10月24日に行われた第48回例会では、『春と修羅第一集』「春光呪詛」から「習作」までの7編の詩を鑑賞しました。
−春光呪詛−
「髪がくろくてながく/しんとくちをつぐむ」、「頬がうすあかく瞳の茶いろ」―賢治にとって特定の女性を指していると思われます。「恋と病熱」→「春と修羅」→「春光呪詛」の流れから、この頃賢治は相当胸を焦がすような恋をしていて、そいう自身の想いを禁欲的に懸命に否定しようとしている姿が見えるようです。「ただそれつきりのことだ」という行が2度出てくることからも、念押しして否定しなければならないほど、恋慕の情は募っていたのでしょう。「髪がくろくてながく/しんとくちをつぐむ」「頬がうすあかく瞳の茶いろ」という表現にエロチックな気配さえ感じるという感想もあり、否定してもしきれない恋情への煩悶がひしひしと伝わってくるようです。
「しんとくちをつぐむ」―「しんと」という特異な表現に女性のつつましさが感じられます。題は、後の手入れでは「春日呪詛」と改められています。呪うほどに春の美しさや麗しさ、明るさ、暖かさを嫌忌しなければならないのは、反面、春をこよなく愛していたからに違いありません。
−有明−
明け方の、刻々移りゆく薄明の光の美しさを、静かに表現した作品。最終行の「般若心経」は、あまりの美しさに思わず唱えてしまったのでしょうか。誰にでもある素朴な拝日信仰です。
−谷−
谷で賢治が実際に見た幻覚でしょうか。シェークスピアの「マクベス」を読んでいただろうと推測できます。
手入れでは1〜9行に斜線が引かれていたそうですが、1から9行はこの詩の全てです。
−陽ざしとかれくさ−
手入れでの題名が「幻聴」となっているところからも推察されるように、枯れ草の上に寝転んでまどろんでいる時に聞こえた幻聴を書いたものかと思われます。「チーゼル」は、高さ1.5〜2mほどの二年草で茎に硬く細かい棘があるそうです。寝転んだ近くにその木があるのでしょうか、あるいはその木の棘に刺された感覚を思い起こしているのでしょうか、どこかチクチク感じながらうとうとすると、空では烏が器械のような軋り声で鳴くのが聞こえ、そんな中で2人の不思議な会話が聞こえてくる。「かわりますか」という問いかけと、それに対する答えとして「かわります」「かわりません」―これらの問答は賢治の心の内に常に諸行無常の思念が潜在していて、このような幻聴を聞かせたのではないか、という意見がありました。
−雲の信号−
春のうららかな、実に気持ちのよい情景を心から思いっきり讃えながら、それとは裏腹に、字下げの部分においては覚めた意識が働いています。「雲の信号」は「禁欲」を促す信号で、さわやかさを満喫しているその瞬間にも、空の高いところでは「雲」が無言の警告を発している…という厳しい詩です。筆者は、冒頭の言葉の清々しさに共感して、なんて気持ちのよい詩だと思い込んで、雲の信号の意味を見落としていました。今回の読書会での新しい発見でした。
−風景−
「カルボン酸」とは、白い色が似ているので雲の比喩によく使われるそうです。前半の穏やかな光景に対して後半では荒々しい風景へと変化しています。「さっき」と「いま」で、時間の経過があったのでしょう。あるいは、ひばりのダムダム弾が契機となって風景が一変したのでしょうか。「ゐなか風」とはどういう意味で使っているのでしょうか。「ある農学生の日記」の中で、桜の花びらを蛙の卵にも例えており、その俗っぽく古風な固定されたイメージが嫌いだったようですが、そういう気持ちを「ゐなか風」とい言葉に置き換えて蔑んだのでしょうか。この最後の2行は、手入れでは抹消されています。
−習作−
実験作というような意味で作られた作品。字下げの上部に横書きされた詩は、歌劇『カルメン』の劇中歌「恋の歌」の一節です。この歌詞を口ずさみながら歩き、そこで見えてくる辺りの光景に対する心の声をそのまま表した詩だと思われます。「柘植さん」は農学校の同僚教師。その同僚の口調を真似て、手入れの行き届かない畑を皮肉ったり、そんな自分を客観視している自分がいたり、と、多重層的な賢治の心理が見えて面白い作品となっています。