扶桑木と私 私の初めての扶桑木との対面は、小学校低学年の頃当時中学生だった兄に見せられた化石木だった気がします。兄は長さ10センチ足らずの黒っぽい艶の炭みたいな欠片を見せながら、大昔の巨木が埋もれて化石になったものだと、少し得意気に話してくれました。
「森の海岸へ行って、気ーつけて探しとーみ、見つかるから…
「もっと大きいのも在るかもな…
「この辺の海の底では、大きな木の切り株の跡みたいなの、潜水夫が見つけた
云うとったしなー…
「海が荒れた後で森の濱へ行っとーみ、えーのがみつかるきん!…
兄が見せてくれた黒艶っぽい化石木は、間違いなく扶桑木・メタセコイヤ化石だったと思います。
三十年近く前、私が現住地に移って間なしの頃ですが、近くの苗木屋で1メートル足らずのメタセコイヤの苗木を見つけ庭植えしました。木の成長振りは驚くほどでしたが、ご近所の方から
「そのまま植えておいたら、根が張りすぎて屋敷が傾くそうですよ!」 とのご注意…
驚いて知り合いの植木屋さんに引き取ってもらいました。その際試みに挿し木した二本が再び成木になり、少し慌て気味に近くの公園に無断移植して難?を逃れました。
あれから二十数年…かのメタセコイヤは公園一番の高木に成長し、三角錐様の美しい枝態を四季の大空向けて伸ばし続けています。
小枝から育てた昭和〜平成のメタセコイヤを、外出の度に立ち止まり見上げて、時に感慨に浸る事もあります。
ホームページを立ち上げようと思いついた時、タイトルは森海岸の化石木・扶桑木・メタセコイヤを措いてないわな!…そう決めました。
それも、メタセコイヤではなく扶桑木でなければと!
この感慨!…たまたま扶桑木の里に生を受けた自分が、太古から延々受け継ぎ続けて来たDNAの仕業…に違いあるまいなど、一人合点していると興味は尽きない。
昭和三十年代初期の小・中学校教育は、市町村教育委員会の下で、地域密着型の教科も重視され、希望と活気に溢れた授業が、自由闊達に行われていた時代でした。
暫くは当時の先生と生徒に還って、扶桑木の校外学習に出掛ける事にしましょう。
扶桑木の海辺 (校外学習)
私たちはいつの間にか森の部落を通って海岸に出ました。三百メートルぐらい行くと、山がくずれ、松や雑木が、海岸に倒れておりました。山ぎわには、海そうが、打ち上げられています。ところによっては、満潮には通れない所もありました。
私たちは、先生の注意を守って、はん別で化石集めをしました。海の中には、かたい石炭のような木が、層になって、ほうぼうにあり、海中深く続いています。海岸には、土のかたまりが、たくさんころがっていて、それを割ると、木の実のようなものが出て来ました。
くずれた山からは、岩石のぼろぼろの中から、いろいろな木の葉のようなものが黒ずんで、美しい化石になっておりました。理科教室で見た化石と違って、岩石がぼろぼろになっているのがふしぎでした。かしの葉のようなもの、やなぎ、かえでなどによく似た葉の化石が多いようでした。
私たちは、先生を中心に、砂浜に集まってつぎのようなことを話し合いました。
先生 「今日の見学で、わからなかったことを話し合いたいと思います。」
小西 「海の底から、木が出てくるのがおかしいのですが、だれか教えてください。」
宮崎 「ぼくは、山くずれで、埋まった木が波にさらわれて、出てくるのだと思います。」
寺本 「そうでしょうか、そうだったら、あんなに、とりにくいのが、おかしいと思うのです。」
宮崎 「ぼくは、あの海岸の松などがたおれかかっているのを見て、きっとそうだと思った
のですが。」
酒井 「宮崎君のように考えても、あのくずれかかった、山の上からも、木の葉の化石が
出るのだから、あの山がくずれて、埋まったとは思えません。」
先生 「そうですね。山が波にくずされて、木が埋まったと、かんたんに考えては
いけません。大むかし、土地の形が変わるような、時代がありました。
平らな所が山になったり、山が平らになったり、海が陸になったり、陸が海に
なっりしたことがあるのです。このような変わり方を変動といいます。」
西田 「先生ここもその変動で変わったのですか。」
先生 「そうです。」
山西 「何年位前のことですか。」
先生 「大体百万年位前ですよ。」
寺尾 「どうしてそれがわかるのですか。」
先生 「よい質問ですね。さっき、山本君が、これをさい集したでしょう。これはたいてい、
『おおばらもみの実』だと思うのですが、松山の八木先生や、伊予市の日山先生
などが、ずっと前から『扶桑木の研究』をしておりました。
すると、『メタセコイヤの実』が出てきたのです。
これは学者の研究で百万年前には、日本のほうぼうに茂っていた植物である
ことがわかっておりますので、ここの扶桑木が百万年前のものであることが
わかったのです。
この写真を見てください。」
山下 「百万年前に、土地の変動がおこって、『おおばらもみ』や『メタセコイヤ』
の大木が埋まったのですか。」
先生 「その通りです。」
寺尾 「すると百万年も前の歴史を見せてくれるのが、かせきですか。」
先生 「そうです、そうです。」
川上 「そのころ人間はいたのですか。」
先生 「そのころ人間はいなかったのです。人間がすむようになったのは、一万年位前
だと思います。」
山本 「大むかし、森の大木を渡って、九州へ行ったという話は、うそですか。」
みんな 「うそでしょう。」
先生 「そんなことはここでは考えられませんね」
先生 『メタセコイヤ』は大木にはなりやすいのですが、今では、中国とアメリカに自然に
はえているだけです。日本にあるのは、アメリカから、とりよせたものです。」
酒井 「さっき、先生は、海が陸になったり、陸が海になったりした、
とおっしやったのですが、ここはむかし陸だったのですか。」
先生 「はいはい、陸もあったり、沼か湖もあったと思います。」
寺本 「どうしてわかるんですか。」
先生 「八木先生と日山先生のお話をしたでしょう。その二人の先生方が、さい集を続けて
おりましたところ、昭和三十年に『しじみ』『たにし』『かわしんじゅがい』『どぶがい』
などの貝の化石を、ここで発見しました。」
作間 「先生『しじみ』や『たにし』はま水の動物でしょう。」
先生 「そうです。これで何かわかりますか。」
寺尾 「はい。わかりました。『たにし』や『どぶがい』などがここから出れば、
大むかしは沼地か湖だったのでしょう。」
先生 「そうです。それからね。この沖の方で、りょうしがぞうのきばを網でとったことも
あるのです。それで大むかしは、このあたりに、ぞうが散歩していたこともあるのです。」
先生 「ここは、百万年の昔の研究が出来る大切な所ですから、県で天然記念物に
決めております。
みんなでこの地を大切に守りましょう。
私達は化石を手に、喜びいさんで、海岸を引返しました。
楽しい校外学習:(伊予市教育研究部編、昭和32年版)より引用
この村(森村)に、神代よりの大木有りて栄えること言うばかりなし。枝葉はさぞかし高き事、富士山よりも高く、豊後地に朝日の照る事遅く、夜明けること遅きがごとし、来て願により伐る事をゆるす。大勢来りて数年に是を伐り、海の方へかやりて、則ちその木を伝うて豊後に帰る。
其の海中に沈み、今に其根有り、村山大谷と言う所大潰(おおつい)抜ければ、其所より出初め、諸人古事を賞美して之を取りてもてあそぶ。甚だ黒くきれいにしてこくたんのごとし、三四里を経て矢取川、三津浜にもこの根出ずるとなり楠なりと言い、又桂とも言う。世に号して神代木、又 扶桑木とも言う。奇代の珍物なり。
(大洲旧記による)
旧制愛媛県立松山中学校校歌
二柱神 いとなましし 二名の島の 伊予のくに
そびえて繁りぬ 扶桑の大樹 清くけだかき 我等の心
… … … … … … … … … …
林 古溪 作歌・作曲 (昭和6年2月11日 制定)
旧制愛媛県立松山中学校は、文化2年(1805)に創設された松山藩最初の藩校・興徳館から、三省館(文化6年・1809)・明教館(文政11年・1828)へと、藩学の流れを引き継ぐかたちで誕生しました。
夏目漱石の「坊ちゃん」や司馬遼太郎の「坂の上の雲」などで知られる名門校です。昭和初期に作られた校歌には、 扶桑の大樹 が歌詞に詠み込まれています。
なお、旧制松山中学から戦後に移行した松山東高等学校では、昭和28年2月に、洲之内 徹(昭和 5)作詩、近衛 秀麿 作曲の次の校歌が、新たに制定されました。
眉きよらかに頬はあつく いのち また燃えたり
かかる日のかかる朝なり 青雲の思い 流れやまず
流れやまず 茜明けゆく 空のはたて
… … … … … … … … … …