タイトル:生活排水の自家浄化



 タイトルは少し大げさな気もしますが、昭和一桁時代に見られた生活の智慧と工夫、現代風な表現では少し堅苦しいこんな所でしょうか…

 自宅にあったこの仕掛けを初めて意識したのは、多分小学校に入学する前だったかと思います。その時私は、汗だくの真夏の頃に何時もやって来る、褌一張の裸のおいさんの事も、同時に思い出していまうのでした。 

゛この大きい水溜めみたいなの、毎年夏の真っ盛りに掃除しに来てたおいさん…゛

゛流しの井戸掃除のおいさん…同んなじおいさん…褌一張の裸のおいさん…!゛

見出し:大正・昭和の生活の智慧と工夫

 見出し:町家・うなぎの寝床
 私は子供の頃、自分の家を ゛うなぎの寝床みたいじゃー゛ そんな風に感じていました。表から裏口まで土間の通路が続き、それを挟んで生活に必要な色んな物が建て付け配置されていました。

 店から裏口まで、 ゛走ったらいかん!゛ と叱られながらも、スピードを上げて駆け抜ける程の長さがありました。当時のわが家の佇まいに少し触れます。

わが家の間取り(表通り)

わが家(町家)の間取り図面


 子供時代に育った生家の間取りを、半生記余を遡る記憶を頼りに、上図に書いてみました。湊町に残っていた生家は、最近になって総て取り壊されたと聞きます。時は誰に何の相談も無く、足早に流れ遠ざかり消え去ります。


 家の間取りは表の方から、店の間 〜中の間 〜仏間 と続き、仏間 の手前通路側には、二階へ上る外階段を取り付けた三畳の間があります。

 仏間 の横が座敷の間 、座敷の前は廊下で、その先に池と小さい築山のある座敷の庭 があります。座敷の間 の壁と背中合わせの通路側が茶の間で、茶の間の通路側に小さい囲炉裏が切ってありました。

 茶の間の対面には通路を挟んで、上下二段で板戸が夫々ニ枚の横長い什器用戸棚が造り付けられています。戸棚右手の上棚は空の酒瓶の定席です。

アイコン:ある時の母「空の酒瓶が多すぎる…」

は母の何時もの口癖でした。何しろ九人の子育てと学校は、経済的に大変だったでしょうから…

アイコン:ある日の母「お父さん もぅ一寸 お酒を控えてくれたらー 助かるのに 」

 座敷前の廊下は座敷の庭を囲む形に曲がって、化粧部屋 から、大・小便所 〜風呂場〜納戸 へと長々と続き、奥の部屋に突き当たります。
住まいはこの゛奥の部屋迄です。奥の部屋 の先が別棟の土蔵になっています。

庭のラッパ水仙
 座敷の庭 を取り囲む容で、長い廊下の反対側に炊事場があります。庭と炊事場は板壁(腰板)で仕切られ、腰板の上半分は縦格子造りで、炊事場から座敷の庭や内屋根・空が見通せます。
この板壁構造は奥の部屋の対面近くの物置まで続きます。

 化粧部屋 と便所の境から炊事場に向かって白土の仕切壁があり、庭への出入り用に杉板の木戸が切ってあります。

うなぎの寝床も、この座敷の庭の部分だけは、建屋が庭を取り囲む体裁に気を配り、少しばかり凝った造作の意図が覗えます。

 炊事場の庭に面する側は腰高さの板間になっていて、米櫃や保存用食品の容器等が片隅を占めます。板間の大方はお客膳などを用意する際の、賄い膳の仮置きや配膳の段取りなどへの利用を考えた造りです。
大家族でしたから、日頃は賄い準備のスペースとして、常時使っていました。

 通路を挟む板間の反対側には、何段もの仕切り棚があって、台所仕事に必要な一切の用品が準備されています。

区切り線:土間の通路


 言い忘れましたがこの建屋の一番の特徴は、店の表から裏口まで続く一本の土間の動線に象徴されると思います。一番狭い所でも半間幅の土間の通路が、必ず確保されていました。

 動線の建屋内での仕切りは、間取り図に矢印で大よそ示してあります。些か用心深い造りと云へそうですが、肝心の仕切戸は殆んど何時も開けっ放しでした。


わが家の間取り(裏通り)


わが家(町家)の間取り図面


 私の生家・裏通り側の間取りは、凡そ上の図のようでした。


見出し:炊事場・通称"流し"
 炊事場の板間に隣り合う土間には、直置きの少し大型のお竈(クド)があり、主に大鍋や焙烙用に使います。
通路の反対側は、焚き口を一段高くした三連のお竈さんです。真中のお竈は左右の焚口から煙突につながる所、このお竈(クド)に焚き口はありません。

 両側のお竈から煙突に逃げる炎を、一旦このお竈に通して余熱を使う構造です。真中のお釜には、台所仕事に使う補充用の湯が、炊事作業中は常時煮えたぎっています。一段高く造られた焚き口と下ノ口との間は火格子で仕切ります。下ノ口は灰落しを兼ねた通風孔です。
小さい置き(火)が要る時は此処から、大きい置き(火)は上の焚き口から十能を使って直接採ります。


区切り線:十能もどき


 お竈(クド)の先が水仕事用の作業場です。この辺りの床面だけは、水場ですから土間ではありません。
流しと呼ばれていた当時の台所は、床面を少し凹凸した 尺X尺半角 位の御影石を敷き詰めてセメンで押さえ、作業場全面の排水には細心の配慮が払われていました。

 イラスト:流し掃除少年
 柄付きたわしを使っての流し掃除は、子供の担当になる事も多かったんですが、結構楽しい仕事でした。子供をそんな気持にさせる、流しの雰囲気みたいなのが漂っていたのでしょうか…
ピカピカになった石畳を見る楽しさは格別でした。

写真:庭の利休梅
 台所仕事の水は、当時の各家庭と同様に井戸水・釣瓶・水甕・柄杓といった体裁で自水自給です。

 水甕は、当時岩見辺りからの船便で仕入れる、ニ斗つぼ(甕)から三斗つぼ(甕)時に四斗つぼ(甕)が使われていました。

 片隅に深井戸の在る流しは、中央の調理台を囲んで数人が行き来できる程の広さです。水場全体に適度な傾斜を持たせ、御影石の縁石で周りを取り囲んだ水対策は万全でした。
後述の台所排水の処理と併せ、土間主体の町家構造の水場対策が、細心の注意を払って施工されている事に気付きます。

 水場全体の生活排水は、狭い隙間の鉄格子の排水ゲートを通って水処理槽に流れ込みます。生活用水全てを賄う井戸は、水場の物置側にあって、井戸側の上部は御影石でがっちり組まれています。

朝顔に 釣瓶とられて もらひ水     千代女

風呂の水汲み:井戸・釣瓶・バケツ 釣瓶で汲み上げた水を、四六時中この井戸側を梃子にして水甕に流しこむ訳ですから、井戸側の耐久性は事の他重要です。
離れた風呂場ヘの水も、この井戸からバケツに汲みとって搬送します。この時の井戸側を梃子にした戦争みたいな釣瓶操作(大体が小学校年代の子供の仕事)を想像してみて下さい。

 井戸側には少し贅沢な石組みの様ですが、日常の過酷な使用条件を考えると、合理的な造りだと言えます。
家族全体の命の綱みたいな堀井戸ですから、井戸の扱いや日常の維持管理への心配りは、家族皆んなが厳しく自戒する大事でした。

 釣瓶の滑車輪の真上は天窓が開いていて、井戸側の明るさを軟らかく補う工夫が見られます。
お竈(クド)さん、流し、井戸側など、家中至る所といって良いほど、一段高い所に夫々の神棚が祭られています。
新年を迎える時の神棚掃除とお神酒奉げは、大晦日の大仕事でした。イラスト:地球に優しく

 流しの仕切り壁の先は、一部に簀子を敷いた土間造りの内小屋(物置)です。物置の中は、漬物樽・味噌樽・粗塩入り甕・炭俵・餅臼ほか各種の用具・用品類その他、普段必要になりそうな雑品が所狭しと置かれています。

 それでも中程の通路は何時も確保され、通路を物で塞ぐ事の無いように…は、家族皆んなで心掛けていた気配りでした。


わが家の間取り(裏通り)
わが家(町家)の間取り図面


見出し:ひょうとだな
 もう一度間取り図を参照します。

 物置を出ると右側に、全体が分厚い材で造られ塗装(多分漆塗り?)された、幅が一間半位の大型の造りつけ戸棚があります。この戸棚を家族は皆 ひょうとだな と呼んでいました。

ひょう… は兵つまり兵糧の兵で、万一に備えて米を蓄えておく戸棚、つまり 米の備蓄蔵 の意味という者、単に米俵の俵で、それを容れる戸棚だからと言う者…わが家の意見もまちまちです。


 俵戸棚 には常時米俵が積み上げられていました。ある時親父が戸棚を丁寧に目張りして、何かを駆除する薫蒸作業をしていた記憶があります。
店のお向かいの造り酒屋が精米もやっていたので、新しい精米が美味しいからと、必要量だけ精米して貰う習慣が続いていたようです。当時の家族十数人の食い扶持を考えると、相当な備えも必要だったろうと想像されます。

 俵戸棚と奥の部屋 とは丁度向き合う位置関係にあります。この奥が敷地幅一杯に造られた二階造りの土蔵でした。土蔵は敷地幅一杯を占めていましたから、裏口に抜ける通路が必要です。

土蔵一階の右手に、兵戸棚の前を通って裏に抜ける一間幅程のトンネル(子達の通称)が抜いてあります。


アイコン 通称トンネルを出た所が裏の空き地です。一部が空き屋根になった土間に、蔵の屋根程の高さのかぶす(かぼす?)の木が一本植わっていました。
旬の時期に、このかぶす汁 と二〜三軒先のI豆腐店の豆腐を使った湯豆腐の味は、忘れられない子供時代の味の一つです。

 うなぎの寝床みたいな町家の長い間取りは、ここでやっと尾っぽの裏口辺りに到達します。
裏の空き地は、土蔵側と裏の道側、もう一方の隣地側の三方が屋根掛けされています。簀子張りの屋根下は、甕(つぼ)・火鉢・オクド(竈)・土炬燵・焙烙・植木鉢他の荒物商品の置き場になっています.。


イラスト:ひょっこ 甕(つぼ)が積み上げられていた土蔵側と裏の道に接する側の屋根裏には、飼い鶏用の止まり木と糞受け用板枠がぶら下がっていました。

 親父のへび対策の工夫かな?…と微笑ましい思い出の陶製偽卵が、この糞受け用板枠の中には何時も入っていました。

 鶏は卵を簀子の上敷き藁に所構わず産みますから、卵探しも子達の専売・楽しい日課でした。

卵の優先権は勿論子達にありますが、これは毎日の餌やりの代償ですから当然です。ひよこも時々数羽は生まれていて、毎日のように ひよこ草 の採取に出掛け、一生懸命世話をしたものです。

生活排水の浄化
 うなぎの寝床話が、うなぎに連られてつい延びてしまいました。閑話休題…話しを戻します。

  昭和一桁時代に実在した生活排水の浄化槽らしきものが、私の生家 うなぎの寝床の尻尾辺り…奥の部屋と俵戸棚が向き合う空地…土蔵のトンネル手前の地下に造られていました。

 この空地は、突き当たりが土蔵入口、反対側は゛座敷の庭 ゛の木戸で、縦長の屋内空地です。中庭と呼んでいました。

 庭の木戸に向かって右手が風呂場と外便所、左手が流しと 物置で、中庭は主に物干し・伸子張り用に利用していました。洗濯物の物干し台の他、洗い張り用の長い板が何枚も立て掛けられ、時には伸子張りの長い布地が何本も風に揺らいだりしています。

 中庭は子達の遊び場としても、他からの邪魔の入らない、格好の閉ざされた建屋内空地でした。

生活排水の自家浄化槽 奥の部屋の正面空地の中央に、尺五寸幅位で長さ一間程の縦長い御影石が、五・六枚(七・八枚かも?)も横幅方向に、地面と同じレベルで敷き詰められています。

 敷き詰めるというより其処に並べて置いてある感じで、所々に狭い隙間もあって、置石の下の方に水が溜まっている様子が覗き見できました。 

アニメ:工事中 毎年夏になると、作業着姿というより褌一張に近いおいさんが何人も来て、御影石の蓋を全部取り外します。
蓋石が取り除けられた下には、隙間から覗き見した通りの大きい矩形の水溜めがあり、かなり深くて変な臭いが漂います。

 おいさんらは次々と梯子伝いに水溜めの中に降り、先ず中に溜まった水を大きいホースを使ってポンプで抜き取っていきます。あらまし水を汲み出すと、今度は鋤簾みたいな道具を使って、底に溜まった真っ黒い泥を次々掬い取って、外の大きい容器に次々と移し採っていきます。アイコン

 掬い出したヘドロは裏口に待機している、別の囲い付きの台車に移し変えます。体中泥だらけになっての汲み出しの作業が延々と続きます。

 ヘドロの掻き出しが終ると、水溜めの内側を大きい柄付きたわしでこすり洗います。水槽の壁もどうやら御影石で作られているみたいでした。洗った水をもう一度ポンプで汲み出します。
水の汲み出しが終ると、何時の間にか傍に積み上げてあった綺麗な粗砂を次々と底に落し込み、底全面に敷き詰め均していきます。

アイコン 泥の掻き出し中は臭いので逃げていましたが、水槽の水洗いが始まった辺りから、何でこんな水槽が此処に掘ってあるのか、それが不思議で堪らなくなりました。例によって、子供の

"なんでー?…どしてー?…゛

の疑問です。私は清掃作業の終った水槽をじっと覗き込みました。そんな私に気付いた作業のおいさんは、

「坊ー…この水溜め、何するんか?分かるか…流しの水は左の方…風呂の水や洗濯もんの水は右の方の口から、こん中へ流れて来るんぞ!」
アニメ:指先
『捨てる水が溜まる水溜めの壁なんか、なんでそなに高い御影石なんか使うんぞな?…勿体なー!』
「勿体無い事なんかないんぞー…上の重たい御影石の蓋も下から支えないかんしなっ…坊らも上で遊ぶんじゃろが!
 それになっ…壁をこん石で確っかり囲こといたら、何十年でも持たい!…のっ!…反って安上がりなんぞ!」
アニメ:指先
『この水溜め…何んするん?…要らん・捨てる水なんか溜めて…どーするん?…』

 この頃になって、私はやっと本当に知りたかった事を、作業のおいさんに尋ねることが出来ました。大方の作業を終えかけていたおいさんは、にこにこ顔で私の質問に付き合って答えてくれます。

「上の方に穴が開いとろー…」

 流しの水が流れ込む方向と反対側を指さして言います。流れ込む口より少し低い所に、大き目の穴が裏口に向かって開いています。

アニメ:地球に優しく 「あのなっ…流しからの水には色んなもんが入っとろー…、米の磨ぎ汁・油・魚を捌いた洗い汁・漬けもんの糠・洗い滓・煮汁の残りなんか、何でもかんでも…風呂の水や洗濯もんの水も汚しゃなかろー…」

 「こんな汚い水そんまま外へ流したら…下水の水が外で腐って終まおがー…臭そうーてたまらぞー…ナー坊ー…。それになー…町中の下水はみな海へ流れ込んどるんぞー…坊らが泳いどる海へぞー…」
「湊の中へも、一番なぎ辺にも、梢川にも、えべっさんの横も、新町も…町中の下水はみな海へ流れ込んどろー…知っとろがー
「この水溜めはなー、毎日使こた汚い水を一遍ここへ溜めて、こん中の砂や土の力で自然に綺麗にしてもろて、それから外へ流しとるんぞ…大事な大事な゛水溜め ゛じゃがなっ!」



『家で父さんが、この御影石の水溜の事を、 ひ(樋)云うとるんは、どしてぞなー?』
写真:自然を大事に
「徳さん、これ ひ(樋)云うとるんかなー…そうかな・そうかな…それでええんょ…ほおかやー…ええんょ!」
「八幡さんの池…秋になって田圃の水が要らんようになったら…ひー(樋)を抜くじゃろー…、ひー抜く いうて言うとろー…

 そん時は坊らも…いで(井手、井堰)へ鯉や鮒を捕りに行こー…あの ひ(樋)とつい(対)よ!…ん・ん…」
「…堰き止めた水の流し口の戸が ひ(樋)じゃからなー…。そうかや!…家でも ひ(樋)いうて言うとるんかや…」    

 おいさんは何故かしきりに感心して、何回も頷きます。

 おいさん達は最後に御影石の蓋を元通りの位置に収め、安全を確認する様にその上をトントンと跳ね飛びしながら、石の収まり具合を何回も調節します。

「坊ー もう大丈夫ぞー!… 何人乗っても、びくともせーへん!…」

少年も見よう見真似で石の上で跳ね飛びを繰り返し、したり顔に首を傾げ頷いた。



 


見出し:ふる里先人の生活観
 子供時代に見・聞きしたことは、内容がよく分からなくても、その映像だけは意外と鮮明に、頭に刻まれ記憶されるもののようです。

 メタンガスの発生槽や生活排水の浄化槽も、その記憶に脳が集中を始めると、もう半世紀以上も昔の見聞なのに、まるで昨日の事のように動作まで映像で繋がり始めます。イラスト:親父

 幼児の時代に感じた匂いの記憶が、同じ匂いに接した時、一瞬に数十年前の懐かしいあの匂いの記憶に繋がるのと共通します。
このページに関連して、少しだけ今の生活環境の考え方に触れてみます。


 あの当時ふる里の先人が、自分たちの生活環境について、どのような生活観で接していたのか…
環境…環境…の議論が日々喧騒しい現状に、一石を投じる ひとの智慧が見つかるかも知れません。

当時は 生活環境という言葉自体が一般的ではなかったと思います、言葉そのものが無かったかもしれません。そんな中で人々は、自分達の住む地域の環境にどのように接していたのでしょう。イラスト:夏子おばさん

 家庭用にメタンガスを自家発生させて燃料に利用するとか、生活排水を ひ(樋)で浄化処理する等は、当時の一般の人々の生活感覚とは程遠い概念だったかも知れません。
町中の生活排水が殆ど海に垂れ流しされていても、さして関心のなかった…そんな時代です。

アイコン゛せめて吾が家だけでも排水の浄化をやっておこか…゛ と取り組む。生ゴミや馬糞などから燃えるガスがつくれるそうな…と聞くと、
アイコン
゛面白そうじゃなー…造って燃やして見よか!…元はただじゃから…゛
 と実現する。



 きっかけはその事への興味と関心、特別に世のため人のためと粋がるつもりなど更々ない。手がけて実現してた事も、ここで私が触れなかったら、恐らく永久に世間に知られる事もない。

イラスト:その陰の力イラスト:先人の技術 実現に取り組んだ当時の人達も、別に大上段に構えるでも無く、さらりと実行に移してみただけという感じです。

 なのに、その素朴で単純とも思える実行力の中に、新しい時代に生きる当時の日本人の、工まない発想の凄さを更めて知るのです。

 さて実行に移した事柄は、片や生活廃物を利用するバイオガス発生装置の実用化だし、片や微生物・分解酵素などを利用した生活汚水の簡易浄化槽そのものなのです。
つまりバリバリの現代科学技術の範疇です。

 日常の生活環境に関するこの近代が、昭和の初期に既に存在した事は驚きです。郡中人の凄い進取性を認識させられますが、一体この進取性の背景は何なのでしょう…?





見出し:ふる里近代の背景 三世紀有半を遡る江戸期・寛永の頃、初めて町造りに関わった人達、その後に町の発展に参画した人々、江戸期からの行政との特別な関わり等々がこの町の発展に絡んでいるようです。

歴史的なこうした背景は矢張り、専門の方々の歴史資料に基づく調査研究の解明に待つしか無いでしょう。 

 想像できるのは至極当たり前の事ですが、人々が何時も自分たちの周りに気を配り、生活していた事に尽きると思います。いつも周りに気を配っておれば、直ぐに・ぼつぼつ・じっくり等、取り組む優先順位が自ずと分かります。



写真:隣の公園で成長する挿し木苗の扶桑木 町中の雨水溝のドブ浚え等は、定期的に町中総出で声を掛け合ってやっていました。町の大掃除も一斉にやります。道路一杯に畳を広げて 天道干ししますから、この日車馬の通行は殆んど出来ません。

  この頃続いていた夏場の日照りでは、渇水で田圃はひび割れ、惨憺たる状況でした。そんな時も地下水を汲み上げて田圃に給水する手段を、隣接村の農家では採りませんでした。

 経済的に採算が合わないので、ポンプ汲み上げ給水の手段は採らなかったとも聞きますが…でも大方の農民には、生活に絶対欠かせない地下水を汲み上げて田圃に給水するなどの発想は、考えつきもしなかったのではないでしょうか…

 殆ど処理されないまヽの生活排水は、何ヶ所かに合流して夫々海へ流れ込んでいました。

 排水の流れ込む海岸線は、海苔・貝類・小魚などが日常的に採取され、子達の遊び泳ぐ海でもあります。
でも、流れ込む排水は、時間単位で自然浄化されていたように思うのです。排水が帯線状になって連なり、沖合いに流れ込むなどは、一度も見た記憶はありません。

 あの当時の海の…海岸線の続く海辺・岸辺の自然浄化能力の凄さを、今更の様に思いだし見つめ直し、そして考え込んでしまいます。写真:萬安港(天保六年)立て札:旧郡中港

 旧い時代…と言っても高々半世紀前の現実です。
そんな時代なのに、なお生ゴミや動物汚物の処理・再利用を実行に移し、生活排水の自家浄化処理など、孤軍奮闘ではなく孤軍悠々と実行している人達もいました。

 「ひと」の文化性や近代性の本当の姿を見失わない為にも、知識とは一線を画す、受け継がれ伝えてきた「ひと」の智慧の蓄積を、更めて考え直してみたい!

自分なりに考えて納得し、黙って実現・実行に移した「ひと」の生活観、ふる里先人に学ぶべき事柄は余りにも多いようです。


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