会報No.46表紙

会報No.46
−まなづる−

目次

  1. 第70回例会報告−読書会「セロ弾きのゴーシュ」
    南 義一
  2. 第71回例会報告−
    読書会「まなづるとダァリア」「ひのきとひなげし」

    川崎 貴
  3. 第72回例会報告−読書会「二十六夜」
    南 義一
  4. 第73回例会報告−読書会「税務署長の冒険」
    法橋 史彦
  5. 極東ビジテリアン大祭に参加して
    堀 蓮慈
  6. 編集後記

第70回例会報告「セロ弾きのゴーシュ」

 文学的哲学的にも論ずべきことの多い作品かもしれませんが、報告者にはベートーヴェンの田園交響曲の影が大きくて、音楽をほかにしては成りたちえないように思われます。間宮芳生が音楽を担当した高畑勲のアニメ「セロ弾きのゴーシュ」の印象が圧倒的であったからでしょうか。その中では「インドの虎狩り」も「愉快な馬車屋」も間宮芳生の作曲で具体的な形をとっています。ともかく賢治の音楽への傾倒が一番大きく表れている作品のように思えます。
 もう一つ、梅津時比古『〈セロ弾きのゴーシュ〉の音楽論』というおもしろい参考書があります。楽器、テクニックとメカニズム、音程の切り口から、作品の背景にある音楽の問題について、幅広く奥深い議論がなされています。「セロ弾きのゴーシュ」を理解する上だけでなく、賢治の芸術全般や音楽そのものの理解にも有益だと思います。商業主義と結合した近代主義による合理性の追求が音楽を味気ないものにしたということ、非合理性からの近代主義への反抗の一翼を賢治が担っていたということ、このように著者は言っています(音楽の近代主義を超えてというのが副題)。ゴーシュがフランス語の左や不器用ではなく、高地ドイツ語のカッコウが語源だというのもこの著者の主張です。

第71回例会報告「まなづるとダァリア」「ひのきとひなげし」

 これら2つの作品は花鳥童話と賢治自ら呼んだ作品群に類し、同じようなテーマを扱っているようです。つまり、「足るを知る心」の欠如、「飽くなき欲望」への戒めといったところでしょうか。読書会ではどちらの作品も、異稿も併せて読み比べてみました。
 芸術の衝動は美への希求でもあり、宗教とは対立しかねない性質があります。『ひのきとひなげし』の初期形での、ひのきの最後の言葉の中の「あゝ、すべてうつくしいということは善逝に至り善逝からだけ来ます。善逝に叶い善逝に至るについて美しさは起るのです」という一文にこそ賢治の言わんとする主題があるのでしょうが、死の一月ほど前に脱稿したと推測される最終稿においてその辺りを明言しないことによって説教臭さを取り除いたのみならず、最後の静寂の場面の余韻に深みが増し、美や偉大さへの欲望の愚かさを、賢治がすっかり否定しているのではないことを密かに語っているようにさえ感じられます。
 『まなづるとダァリア』での赤いダァリアは、自らの光で「そこらが赤く燃えるようになる」ことを望み、「花の女王」と呼ばれるようにならないと気が済まない。ひなげしたちも「スター」になることを夢見、中でも一層立派なテクラでさえ一時的な美しさのために悪魔にすら騙されても構わないと思う。その先駆形『連れて行かれたダァリア』では、赤いダリアは鴇の魔法によって成長を早めてしまったかのようで死滅への転落はなんだか怖いくらいです。
 業を背負ったのはどちらの作品でも「赤い」花たちです。美しい花の中でも一際艶やかな「赤」という色に賢治は情念や欲望を感じていたのでしょうか。そういえばアンデルセンの『赤いくつ』を少し連想してしまいました。アンデルセンといえば、『ソバ』という作品などは『ひのきとひなげし』や『まなづるとダァリア』にテーマが通じています。『ソバ』において、「ひのき」や「まなづる」の役を担っているのは「やなぎの木」です。「ひのき」「まなづる」「やなぎの木」―共通項が見出せそうです。また、このような対比は童話によくある構図のようです。
 それにしても面白いのは『ひのきとひなげし』の医者に化けた悪魔の呪文です。「なすすべしらに」というのは「なすすべもなく」という意味でしょうか。また、初期形の「はらぎゃてい」の代わりに「セントジョバンニ様」を持って来たり、お金の単位が「ビル」、「スター」「オールスターキャスト」などカタカナを多用することによってすっかり洋風仕立てに工夫し、ハイカラな感じが出ています。
 また、『まなづるとダァリア』においては、赤いダリアと対照的に配置された白いダリアが印象的です。毎晩赤いダリアから話し掛けられてもまなづるの眼には、暗闇にただつつましくわらっているだけの白いダリアしか見えていないようかのようです。しかし美しさを誇示しなくても果てしない欲望に囚われることがなくても、白いダリアとて早晩朽ちるはずですが、賢治はその沈黙する白いダリアのつつましさと白さに永遠性をこめているのでしょうか。

第72回例会報告「二十六夜」

 お経や坊さんのお説教のパロディーがおもしろい作品ですが、元になったお経については仏教の専門家堀さんにも心当たりがないということでした。法華経法師品を指摘する本もありますが、内容は関係ないようです。梟や鳶の悪業の恐ろしさを説きながら、その救済にまで話がいかないのもおかしなことです。結末は弥陀来迎のようなシーンになって、賢治の中の浄土信仰が意外に強いことを偲ばせます。信仰というよりも幼時の記憶かもしれませんが。そういう仏教的な教訓よりも、情景や心理描写の面白さのほうがこの作品の身上ではないかという気がします。フクロウたちがお説教を聴いているときにいつもの汽車の音が聞こえ、泣きながらもその赤く明るいならんだ窓のことを考えるというのなど、まことに賢治らしい趣の表れているところだと思います。

第73回例会報告「税務署長の冒険」

 賢治童話の中で社会風刺的で人間風刺的ジャンルを扱ったものは少ないが、たまには宗教臭くなく、現実的三面記事的なものを扱ったもの―ただし、賢治の品性、風格もその中にちゃんと組み込まれている―で、表題童話はもってこいの私の宝だ。
 村民と徴税権力機構の末端に位置する人(税務署長)との相互の心のさぐりあいとごまかしあいのかけひき、葛藤の妙を読んでいて大変に面白い。
  それに対して地方共同体のこの村では一体となって、村中組織的に重増税を逃れるために、会社組織の工場を建てて違法承知で村の指導者が営業をしていた。しかし、権力はそう甘くはない。いずれ摘発されるのも時間の問題だ。この違法密造会社に、賢治は理想卿イーハトーブの名をつけている。同情があるのだろうか。親近性あるのだろうか。署長の権力遂行にクソまじめな面と同様、賢治はその両者に慈悲のまなざしをもっているように思う。これは、最終の
「あゝもうあの日から四日たっているなあ。ちょっとの間に木の芽が大きくなった。」…春らしいしめった白い雲が丘の山からぼおっと出てくろもじのにおいが風にふうっと漂って来た。「あゝいい匂だな。」署長が云った。「いゝ匂ですな。」名誉村長が云った。
 に、すべて総括されて表現されていると見ていいのではないか。善人猶以て往生を遂ぐいわんや悪人をや―署長も村長も時代の中での凡夫であり、からくり人形である。その凡夫、人形の奥に何かの真実を気づくことができれば幸いである。

 @濁蜜防止講演会
 童話冒頭原稿の欠落部分は、想像すると面白い。これは『ビヂテリアン大祭』でも同じことがいえるが、酒と人間文化、人間関係と酒、酒そのもののもつ効用と弊害、仏教の戒律で禁酒の問題等、酒と人をめぐる歴史と文化、酒ぎらいにはわからない酒のもつ麻薬性、共同体や神事と酒、宴座や結婚式の三々九度、生活と密着した酒と人間とのかかわり、署長は原稿が欠落している部分の講演の中で、そのいずれかをしゃべっていたにちがいない。村民の反応を見ながら、さぐりを入れて話す署長、的がはずれたり、当たったと見えて大外れになったり。浮世とはこんなものかも。

 A署長歓迎会
 校長や村長が議員の家で署長講演を酒の肴にして、丁々発止のさぐりあいをする場面が生き生きと書かれている。さぐりを入れて心証をえようとする署長と村長とのかけひき。疑いは深まるが結局心証だけで、物証をえるために退出する署長。

 B署長策戦とC探偵
 部下2人の探索失敗でついに署長自らが「変装」して探偵にのりだすのがこの童話のヤマ場である。部下も変装してスパイ活動したが、サラリーマン根性ときまじめ上司の署長では、やはり格段の差がある。その忍耐力、根気、洞察力、判断力…権力の手先でなく、民衆の指導者に署長が「変装」したらどうだろうか。

 D署長のかん禁(解放)
 一味(権力=署長、民衆=村民)平等の世界でフィナーレ。

 

 私がこの作品に興味をもったのは、大学2年生当時、京都の出町柳で飲んだドブロクの味が原点にあった。運動で疲れて先輩の下宿に帰る途中、毎日のようにドブロクをあおって青臭い議論をしたものだ。うす白いトロッとした酒は安かった。少し酸味があって、飲む程に頭が軽くしびれて、終いにガンガン頭痛がしてくる。その多感な青い時代の記憶が、この童話の酒になつかしさと母親のような愛着をもたらすのかも知れない。賢治は性に対しても酒に対しても禁欲的で興味がありながら警戒的であったのかも知れないが、人はそんなに単純なものでないと思う。善と悪、美と醜、煩悩と正覚等、二者対立的に割り切れるものではないと思う。
 修羅と菩薩との葛藤―修羅故に菩提を証することが、他力としてもよおされて正覚を生じさすように、苦悩が酒によって昇華され、浄楽の境地に達することがあっても良いのではないか。
 署長は冒頭の講演で、濁蜜の隠蔽方法について村民に挑発してしゃべっても、又、合法的な酒づくりのメリットを品を変えて提案しても、村民の反応は冷静そのもの。内部情報提供者がいるといって、一時自信をもったものの、自分の次の発言で大失笑を買う。宗教家、政治家や「マルサの女」に出てくる現代にも通じる心理描写は時代の差を感じさせない。
  最後に、この童話に出てくる「…属」という語や「生藩」という名前について、読書会の長老である南さんから、その歴史的な詳しい説明を受けた。現代の子供が童話を読んで、この様なことばで意欲や意味がわからなくなって興味を失わないために、現代の死語や賢治独特のことばの注釈が必要ではないでしょうか。すでにその意味で古典になりつつある側面も読書会で感じました。明治後期から昭和初期を生きてこられた古老の知識は大切にしなければと思います。

極東ビジテリアン大祭に参加して

 賢治学会主催のセミナー、極東ビヂテリアン大祭に参加した。最近あの作品を読んだばっかりでもあり、たまたま花巻に行きたいお寺もあったんで、何か「呼ばれた」いう気がしたんよな。ぼくは知らんかったけど、賢治に「一九三一年度極東ビヂテリアン大会」いう未完の作品があって、その舞台が花巻温泉なんやそうな。
 3月25日午後1時、新花巻駅で花巻温泉行きの無料送迎バスに乗った。30人ばかり乗ってたかな。バスの中から雪をかぶった岩手山が見えて、ここから見えるんは珍しい、て地元の人が言うてた。会場のホテルに着くと、もうかなりの人が集まってた(参加者は130人ぐらいとか)。けど、雑穀メニュー交流会のコーディネーター中野由貴さん以外知った顔はおらん。やっぱりはるばる関西から来てるんは少数派なんやろな。
 1日目のセミナーは温泉話。賢治の作品に温泉が登場するんは地元やから当然として、温泉が賢治の内面にどう関係したか、は正直言うてピンと来んかった。ただ、時代背景としてリゾート開発が始まった頃で、宝塚がその先駆やった、いうんは「へー」と思わせるもんがあったな。シンポジウムの後、閉鎖された古い立派な旅館「松雲閣」とローズガーデン、それに釜淵の滝を見学した。帰ったらいよいよメイン・イヴェント、雑穀メニューの夕食や。
 ヒエ・アワ・キビ、それに初めて聞くアマランサスなんちゅうのも含めて、20種類にも及ぶ料理とデザートが用意されてて、これがうまい!そらまあ、各ホテルのシェフが腕をふるうたんやから。岩手県では昔から雑穀を栽培してたけど、戦後急激に生産が落ち込んだ。それが最近の健康ブームで見直されつつある、いうんやけど、それでもまだ一般的やないわな。思うに、米と肉食がこれだけ普及したということは、やっぱり手軽でうまいからやろう。雑穀も、工夫すればうまい。そらそうや。雑穀自体にはそれほど味がないから、調味料の勝負になるわな。となると、何もなしでうまい米には勝てへんやろ。もっと生産量が増えて、米より安い、となったら別やけど。そやから雑穀を普及させようと思たら、レトルトとか冷凍食品とかにして、不精な都会人にも受けるようにするんが早道やろう。スローフードの考え方からしたら邪道やけどな。 
 交流会では、「雑穀」いう呼び方についての議論があった。「雑」いうんは蔑称や、いう人に対し、幅広く何でも含むんやからええやないか、いう反論があり、他に適当な呼び方もないんで当面は雑穀で、いうとこに落ち着いた。まあ商業的にはカタカナの方が有利で、たとえばalternative grain略してオルグレ、なんちゅうのも思いついたけど、別に雑でええやん、とぼくは思う。純(ピュア)いうんは怖いんや。純粋ならざる人間が純粋を目指すとロクなことがない、いうんは真宗的発想かな。ほんでもある人にいわせたら、ピューリタニズムいうんは民主主義の反対概念やそうやから。
 花巻温泉のホテルは1泊8000円もする(6000円のとこもあったらしいけど、そんなん教えてくれへんし)んで、歩いて20分ほどの台温泉に泊った。そこなら朝食付き5000円ほどや。夕食を腹一杯食べたのに、雑穀は消化がええせいか、すぐにおなかがすいて、朝も一杯食べた。さて2日目、いよいよ雑穀の話や。
 4人のパネラーの話はそれぞれに面白かった。岩手はもともと米の生産に向かんで、それが岩手の貧しさの元凶やったわけやが、それも米文化に組み込まれたからであってな。本来の土着の食文化には豊かなもんがあったようや。ただ、雑穀は栽培しやすいかわりに反収は米の半分ほどしかない。骨の折れない農業はええんやけど、現実には価格が問題になるやろなあ。たとえば神戸ではなんぼぐらいで売ってんねやろ。スーパーとかにもあるんかいなあ、いう程度の認識がぼくの現状や。
 残念やったんは、討論の時間がほとんどなかったこと。あれやったら、前日の温泉話を削ってでも時間を取ってほしかった。またセミナーとかやるとしたら、もっと時間に余裕を持って、参加者の発言を大事にするべきや。パネラーの話は、情報としてはなんぼでも入手できる時代やから、「ビヂテリアン大祭」みたいなやりとりこそが値打ちなんよ。
 1時にバスに乗って新花巻駅へ。途中で3人降りはったからアレッと思たけど、童話の里(イーハトーブ館と賢治記念館)へ行くにはそこで降りた方が便利やったんやな。こっちは知らんもんやから、駅からバスで二停留所乗ってイーハトーブ館へ。そこから急な斜面を登って記念館へ行く途中で、さっきの三人に会うた。中の一人は昨夜の交流会でオカリナを吹いた女性で、自然の中で聞くオカリナの音色は乙なもんやった。記念館から四時の循環バス(100円!)で市内へ行って、知り合いのお寺を訪問。夜には駅近くの蛍光塗料による壁画(昼間見ても何もわからん)も見て、まあ主なところは見たかな、いう感じやけど、欲を言うたら、賢治の足跡をたどって山歩きとかもしてみたいもんや。8月には国際大会もあるそうやけど、僕はおそらく日本におらへんやろなあ。
 ともあれ、そこここに雪が残った、春まだ浅い東北へ行くんは、これが最初で最後かもしれん。東北弁のアクセントに親しみを感じながら(あれはかなりの浸透力がある)、青春18切符(東京まで10時間)で花巻を後にしただべさ。

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 今年3月25・26日に開催されたイーハトーブセンター春季セミナーに参加された折のレポートです。会報発行の都合により発表が遅くなってしまい申し訳ありません。

編集後記

  • 猛暑の8月も去り、残暑の中にも朝夕にすっかり秋の訪れを感じるこの頃です。夏の疲れで体調を崩すのが今の時期ですが、皆様健やかにお過ごしでしょうか?
  • 今回のタイトルは「まなづるとダァリア」の「まなづる」です。賢治の作品の中でまなづるが登場する作品は他にちょっと思い出せないのですが、先駆形において「鴇」だったものを、どうして「まなづる」に置き換えたのか疑問に感じたので、タイトルにしてしまいました。図鑑を見ると、眼の周りの赤いこと、嘴の長いことは似ています。鴇は全身白く、まなづるは大部分が灰色です。また佇む風情はまなづるの方がスマートで風格があります。そもそもまなづるとは冬季に飛来する冬鳥で、夏から初秋のダリアの開花期に出会えるのかどうか。中米・メキシコが原産のダリアと、生息地が重なる地域があるのかどうか。ダリアが枯れる頃に飛来するという情況設定でしょうか。ならばダリアの最盛期を見ていないまなづるには、鴇のような魔法を使うことはできないでしょう。赤いダリアの姿態の感想を述べるにとどまり、ただ見守るだけです。「ひのきとひなげし」のひのきも悪魔を追い払ったものの特別のちからは何もありません。見守る存在として、まなづるの風格の方が相応しかったのでしょうか。