時代の掘立柱建物跡が確認されています。籠原遺跡(報告書ではカゴハライセキ)と言います。

 晴嵐とは、晴れた日に山にかかるかすみ、又は晴れた日に吹く山風のことで、谷間にある大山の中では広々とした場所です。


 さて、西尾家所蔵の『大山記』は、あと2箇所が欠けています。小学生を指導された郷土史家にお聞きしたところ、追入の円林寺に完全本があったそうですが、所在は不明です。また、『大山すてき発見 オフィシャルガイド』では『大山記』の成立を貞享3(1685)年としていますが、本文には書き記した年が書かれていません。

 以下の2箇所は、郷土史家がお話になり、『大山すてき発見 オフィシャルガイド』に記載されているものです。


7.大山谷の田植え(大山上)
 大山谷は今の石住から高倉にかけての谷間です。京都の東寺は、空海が創立した綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を空海の死後売却した代金で、承和12(845)年に藤原良房から大山谷付近の44町140歩を購入します。

 東寺による初期大山荘の経営はこの地から始まります。大山谷では須恵器の生産が盛んにおこなわれていましたので、この地が選ばれたのではないかと思われます。


8.五本松の秋月(町ノ田)
 五本松は、昔、姫塚というのがあって、そこに五本松と五輪塔あったようです。国道176号線を建設する際に塚は壊され、五輪塔は地蔵堂の脇に移したという記録が残っています。ただし、五本松は一箇所にあったのではなく、町ノ田の灯籠の松、一里塚の松などを指すという意見もあります。

 姫塚については次のような伝承があります。以下その要約です。
 「昔、金持ちの家に、美人で働き者の娘がいました。ある日、訪ねてきた地侍の水谷刑部に恋をします。そして二人は将来を約束する仲となります。

 しかし、娘の親は大金持ちに嫁がせるつもりなので、刑部をあきらめるように説得します。当然娘は承知しません。そこで、娘の親は刑部を竜門の瀧に魚釣りに誘い、刺し殺し、死体を滝壺に投じます。

 親は、刑部が誤って瀧に落ちて死んだことを告げ、大金持ちのところに嫁ぐことを娘に承諾させます。しかし、娘は機織りの糸を切って、返す刀で自害し、刑部の後を追います。その日は丑の日でした。以後、大山では娘の供養のため、丑の日に機織りをしないということです。」


 最後に、小学生が大山地区の住民にアンケートをとり、その結果選ばれた「新大山八景」をご紹介します。

百年後に残したい「21世紀の大山八景」
1.金山からのながめ
2.黄金のイチョウと千年モミ
3.黒頭峰と夏栗山
4.波賀尾山の雪げしょう
5.花の高蔵寺
6.大山川の春
7.メロディ橋(一ノ瀬橋)の夕暮れ
8.川代の秋



*徳永村・・・現在の大山新と北野新田の間にあった村で、現在は字名だけが残っています。徳永は中沢姓で、一印谷の中沢氏と区別するため、徳永中沢家と呼ばれています。

 現在は転出されていますが、徳永中沢家は荒子新田を開発した豪農でした。現在国道沿いにある浄土寺は、元々徳永村にあり徳永中沢家の菩提寺でした。
**中村・・・太閤検地は村ごとに検地し、検地帳を作成し、村高を把握するものでしたが、大山村においては3つに行政区分されました。即ち、上村、中村、下村です。ただし、追入村は宿場町であったことから(上村に属することもありましたが)、これらとは独立的な存在でした。
上村
石角(石住)
中村 徳永
町之田
長安寺
一印谷
高蔵寺
下村
東河地
北野
北野新田
明野
追入