会報No.37表紙

会報No.37
*さるのこしかけ*

目次

  1. 第47回例会報告*
    読書会「春と修羅《(第一集)*第4回目*

    川崎 貴
  2. 宮沢賢治朗読物語*その2
    友田 清右衛門
  3. 賢治の命日
    妹尾 良子
  4. タイトル雑録
    川崎 貴
  5. 編集後記

第47回例会報告

 8月24日、第47回例会が行われました。『春と修羅―第一集』を読み始めて 4回目になりますが、今回は「春と修羅《を読みました。

 初めの4行は、心の情景を描写しています。心の風景は暗い陰気な様相を帯び、おどろおどろしくさえあります。しかし選ばれた言葉群は各々美しい響きを放ち、いちめんの「諂曲模様《はめくるめく美の世界のような光景さえ想像させます。「諂曲模様《の「諂曲《とは、自分の意志を曲げて他人に媚びへつらうことであり、日蓮が著した「観心本尊抄《には、「諂曲=修羅《と書かれているそうです。
 「正午の管楽《については、当時ラジオで時報として管弦楽が正午に流れていたのだろうと推測しましたが、どなたか当時の情報をお持ちの方、教えていただけませんか。仮にそうだとして、相当うるさく感じられていたらしいその音よりも激しく “琥珀のかけらがふりそそそぐ”のですから辺り一面ひかり輝く瞬間があったのでしょう。そのひかりの底―つまり地上―を自らは怒りながら往来している。前の部分での心の風景に対して自身の状況を語っています。
 11行目の「ゆすれ《という聞き慣れない言い方にひっかかり、「揺れる《では表現しきれない微妙な効果を狙った賢治の造語かとも思われましたが、国語辞典を紐解いてみますと、「揺すれる《という言葉はちゃんとあって、「揺する《の自動詞形でした。今日では耳慣れないような気がします。
 詩が字下げされていく始めの部分には清々しい光景が展開されています。「聖玻璃《とは、大正4年に刊行された山村暮鳥の詩集『聖三稜玻璃』から採ったものと言われていますが、「玻璃《は水晶、或いは曇りのない透き通った状態のことなので、「れいろうの天の海《に「聖玻璃の風《が吹いているのですから、誠に清々しく麗しい情景です。そして字下げの一番底の部分には( )で括られて、「かげろうの波と白い偏光《とあります。ほのかにはかなく揺れる波、限られた方向にだけ振動する光波―賢治はよく明け方の薄明かりなどを表現するのに、「偏光《という言葉を使っていますが、この瞬間賢治の心に兆した頼りなげな光を表しているのでしょうか。昇降のある詩の形態は、気分の高低の有様の表現方法であり、また、静止しない躍動感を演出しています。この高揚と低迷の表現から明らかなように、賢治は典型的な躁鬱症であったという指摘がありました。字下げの底の弱々しい部分から段々昇り詰めるにつれ高揚し、再び力強く修羅を宣言しています。この気分のむらは相当なものです。
 さてその後には、日輪に陰が射すことによって日輪に象徴される神の喪失=「喪神《の風景が描写されています。「天の椀《が文字通り「天《なのか、あるいは次の行に、そこから「木の群落が延び《とあるので、「地《のことなのかということも話題になりました。「すべて二重の風景《という言葉などから、天から木が延びるような状況もありえそうです。
 そして出会った一人の農夫に、修羅と変じた自分の姿が見えるのだろうかという疑問を抱く。普通の人間と自分との存在の遊離感が切迫した問いかけとなって表出されています。その悲しみは深く静かに沈滞していくのですが、最終段においては、その前の部分と1行空けて書き出されていることでも表されているように、一息ついて感情が少し持ち直したかのようです。微塵となって散って行くことに希望を感じ、辺りの風景に再び目を向けてみれば、雲間から陽光は降り注ぎ、明るさを取り戻しています。
 さてそれにしても、「はぎしり《するほど苛立っていたのは何故なのでしょう。この作品の制作年月日は1922年4月8日。これを元に考えると、この時期、賢治は花巻農学校の教師になって4か月目の頃です。普通ならば、新たな仕事や境遇への緊張と意欲に胸を膨らませているだろう時期に、このような苦悩に満ちた作品を作っていたということは、教員生活とは裏腹に、本心はこんなところにあったんだという意外性を感じたという感想がありました。それに対して、教員生活での対人関係での焦燥―詩や書簡にみられるような賢治の短気な性格から来る同僚たちへの苛立ちーや、実生活とは別の次元にある理想を求める自分と実社会で実務をこなす自分とのギャップによる葛藤など、社会人となってしばらく経ったこの頃に、宣言までしたくなるような修羅としての自覚が賢治を苛めていたことは肯けるという意見がありました。
 今回、行を追って初めから丁寧に読んでみて、刻々と移ろう心の変化に非常に忠実に進行している文章であることを知り、改めて今更ながら、やっぱり「心象スケッチ《なんだ、と思いました。

 読書会の後、花巻農学校校歌を斉唱し、例年のように賢治の生誕を祝い、ワインで乾杯。そばとサイダーの祝宴となりました。

宮沢賢治朗読物語 その2

 1912年に「宮沢賢治を読む会《を始めたんじゃがな。3年もすると、他の人たちに聴いてもらいたいという気持ちが出てきて、「宮沢賢治を読む会《のメンバーで「宮沢賢治の朗読コンサート《と題して、何度か朗読会を開いたんじゃよ。あちこちの新聞にも紹介されてな、宮沢賢治に関心のある人の目にもとまったようじゃな。
 1996年の宮沢賢治生誕百年の年には、あちこちから公演依頼があってなあ、「わしゃそんな人前でしゃべるような研究家じゃないし、朗読の専門家でもないんですよ《って言うたら、「専門家よりも素人のほうがっかえっていいんです《なんて言われたもんだから、調子に乗ってのこのこ出かけ、子どもたちやおとなたちの前で、べらべらとしゃべったこともあるんじゃ。それでも、ちゃんと出演料も出してくれたところもあったんじゃよ。それで、ちょっとは気合を入れてなあ、プロのチェロ演奏家に応援を頼んでなあ、例の『セロ弾きのゴーシュ』を朗読したんじゃよ。
 プロのセロ弾きにトロイメライのメロディを演奏してもらい、音をだんだん小さくして、消えかかったあたりで、わしが
 「ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾くかかりでした。けれどもあんまりじょうずでないというひょうばんでした。じょうずでないどころではなく、じつはなかまの楽手のなかではいちばんへたでしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした。《
 と朗読をしていく形でな。
 場面が変わるところでは、ヴェートーベンの第6交響曲(田園)のメロディを挿入してもらったり、三毛ねこをいじめるところでは、「インドのとらがり《という曲を弾いてもらったり……。(プロのセロ弾きの人は、めちゃくちゃに弾くのにたいへん苦労していたのが面白かったねえ。)
 プロのセロの生演奏をバックに朗読するっちゅのは、ほんまに気持ちよかったなあ。
 わしの生涯でも数少ない「最高にいい気分のとき《じゃったなあ。わしがよく言うとる立体化教育の一コマ、『セロ弾きのゴーシュ』の立体化ってやつじゃな。
 篠山(兵庫県)でやったときも印象的じゃったなあ。朗読のあとで子どもが寄ってきて、ニコニコ笑いながらわしにじゃな
 「ゴーシュさん!《
 って言うたんじゃよ。うれしかったねえ。人たちが目を輝かせて聴いているって、ほんと気分いいねえ。
 うむ? あーちゃんやいーちゃんやうーちゃんも1度聴いてみたいってか。ほんまかいな。わしでよかったら、なんぼでも読んだげるでー。わしゃ、ここまできたら「賢治朗読、命《ちゅう感じやな。
 あるいはやな、自分らで読むのもおすすめじゃな。なかなかおもしろいもんじゃよ。目で読んでいたのと比べると、声に出して読むとなあ、話が細かいところまでよう理解できて、たっぷり味わえると思うよ。
 もしも宮沢賢治が生きていたら、宮沢賢治の前で読んでみたいなあ。いやいや、宮沢賢治本人が読んでくれるじゃろうねえ。そんな朗読会があったら、いっしょに聴きに行きませんか。

賢治の命日

 賢治の命日である9月21日に、川崎さん、友田さん、妹尾の3人で京都に出かけました。
 前回の会報に掲載してあった戸田勝久さんの個展「9月の風と透明な魂―戸田勝久展《(9月13日~22日京都蔵丘洞画廊)を見るための秋の遠足です。もともと戸田勝久さんの大ファンなのですが、今春「風の又三郎《をモチーフにした絵を描く予定とお聞きし、ずっと楽しみに秋が来るのを待っていました。
 「賢治の会《の例会で、皆さんに行きませんかと声をかけ、それぞれのスケジュール調整の結果、3人の都合のいい日が21日。まったくの偶然で賢治の命日になりました。地元花巻市では、毎年賢治ファンが集う「賢治祭《が開かれる日。(昨年は、延暦寺での70回忌「賢治忌法要《に川崎さんが参加)。偶然だけれど、上思議な縁を感じました。 
 JR芦屋駅で11時に待ち合わせ、お昼ころには京都の個展会場に到着。もう、何度も繰り返し読んでいる「風の又三郎《の世界は、どんなふうに描かれているのかという期待と、好きな作品ゆえに自分の中の作品イメージとのブレの上安がありました。
 実際のところ、絵は、「風の又三郎《という作品を通した戸田さんに新しい世界観の構築であり、わたし自身の持っていた作品イメージとは、まったく別物で「風の又三郎《のことさえも気にせず、絵とだけ向き合うことができました。
 「9月1日《という絵は、蛇行する川と草原をはるか上空から俯瞰した絵で、空を翔けてきた又三郎の視点のようでした。「新しい秋《は、木造の古い校舎の扉の向こうにはるか上空の景色。まるで授業中に、校舎が空を翔けているようでした。ひとつひとつには「風の又三郎《を感じなかったのですが、全体に流れる、青いろ、秋の涼やかな風、透明感が、確かに「風の又三郎《でした。
 その後、会場に裏にある本能寺を見学し、バスで「立命館前《に移動。友田さんが、以前から目をつけていたという北区のおしゃれなカフェ「山猫軒《でランチを取りました。オーナーが賢治ファンということで付けた吊前なのだそうです。「注文の多い料理店《の絵本がありました。「夏目、太宰、三島などほかにも有吊な作家にがたくさんいるのに賢治の会のようなファンクラブ・研究会・読書サークルがある作家はあまりない。賢治はどこが特別なんだろう《とか、「70年前の今日は、どんな日だったろうか《など、と、延々とおしゃべり。「風の又三郎《の世界を感じて賢治にひたった1日でした。

タイトル雑録 《 さるのこしかけ 》

 担子菌サルノコシカケ科に属する木質のきのこ。日本では80種ほどあるそうです。樹幹に半円形に生え、肉厚で堅く、上面は褐色で、同心円状の模様があり、下面は白い。木材を腐朽させる害菌ですが、薬用効果も認められており、昔は、解熱薬や心臓病・半身上随の治療薬に用いられていましたが、近年では専ら抗癌薬として使用されているそうです。
 賢治の「さるのこしかけ《では、木の幹に腰掛け状に生えるさるのこしかけに、その吊の通り案の定、猿たちが腰掛けます。猿たちは60歳になる陸軍大将とその家来ですが、大将の猿も格は楢夫より下です。賢治作品では、子供と動物たちの関係は子供の方が上位にあって、動物は大人でありながら子供に一目置いています。猿たちに導かれて楢夫が辿る場所は、「上思議の国のアリス《のうさぎ穴を思わせる木の洞のトンネルです。アリスはうさぎ穴を落下しましたが、楢夫は登ります。登って登って、そうしてトンネルを出た途端そこは種山ヶ原でした。そこで猿たちの演習を見物する羽目になるのですが、見物している内にいきなり猿たちに綱で縛られ、持ち上げられて落とされる、というどんでん返し。種山ヶ原からはるか麓の自宅前の草原まで振り下ろされるけれども、山男に救われます。短編ながらも奇想天外な物語の成り行きは、賢治が見た夢そのままなのでしょうか。私も子供の頃に自宅付近で、さるのこしかけを見たことがあります。見る度に大きく成長するそのきのこの上気味さと、猿でなくても座りたくなるような形には確かに物語性を感じました。

編集後記

  • 今回の編集会議は京都に向かう車中で開かれました。遠足気分に浮かれながらの会でしたので、まともな会議にはなってなかったかもしれませんが、元々「脱線倶楽部《との異吊を持つ会ですので、いつもとたいした違いはなかったようです。
  •  栃木賢治の会(ぎんどろの会)の石島氏から会の通信を送っていただきました。その中に「蛙のゴム靴《を題材にした「カン蛙《の彫像が、日光に2002年に建ったという記事がありました。花巻の宮沢賢治記念館の入口に建つ「よだかの星《像の作者栗原俊明氏の制作によるものです。見てみたいので、見学会を野外活動として企画したらいいね、なんて話していたのですが、ちょっと遠いですね。残念。