京都には、五つの花街が有ります。私共、宮川町お茶屋組合は京都市東山区に有り
東山区には宮川町を含め三つの花街(祇園甲部、祇園東)が有ます。

町並み形成の沿革

十六世紀後半、豊臣秀吉が方広寺・伏見城を築いた事により、大和大路はにわかに
人の往来が増え、その街道沿いに町並みが出来ました。
現在の宮川町地区は、当時広大な鴨川の河原であったとみられ、町名の由来は「四
条河原祇園杜の前にあるにより宮川という」とも「宮河というには、鴨川四条より
南の別号なり」等と諸説が有る。四条通りの鴨川南は、ここで毎年、祇園杜のミコ
シ洗いが行われているので宮川と呼ばれ、この川筋に出来たのが宮川町である。
今日でも、「宮川筋○丁目」と呼ばれているのは、河原に発展した「筋・通路」で
あったためである。寛文六年に宮川町通り開通し、寛文十年に鴨川護岸の石積みが
完成し急速に宮川町の町並みが整い、当時の歌舞伎の流行とあいまって、茶屋町と
して発展していった。宮川町に水茶屋が建ち、渡世を許されたのは寛延四年の事で
あった。当時、数多く立ち並んでいた芝居小屋が、度重なる火災により焼失したの
が原因であったといわれる。

宮川町と歌舞伎の歴史

歌舞伎踊りは、天正三年に出雲の阿国が織田信長に許しを受け、北野の杜で演じた
のが始まりと云われている。後の慶長八年頃、阿国の娘二代目阿国が宮川河原で、
「ややこ踊り」と云われる歌舞伎を興業して人気を呼び、様々な見世物小屋が建ち
始め評判を呼び一大歓楽場と成りました。その後、若衆歌舞伎が始まり、それに出
演する若衆の宿が宮川町に軒を並べました。男だけの芝居であった為、当然女形を
演じる若衆が必要で、当時の美少年が選ばれました。
これらの人々が舞台に精励する事と成り、現在の女形役者へと発展したのです。
今日の歌舞伎役者に、それぞれ屋号が有りますが、それは当時若衆達が出入りをし
ていた、宮川町の宿の屋号であったと云われています。
船橋聖一 著「聖一風流抄」によれば「宮川町が歌舞伎の名優を数多くうみ育てた
原点である」と記しています。

参考文献 渡会恵介/著 「京の花街の歴史」
「花街志」

宮川町の紋章について

宮川町のマーク「三つ輪」 三つ輪の紋章と言います。
五花街には、それぞれ紋章が有り宮川町では、この「三つ輪」の紋章を使用してお
ります。
三つ輪の由来は、芸妓育成機関の女紅場(にょこうば)が府立となったおり、社寺
・町家・花街の三者が合流して学校施設とした記念とされています。
明治中期から使用されており、一説には、宮川の故事から三体の神輿を象徴したと
も、宮川の「みや」を語呂の合う三つ輪として考案されたとも言われています。

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