会報No.39表紙

会報No.39
−氷ひばり−

目次

  1. 第49・50回例会報告−
    読書会「春と修羅」(第一集)−第6・7回目

    川崎 貴
  2. 「志摩欣哉の賢治万華鏡」展を見て
    妹尾 良子
  3. 編集後記

第49・50回例会報告

 12月14日と2月29日に行われた第49回・50回例会の内容を、まとめて報告させていただきます。2回合わせて『春と修羅(第一集)』「真空媒溶」から「小岩井農場パート三」までを読みました。

−真空溶媒−
 「真空溶媒」という言葉は、何も無い状態の零下2000度の真空と物を溶かす溶媒という言葉と組み合わせた賢治による合成語。
 詩は、まだ太陽の昇らない夜明け前、朝陽の予兆に地平線が定まらない黎明期の時間から始まっています。「硝子のわかもの」とは「つらら」と「銀杏の葉」の2通りの解釈が提案されました。「つらら」であるとすれば、「そらをすきとほして」という表現や、真冬には柱状に形成されるため、この詩の作成時期である5月には「三角にかはって」と表現することが納得できます。また、「銀杏の葉」とする解釈は、「三角」がそのまま銀杏の葉の形で、萌え立つ五月の若葉の健康的な初々しさを「硝子のわかもの」と表現した、という意見です。どちらも理が適っており結論は出ませんでした。
 「海蒼」とは深い海の青色。「海鼠の匂」は、早朝の匂いがなまこの匂いに似ているということのようです。
 「昧爽」とは夜明けのこと。「氷ひばり」はその鳴き声が透き通っているところから、賢治がつけた早春のひばりの総称。従って次行の「きれいななみ」とは、ひばりの声波のことです。「地平線はしきりにゆすれ」という行から、詩は物語り風に展開します。登場人物は「牧師(おれ)」「赤鼻の紳士」「保安掛り」です。「ゾンネンタール」とは、ドイツの俳優、あるいは近所の資産家、との説がありますが、賢治は単に語呂が面白くて会話中にその名を登場させたとの説が妥当のようです。「花紺青」は、花と見紛うばかりに美しい紫がかった青い色。欲に目がくらんだのか、ゾンネンタールは金色の苹果の皮を剥かずに食べたために亡くなったらしい。そのゾンネンタールに「王水をのませたらよかつたでせう」と牧師が言っているのは、「王水」が金属を溶かす濃硝酸と濃塩酸の混合液だからです。賢治独特のブラックユーモアが差し挟まれていてとても面白い会話になっています。やがて犬が逃げ、赤鼻の紳士はそれを追っかけて行きます。鱗木とは、バラ科の木で高さ五メートルほどの常緑樹。東の空は琥珀色に変わり、いつの間にか時刻は昼へと移行して、朝の清澄さに対して、「荒んだひるま」と形容されています。「画かきどものすさまじい幽霊」などという、ただ事ならぬ表現が出てきて驚かされますが、鮮やかで強烈な色彩が目まぐるしく繰り広げられる状況が「画かきどものすさまじい幽霊」の為せる技と言いたいのでしょうか、とにかくこのとげとげしさに牧師は気分を悪くしたようです。3番目の登場人物である「保安掛り」に声をかけられます。「苦味丁幾」とは健胃薬で、「ほう酸」はうがいや消毒薬です。駝鳥の卵が硫化水素の匂いがするため、黄色→砂漠→駝鳥の卵→硫化水素と連想して、更に硫化水素と無水亜硫酸を加えて硫黄華(硫黄の粉末)ができる(このような化学的知識は全て南さんが解説してくれるので、解釈の一助となり、とても参考になります)…薄れていく意識の中で、賢治らしく化学的な連想が繰り広げられて行きます。
 保安掛りは実は追い剥ぎで、「テナルディ軍曹」とは「レ・ミゼラブル」に出てくる強盗。意識の戻った牧師が彼をやり込めると、一かけの泥炭になってしまいますが、この辺りは「山男の四月」の中でシナ人が「六神丸」に変わってしまうところと似通っています。しかし保安掛りの背嚢の中味が貧弱だったため牧師は同情さえしています。「液体のような空気」とは濃度の濃い空気のことで、そのためにほろ酔い気分にさえなっています。「そらの澄明……ことにもしろいマヂエラン星雲」の部分は、実際宇宙に行くと、このように見えるらしいのですが、当時賢治がこのように正確に宇宙を描写できたのには驚きます。清六氏の言うように、賢治は本当に見たのでしょうか?書物からの知識と鋭い観察眼、そして豊かな想像力とが相乗して、賢治には確かに見えたのかもしれないと、皆で感嘆しました。
 「月光液」とは葉で生成されたでんぷんを運ぶ月光色の樹液のことだそうです。辺りは色とりどりの幻に色どられますが、やがて溶けて消えてしまいます。しかし「質量不変の定律」だから実際にはなくなっているのではなく、なくなったように感じるのは真空溶媒の仕業であるようです。やがて物語は終わり、銀杏並樹に立ち戻ったとき、「硝子のわかもの」が「すつかり三角になって」いるのは、時間の経過によりつららが融けて細長い二等辺三角形からほぼ正三角形に変形したということなのか、それとも早朝には縮まっていた銀杏の葉が日中にかかっていくとともに広がり、本来の三角形になったということなのでしょうか。
それにしても、真空のトリックであるこの不可思議で奇妙な感覚を味わってみたいものです。

−蠕虫舞手−
 「アンネリダタンツェーリン」―独語。「タンツェーリン」は「踊り子」という意味で女性詞だそうです。賢治は、おそらく「ぼうふら」を指しているのでしょうが、蠕虫とは「ぼうふら」に限らず蠕形動物のことで、体が左右相称で前後・背腹の区別があり扁平または菱形の無脊椎動物のことだそうです。「水ゾル」「寒天の液」などと表現しているので、ドロッとした膠質液体の中で蠕虫がまるで踊るようにくねくね動いている様を、賢治は近くで観察しているのでしょう。液体の溜まっているのは手水鉢で、賢治は縁先の踏み石に腰掛けてそれを眺めている光景が想像できるという意見がありました。「ナチラナトラ」とは地名でしょうか?あるいは「ナチュラル」=「自然の」といった意味でしょうか。( )の中のことばはひいさま(ぼうふら)の侍従の言葉のようにも考えられます。姿の見えない侍従は、あるいは賢治自身が演じているのかもしれません。「黄いろなかげとおふたりで」―ここで、影を黄色と言えるのは確かな観察眼の証拠です。
 ぼうふらは肺呼吸だそうで、そのため長くは水中に潜っていることはできません。それで、「まもなく浮いておいででせう」と書いています。それにしても「とがったふたつの耳をもち/燐光珊瑚の環節に正しく飾る真珠のぼたん」と書いているところなど、小さなぼうふらを実によく観察したものです。しかし「真珠のぼたん」に見えた泡が実は「まがひもの」であり「ガラスどころか空気だま」に過ぎないと言い換える辺りも賢治らしい、という感想がありました。「鞏膜」は粘性、膠状の膜。つまり「水晶体や鞏膜のオペラグラス」とは、このぼうふらの棲息する水溶液のことでしょう。
 やがて「日が雲に入った」ために水の中のぼうふらの様子が見え難くなったのか、ぼうふらの動きが鈍くなったのか、「溶けてしまったのやら」「みんなはじめからおぼろに青い夢だやら」と書いています。
 賢治は水の中に特別な興味があったのかもしれません。畑山博氏も「宮沢賢治〈宇宙羊水への旅〉」で「水」をキーワードに賢治の世界を紐解いています。友田さんは、一昨年花巻を訪れたとき水底のような印象を覚えたそうです。

−小岩井農場 パート一−
 何といっても冒頭の2行が素晴らしい。南さんの知り合いの詩人の方が、南さんのお薦めで「春と修羅」を読み、この2行は「シュールリアリズムである」と感嘆されたそうです。
 状況描写が比較的写実的で解り易い出だしになっていますが、真っ先に「砂糖水のなかの…待合室」という表現に引っかかりました。砂糖水は屈折率が高く、より一層くっきり見えるために引用したのではないか、という意見がありました。   
 「じぶんといふ小さな荷物を載っけるといふ気軽なふうで」という一節はいかにもそれらしく面白い描写です。今から歩いて行く予定となっているくらかけ山の下あたりは、賢治のお気に入りの場所であるらしい。「黒ぶどう酒のコップ」とはおきなぐさのことでしょう。「款待」は「歓待」と同義語。馬車に乗ろうか歩こうか、と迷っている自分の心理状態を「あいまいな思惟の螢光」と言っています。「螢光」とは蛍光を発する塗料を塗った板―蛍光板―のことだと思われます。「青森挽歌」に「月あかりはしみわたり/それはあやしい螢光板になって」という一節がありますが、蛍光板の光は、当時あやしげだったようです。賢治はどうやらいつもこんな風に優柔不断であるようです。しかもそれはあやしい光を放っているらしい。やがて迷っている内に状況の方が変化して選択の余地の無くなることを「じつにいいことだ」と言っていますが、誰でも1度や2度こういう気持ちを抱いた経験がありそうで苦笑いしてしまいます。「歩測」とは一定の歩幅で歩き、その歩数で距離を測る方法。「犁(プラウ)」とはトラクターや牛に引かせて畑を耕す農具。「鶯もごろごろ鳴いている」とは不思議な表現で、「ごろごろ」とは鶯の鳴き声でしょうか、それとも「たくさん」というような意味なのでしょうか。「透明な群青のうぐいす」もよくわからないし、その次の( )の中の2行も不明です。当時賢治が独語の学習のために読んでいた本の中に「ハンス」が登場したのでしょうが、「ほんとうの鶯の方は…うぐいすでないよと云つた」というのは意味が解らないままでした。「鶯」と「うぐいす」は意図して使い分けているのだろうか、ということも疑問として残りました。
 「このひと」=並河さんに似た紳士のことを「青ぐろいふちのようなところへすましてこしかけている」と言い、その世間擦れしていることを蔑んでいます。農夫らしき2人の人が「赤い」のは農作業のためにもともと顔が赤い上に、「雲に濾された日光のために」一層赤く見えるのでしょう。5月とはいえ東北での早春の色は「あおじろ」く、冬から春への時間の流れの中でその変幻を見せる景色を、賢治は「標本」と読んでいます。まるで標本のようにきれいに収められ、提示された景色の数々、賢治の目はカメラマンの視点にも通じています。そして冬に訪れたときの張り詰めた空気が明る過ぎて、空気の緩んだ春の方がむしろ「陰鬱」で「ふるびて見える」と言っています。

−パート二−
 いきなりこんな場所で「たむぼりん」が鳴るのは幻聴でしょうか?しかし手入れでは「たむぼりん」の前に「へたな」という言葉が加えられているので、実際どこからか聞こえたのかもしれません。「すがれ」とは「すがれる(末枯れる)」のことで、草木の穂先が枯れること。「Brownian movement」(ブラウン運動)というのは、微粒子に液体又は気体の分子が各方向から無秩序に衝突することによって起こる不規則な運動で、イギリスの植物学者ブラウンが発見した現象です。ひばりのはねに「 」という字を用いることによって昆虫の羽根のような軽やかさを感じさせます。しかも「甲虫のように四まいある」といい、その動きの素早さ、軽やかさを強調しているようです。「向こうからはこっちのやつがひどく勇敢に見える」ということは、こちらから向こうのがやはり勇敢に見えるということが言いたいのでしょうか。後ろから歩いてくる男の視線が前を行く賢治にわかるということは、賢治は歩きながらときどき後ろを振り返ったりしているのでしょうか。冬に来たときも同じような場面があってそのとき道を聞かれ、「ぶっきら棒にああと言っただけ」だったことを、「かあいさうな気がした」と回想していますが、「ちやうどそれだけ」という言い方が面白い、と皆で笑いました。

−パート三−
 小岩井農場には敷地を囲む柵のような目に見える仕切はなく、どこからどこまでが小岩井農場なのかは判然としていませんが、近頃ではまきば園と称された辺りに柵が設けてあり、観光の中心となっているようです。雑誌に紹介された観光地図なども参照しながら、作品を読み進みました。
 「fluorescence」は「蛍光」の意。「好摩」は地名。盛岡より北で、岩手山の東方に位置する地方。「羽田県属」は花巻農学校を視察した郡視学官。鳥の種類にも詳しい賢治が、「たくさんの鳥」「鳥の小学校」等々と言っているのは、様々な種類が混在した鳥が夥しくいたのでしょうか。そのため鳴き声も混声となり、「ぎゆつくぎゆつく」と聞こえたのでしょうか。「Rondo Capriccioso」とは音楽における反復の一形式。「あるいはちゅういのりずむのため/両方ともだ とりのこゑ」―「両方ともだ」というのは鳥の鳴き声が低くなった理由が、うしろになったためともうひとつ理由があり、その「両方」という意味なのでしょうが、そのもうひとつの理由である「ちゅういのりずむ」というのは何のことなのでしょう?「テレピン油の蒸気圧」とは、荷馬車の荷台に積載された松の丸太の木々に陽が当たり、松ヤニのむせ返るような匂いが立ち上っている状態を表現しているのでしょう。「石竹いろの花のかけら」と書いているところから、桜の花は咲きかけか、咲き終わりか、どちらかです。「石竹いろ」は薄紅色。
 「ヘングスト」は種馬のこと。年老いた馬への愛情の籠もった呼びかけと、「けしきやみんなへんにうるんでいびつにみえる…」という洞察はまるで自分が馬であるかのように説得力があります。この最後の「…」が次行の冒頭に繋がっている意味は何なのでしょうか?「天狗巣病」は、菌類などの寄生によって植物の側芽が異常に発達して小枝が密生する現象です。「スヰツツル」とはスイスのことなので、「ラッパ」とは「スイスホルン」のことでしょうか。

「志摩欣哉の賢治万華鏡」展を見て

 このところ、宮沢賢治を題材にした絵画の作品展めぐりが続いている。昨年九月の戸田勝久展、12月の川崎さんと高槻さんの作品展、そして今回は、新神戸のギャラリー「ブーケドゥジョワ」へ。
 新聞記事で絵画展があることを知った友田さんのお誘いで1月28日の午後に行くことになった。行く前に、ちゃんと地図で確認して出かけたのだが、バスから降りて予想した方向にどんなに歩いていっても、目的地につかない。とうとうあきらめて友田さんにSOSの電話をした。方向はあっていたけれど、筋を一本間違えていたことが判明。車で迎えに来てくださった友田さんは「ずいぶん歩きましたね〜」と、あきれ顔。(ご迷惑をおかけしました)
 「賢治没後70年記念」と名うった絵画展「志摩欣哉の賢治万華鏡」。描いた志摩欣哉さんは、大阪生まれで、92年から関西を中心に個展を定期的に開き、93年からは「賢治の世界」を絵画にして発表している。日本画的な童画のような絵で、全体にやわらかく慈しむような味わいがある。特に、賢治作品のなかに登場する花をモチーフに取り上げており、会場には、たくさんの花の絵が並んでいた。
 絵には、賢治の文が添えられ、たくさんのしろつめくさの絵には「つめくさのはな咲く晩にポランのひろばのはなまつりポランのひろばのはなまつり(略)」と、独特の手書き文字が書かれていた。さっそく、印象的な絵が描かれた絵葉書を購入した。
 週末には、アイリッシュ・ハープ演奏つきの賢治童話の朗読が志摩さんによって行われるとあったが、すでに予定が入っていたため、聞きにいけなかったのが残念。志摩さんにお会いして、賢治の作品のどこに惹かれるのか、賢治作品の中の植物や花をモチーフに選ぶポイントなどをお聞きしたかった。
 絵画展を見終わってから、六甲の喫茶店で友田さんにコーヒーをごちそうになった。おいしかった〜。ごちそうさま。また、絵画展、さそってください。

編集後記

  • 昨年の忘年会の席。今やっている読書会のまとめとして、「春と修羅(第一集)」の読書の手引き書(神戸宮沢賢治の会版)を出したら、との提案がありました。「春と修羅」の全編のまとまった解説書というのは、あまり見たことがありません。熟読しているような人にはとても読んでもらえるような立派な物にはなりえませんが、初めて読む人、意味がよくわからないまま何となく読んでいる人への、不完全ながらも「このような読み方もあります」みたいな参考手引き書だったら提供できるかもしれないと考え、忘年会の参加者一同大賛成。それでは、来年の当会創設十周年を目標に取り組むこととなりました。何とか来年に間に合わせるため、三月からは毎月例会を行うことになった次第です。現在参加者は毎回ほぼ四、五人で、顔ぶれも決まっていますより多くの会員の意見や感想を盛り込むことが出来れば、と思います。この機会に最近参加されていない方々の参加をお待ちしています。たくさんの方にご協力をお願いできたら、と思っています。 
  • タイトルは「真空溶媒」の中から採りました。透明な鳴き声の早春のひばりに相応しい、美しい響きのある言葉です。 
  • 「宮沢賢治朗読物語」は、筆者の都合によりお休みさせていただきました。